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要らない失敗

「あの時失敗したおかげで今がある。」
「あの時苦労して良かった」みたいな話、世の中にうんざりするほどある。
対して、失敗しなきゃ良かった、苦労なんてしなきゃ良かった、そんな話はいくつあるだろう。
あの時失敗して良かったと思える根拠は、果たして正当なのか。

私はメンタルを病んで働けなくなった。家族と縁を切った。お金も無くなった。社会的地位というほどのものも無かったけど、普通に働いているという状況は無くなった。死のうともしたし、人間関係もダメにした。
今は何だかんだ毎日幸せに生きている。でも、あの時の経験があって良かったなんて一度も思ったことがない。

大学進学で東京に来た時、絶望した。東京で育って、塾にも普通に行かせて貰えて、習い事ももさせてもらって、食べ物に困ることなく、家も土地もお金も沢山あって、親が資産家で、、みたいな育ちをしてきた人間を知った。頑張れる土台がある人を知った。親が行けって言うからって理由で大学に通う人を知った。
私の家は、女が大学に行くなんてと反対するのが普通だった。もちろん家にそんなお金も無かった。お肉が買えない日があった。色んな人からお夕飯のおかずを譲ってもらうことも多々あった。見兼ねた近所の方が、よく食材を恵んでくれていた。
自分が大学に行くために、勉強ではない部分で苦労していたことすら、知らなかった。
その苦労をして良かったと思ったことは、1度もない。

失敗して良かった。苦労して良かった。そう言えるのは、要らない失敗や苦労を知らないからだと言いたくなる。マイナスを0にするための失敗や苦労と、まともに勉強や仕事に取り組んだという0よりプラスに向いた苦労、前者はして良かったと言えるようなものではないし、そのせいで無駄に嫉妬や恨みを覚える気がする。

そして、どちらの失敗や苦労にしても、していなかったらというコースは「たられば」になる。つまり、もし失敗や苦労をせずに過ごせたというルートと、現実に失敗や苦労をしたルートは、比較ができない。
「電車に間に合わなくて乗れなかったけど、その電車が事故にあったから、乗らなくて良かった」
こういうの、本当に比較できて居るだろうか。ちょっとスピるけど、乗れていた世界線では事故は起こっていないかもしれない。
どうして、乗らなくて良かったと思えるのだろう。
失敗して良かったと言える人間は、そう思うことにしているだけで、きちんと比較をしていない気がする。

私もそう思うことはある。仕事に遅刻して、しかも仕事も上手くいかなかった、でも夜に食べるプリンが美味しいからオールオッケーと。
でもそれは、プリンが美味しいからであって、仕事に遅刻したからでも仕事で失敗したからでもない。なんなら全てが上手くいった日に食べるプリンの方がきっと美味しい。

毎日飲むジュースより、喉が渇いてる時に飲む水の方が〜とか、飢えているときの白いご飯が〜とか、、、言いたいことはわかるけど
喉が乾かない人生の方が、飢えを知らない人生の方が、私はずっといいと思う。
飢えの経験があって食べるご飯は美味しいかもしれないけど、飢えて良かったとはならない。飢えというマイナスと、飢えの時に食べるご飯の美味しさを足し合わせたら、トータルはマイナスだ。私は、やはりプラスにできない。

失敗や苦労をした経験は、周りまわって活きてくることがあるかもしれない。それでもはやり、プラスにできない自分がいる。
失敗も苦労も、必要無かったと思う。

みなさんは、必要無かったと思う失敗や苦労、ありますか。必要だったと思う失敗や苦労は、マイナスを0にしたものですか?0からプラスにして行くものですか?

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