山岡鉄次物語 父母編4-1
《若き日の母1》湖面の煌めき
☆戦争は珠恵の糸取り生活にも、影響を及ぼし始める。
昭和16年珠恵は18歳、諏訪湖畔での製糸工女の生活も数年が過ぎていた。
支那事変が昭和12年に勃発してから、日中の戦争は拡大し続け、対米関係は大戦へ向かって流れていた。
戦時の統制経済は製糸業にも影を落とした。
昭和15年に生糸の配給統制が始まって、昭和16年には蚕糸業統制法の施行で生糸の生産が統制され、製糸業者は事業所の閉鎖や軍需産業への転換を余儀なくされた。
珠恵の働く製糸工場も軍需産業への転換の為に、一時閉鎖される事になったのだ。
中仙道と甲州街道が合流する温泉と大社のある諏訪湖の湖畔に、珠恵が来てから、もう4年になろうとしている。
珠恵の働く製糸工場のある諏訪湖の対岸には、立派な社を持つ諏訪大社がある。珠恵は工場が休みの日にお参りに行ったことがあった。
諏訪大社は、長野県の諏訪湖の周辺に4か所のお社を持つ神社で、全国各地にある諏訪神社の総本社であり、 国内にある最も古い神社の一つとされている。
諏訪大社の歴史は古く、古事記の中では国譲りに反対して、諏訪までやってきて国を築いたとあり、また日本書紀には持統天皇が勅使を派遣したと書かれている。
諏訪大社の特徴は、本殿と呼ばれる建物がない。上社は御山を御神体とし、下社の秋宮は一位の木を春宮は杉の木を御神木としている。
古代の神社には本殿がなく、諏訪大社は古くからの姿を残している。
諏訪明神は風や水の守護神で五穀豊穣の神である。また武勇の神として広く信仰され、軍神として坂上田村麻呂や源頼朝、武田信玄、徳川家康らが崇拝をした。
現在は生命の根源、生活の源を守る神として、多くの人々が参拝に訪れている。
7年に一度の御柱祭も有名な祭礼だ。
宝殿の造替え、御柱選び、山出し、里曳き、境内に建てる一連の行事を御柱祭と呼び、 諏訪地方の6市町村の氏子たちが参加して行われている。
綺麗な眺めの諏訪湖の湖面の煌めきは、明治大正の工女たちの悲話を秘めている。
カラスが鳴かない日はあっても、工女が諏訪湖に飛び込まない日はない、と云われるほど自殺者が多かった。
糸取りの成績が悪いと、検番に怒鳴りつけられたり、給金が減らされたり、そんな工女たちには地獄だった。また逃げ出すのも地獄だ。
追い詰つめられた工女たちは湖や川に身を投げた。彼女達は自分の死体が浮かび上がらないように、着物の袂に石をいくつも入れていた。
時々、諏訪湖や川から工女の水死体が浮かび上がることも、川沿いにある工場の水車に水死体が引っかかることもあった。
諏訪湖は明治大正の工女の涙の湖でもあったのだ。
珠恵は仕事が休みの日に、諏訪湖を眺めて過ごすことがよくあった。
仕事の大変さは辛抱出来たが、寂しい気分の時には諏訪湖を眺めて一人涙をこぼしていた。
昔の製糸工女たちの諏訪湖にまつわる悲喜こもごもは、聞き知っていた。
目から溢れる涙で、湖面はより一層煌めいて見えていた。
珠恵は郷里に帰る日、諏訪湖の見納めに湖畔に来た。
諏訪湖の湖面の煌めきは、工場で共に働いた人たちとの思い出が輝いて見えているようだった。
珠恵は行季一つの荷物を持って一人郷里へ戻って行った。
この年の12月、日本はハワイの真珠湾に奇襲攻撃をかける。