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山岡鉄次物語 父母編2-6

〈 若き日の父6〉終戦そして出会い

☆日本は悲惨な敗戦をむかえる。

昭和20年3月10日には東京大空襲があり、4月になると沖縄では米軍が上陸を開始した。
この後、日本の各都市部が多量の焼夷弾を搭載した米軍のB29爆撃機によって空襲されるようになった。

特に沖縄の戦いは民間人や少年少女を巻き込んで悲惨を極めた。

悲しい出来事として浮かぶのは、昭和19年8月の対馬丸事件だ。
国の疎開命令で学童ら1,788人が乗船した疎開船対馬丸が、米潜水艦の魚雷攻撃で沈められたのだ。
サイパン島で日本軍が玉砕し、米軍の沖縄上陸がせまっていると判断した政府は、沖縄から本土へ8万人、台湾へ2万人を送る疎開命令を沖縄県へ出したのだ。
疎開は軍の食料を確保し、戦略の足手まといになる女性や子どもらを立ち退かせるのが目的だった。

昭和20年、沖縄の少年たちは大人の兵隊とともに戦った。
米軍の上陸がせまるなか、防衛召集により14歳以上の少年学徒で組織した鉄血勤皇隊は正規部隊に併合され、実際に戦闘に参加し多くの戦死者を出した。

女子の従軍でも幾多の記録が残っているが、ひめゆり学徒隊の話は、現在も語り継がれる悲しい出来事だった。
ひめゆり学徒隊は、米軍による本格的な地上攻撃が始まった頃、師範学校女子部と沖縄第一高等女学校の生徒たちで構成された。
少女たちは負傷兵の看護要員として従軍し、若い命を散らせていった。



頼正の部隊は和歌山から広島に移って訓練作業をしていたが、その後名古屋へ移動した為に、偶然なのか頼正は原爆から命を守る事が出来た。

8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機エノラゲイは、その数時間前にマリアナ諸島テニアン島を飛び立ち、リトルボーイと呼ばれるウラン型原爆を広島に投下した。
広島では直後から数ヵ月の間に、約14万人が犠牲になったと推定されている。
米軍は被害を広範囲に及ぼす為に、原爆を高度約580mで爆発させたのだ。

続いてB29爆撃機ボックスカーはプルトニウム型の原爆を、8月9日午前11時2分長崎に投下し、500m以上の高度で爆発させた。
推定7万4千人が亡くなっている。

その後も原爆の被害者は広がり続けた。
広島と長崎において、原爆直後に放射性物質を含んだ雨に打たれた被害者による黒い雨訴訟は現在も行われている。

日本は多くの尊い命の犠牲を払って8月15日の終戦をむかえた。

頼正の部隊は原爆投下の直後、中心地が壊滅的な状態になった広島に戻って復旧作業をしていたが、ここで終戦を知った。

頼正は部隊が解散されると郷里の実家へ戻って行った。

終戦直後の混乱期、頼正は働きたくても郷里には職がなかった。
清く正しくでは生きていけない時世、頼正は闇物資の運び屋をしたり、知人の塩島のテキ屋商売の手伝いをしながら、何とか食いつないでいた。

塩島には婚約者がいた。
ある日、塩島の住まいに寄った時に、婚約者が妹と一緒に来ていた。

頼正は塩島の婚約者の妹を見かけた時に思った。
「まるで掃き溜めに鶴だな、映画女優の様な人だ。」

紹介されると妹は名乗った。

『珠恵です。』

頼正は少しぎこちなく答えた。

『山岡頼正です。』

珠恵は小柄で綺麗な人で、話すと笑顔が可愛いかった。

この後、頼正は珠恵と結ばれる。

☆そろそろ山岡鉄次の母になる人の物語が始まる。

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