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山岡鉄次物語 父母編7-3

《 家族3》再出発

☆家族は新しい場所でゆとりのある生活を送る。

蒼生市の織物業は国の統制で落ち込んでいたが、戦後の復興需要により盛り返していた。


蒼生市は、古くから織物の名産地であった。綺麗な湧き水が豊富なことと、農業に適さない環境から養蚕に力を入れて来たことで織物が盛んになった。

しかし戦時下の統制で、軍需品を作るために日本全国から金属がかき集められ、蒼生市からは約9,300台の織機が徴用され、織物は生産不能の状態に陥っていた。

戦後になると、蒼生市は織機を取り戻し景気の良い時代が訪れる。
働き手が不足し、織姫と呼ばれる機屋で働く女性の争奪が起きた。
絹織物問屋が集まる町では、毎月市場が開かれて全国から商人が集まり、街全体も活気づいた。

その後、外国から安い織物が大量に流入するようになると状況は変わる。高品質な織物はどうしてもコストや手間がかかってしまい、消費者が海外の安い織物を購入するようになった。
機屋は大打撃を受け、次々と廃業していった。

現在では2代目3代目の知恵と努力で、織物の街は復活している。

伝説の話だ。
蒼生市の織物の起源は紀元前約200年、中国では秦の始皇帝の時代。
徐福は始皇帝から不老不死の薬を探すように命じられ、財宝を積んだ船団を組んで日本に渡来した。
不老不死の薬を探す徐福は、日本全国を探し回った。
徐福は最後に蒼生市にたどり着き、薬を探しながら村の住民に養蚕や機織りの技術を教えたと言い伝えられている。
徐福の墓だと考えられる場所や、徐福を祀った徐福雨乞地蔵祠が今でも蒼生市に残されており、地元の人々から感謝されている。


昭和27年頃の蒼生市の織物業は、織機がガチャンと織れば1万円になると云われた、ガチャマン時代の最盛期を迎えていた。

市内中心地西側の裏街に、飲食店が集まった盛り場が出来つつあり、飲み屋の女の嬌声と共に金が落とされていた。
この盛り場は西裏と呼ばれ、全盛期を迎えていた。
そこは風呂敷に現金の束を包んで、首に担いだ織物業の主人達で賑わっていたのだ。

現在この一画では、寂れてしまった町並みを見直し、レトロを売り物にした再活性活動が始まっている。



頼正と珠恵の製パン屋は○に三のマルサン製パンとして再出発をする。
使用していた2人の職人も一緒に移って来ていた。

運搬用に中古のオート3輪を手に入れた。より早くパンを運ぶことが出来て、商店には歓迎された。
卸先の開拓にも一役かって、広い範囲の取引につながった。


好景気もあって、頼正と珠恵は新しい場所で家族の為に製パンの仕事を懸命に続け、生活に少しばかりのゆとりが出来てきていた。

頼正は店の職人たちや同業の者とネオンの街で酒を楽しむ事が出来た。
頼正が酒好きになったのも、この頃なのかもしれない。

頼正の借りた店舗兼住宅の家主は熱心な創華教会員だった。
この頃の創華協会は、勧誘が強引で攻撃的な布教活動をしていた。無理やり信仰を押し付けるというやり方が取られていた。
頼正もしつこく勧誘された。信仰しないと商売が上手くいかなくなるような事まで言っていたが、頼正は考えておきますと答えておいた。
創華新聞はお付き合いで購読契約をした。


頼正と珠恵の2人の娘、4歳の睦美と2歳の幸恵は店の使用人にお嬢様扱いされて可愛いがられていた。
現在、父母の思い出をたどる時、年老いた姉たちは私山岡鉄次に「私たちはこの頃お嬢様だったんだよ。」と遠くを見つめるような目をして話を繰り返した。

頼正と珠恵は仕事が休みの日に、新しい洋服を着せた睦美と幸恵を連れて、市内の小さな遊園地に遊びに出掛けて家族で楽しむ事も出来た。

私、山岡鉄次はこんな時に誕生します。


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