見出し画像

『俊寛』『音菊曽我彩』『権三と助十』 辰 歌舞伎座 錦秋十月大歌舞伎

<白梅の芝居見物記>

 平家女護島(ヘイケニョゴノシマ) 俊寛

 『平家女護島』は、享保四年(1719)八月に大坂竹本座の人形芝居として初演されました。作者は近松門左衛門。全五段の時代物で二段目の「鬼界ヶ島の段」が通称「俊寛」として現代でも度々上演されます。
 タイトルにある「女護島」とは、海上にある女性のみが暮らしている島とされる伝説上の地名です。こうした伝説は日本にだけあると考える向きもあるようですが、私はむしろ世界的広がりのある「人魚姫伝説」とも関連付けて考えるべきものかと思っています。

 本作では女性だけが暮らす島というより、この島(日本)が女性によって護られてきているクニであるという作者の思いがタイトルに反映されているのだろうと、私は考えます。
 原作を読めば分かるのですが‥。俊寛僧都の妻あづまや、源義朝の妻の常盤御前、それに鬼界ヶ島の住人千鳥という、三人の女性の生き様がこの作品の軸を成しています。そうした女性達によってこの国が護られてきているのだという思いが、作者にはあるのだと思います。
 ただ、何故タイトルに「平家」とあるのか‥。「源氏」ではないのか。

 この作品では、平清盛とその悪逆非道な行いを冗長させる瀬尾などの平氏方が敵役となっていまが、その悪逆から救ってくれる者達もまた、平家方の平重盛、教経、丹左衛門、弥平兵衛生宗清であることに注目すべきだと私は思います。
 また、原作を読むと、中世までの「源氏」が女系であったことが作者の念頭にあることは確かだと思います。
 そして、良し悪しは別として、政治の世界にあってさえ悪逆非道な権力に対抗できるのは女性の爆発的な「怨念」の力であるとばかりに本作では描かれており、そうした意味では本作は中世的な色合いが濃厚に残る作品と言えるかと思います。

 ただ、一つここで断わっておきたいことがあります。本作は源平の「世界」を用いているため悪逆非道な敵役として清盛を登場させていますが、この清盛は、源平対立の時代の史上の平清盛をモデルにしてはいないということです。平清盛がいまだに極悪非道な人物であるようにイメージされがちなのは、本作のような近世文芸の影響が強いように思います。近世におけるこうした清盛像は、天下統一期の人物をモデルにしているので気をつけたいところです。

 史上における清盛は決して極悪非道な人物ではなく、むしろ本作に描かれているような源氏を助ける平家側の人物であったことは間違いないと、ここでは詳細に踏み込めませんが私は考えています。

 『平家女護島』の本来のテーマを考えた場合、今上演されている『俊寛』は、原作の意図を越えて洗い上げられた作品世界を形作っていると言えるように思われます。作品の一部が、おそらく歌舞伎役者によって練り上げられ、近代的な感覚でも説得力のある古典作品となっていると言えるでしょう。
 また、俊寛は老人ではなく三十代後半の壮年での人物とされますが、そうした解釈の上で歌舞伎において上演を重ねて来たとは言い難く思います。もちろん壮年の俊寛があってもいいのです。その人物像に納得させる舞台を見せていただければ‥。

 この作品に今まで私自身何を感じてきたのだろうと、今回尾上菊之助丈の芝居を拝見していてつくづく考えさせられました。
 それだけ挑戦的な取り組みであったことは間違いないように思います。
 俊寛をどんな人物像として描いていくかはその役者さんがどのように描き何を感じて欲しいかによるのですから、どんな人物像であっても勿論いいのです。実際に菊之助丈の舞台に感激なさっている方もいるのですから、それはそれでいいことだと思います。

 ただ、ベテランの役者さん方の数々の素晴らしい舞台を拝見して来た者として、今回の菊之助丈の俊寛に何が一番足りないと感じるのかと考えた時、歌舞伎という古典演劇にとって、その人物として自然に説得力をもって舞台に存在していることがなにより重要であるのかもしれない、ということを今回改めて考えさせられました。
 菊之助丈に限ったことではないですが‥。自分自身が舞台の何に不満を抱きやすいかをつきつめると、舞台の上におけるその人物としての説得性に尽きるように思われます。中堅や若手の芝居を拝見していると殊に感じることです。器用で技巧派の役者さんにとっては、むしろ一番の難関であるかもしれません。

 今回の『俊寛』の舞台を拝見していて今までの舞台と違って私が一番強くおぼえた違和感は、まるで「ストレートプレイ」を見ているような感触を覚えたことにあります。
 役者さん方が台詞自体に非常に説得力を持たせる芝居作りをしていたからかもしれません。そのおかげで今まで聞き流していたような台詞がストレートに投げかけられてくるのを感じる箇所がいくつかありました。ただ、ストレートプレイの感触に傾いていた分、義太夫狂言として、歌舞伎の古典芝居としての味わいがかなり後退してしまっていた感は否めませんでした。

 その違和感を最も感じたのが、ベテランである中村歌六丈の丹左衛門尉と中村又五郎丈の瀬尾であったのが、私には大きな驚きでした。先月の『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』の芝居作りの在り方をそのまま『俊寛』に持ち込んでしまったような感覚の舞台でした。先月は新作歌舞伎ですので「心理劇」としての手法で十分にベテランの存在感をみせていただくことができましたが、古典においては役の「性根」をもった上で古典的肉体と台詞術の充実が欠かせないことを今回強く感じました。芝居の難しさを非常に感じさせる舞台であったというのが、私の偽らざる感想です。

 中村萬太郎丈の成経、上村吉太朗丈の千鳥は、緊張感ある舞台がいい方に働いていて健闘されていたと思います。中村吉之丞丈の康頼はその反対に緊張感がなく役としての工夫もみえない舞台であったのがとても残念でした。吉之丞丈は『権三と助十』の勘太郎ではいい味を出していましたが‥   

 音菊曽我彩(オトニキクソガノイロドリ)

 曽我物の世界を扱っていますが、副題に「稚児姿出世始話」とある新作です。尾上菊五郎丈の誕生月とまだ幼き尾上眞秀丈の将来を言祝ぐ一幕と言えましょう。
 30分ほどと短いですが華やかで見応え十分な一幕となっていました。
 眞秀丈の箱王相手に、今の尾上右近丈の前髪の一万。曽我物において稚児姿の十郎というのはいささか違和感を覚えないでもないですが、「音羽屋」という屋号が示す系統においては、稚児姿の二人五郎的な一幕があってもいいのかもしれません。

 菊五郎丈の工藤祐経、中村魁春丈の大磯の虎、中村芝翫丈の鬼王新左衛門で大歌舞伎の格と華やかさがある大舞台の醍醐味を味わわせてくださいます。
 程よい緊張感のある舞台で、右近丈のみならず、小林朝比奈の坂東巳之助丈、秦野四郎の中村橋之助丈、化粧坂少将の尾上左近丈という若い役者さん達が、大立役者と混じっても違和感がないくらいの成長を見せてきているのが、大変頼もしく思われました。

 今年は、歌舞伎芝居の年中行事の中でも大きな位置をしめるべきものと言える「吉例顔見世興行」がないことに、私としてはとても寂しく感じていたのですが‥。十月にこうした一幕を拝見出来ることは、観客としても大変ありがたく、歌舞伎の明るい未来を感じさせていただくことの出来る一幕でした。 

 権三と助十(ゴンザトスケジュウ)

 岡本綺堂作、大正15年(1926)東京歌舞伎座初演。いわゆる大岡政談を題材に江戸の庶民とその生活を活写した世話物。大岡政談とは大岡越前守忠相の名裁きを扱った作品群で昭和まではお茶の間のTV時代劇としても親しまれていたジャンルです。
 大岡越前守は、徳川吉宗が八代将軍に就任した翌年の享保二年(1717)江戸町奉行に登用されました。享保の改革を推進し20年間にわたって江戸の行政に敏腕をふるった人物です。「大岡政談」が生まれるにふさわしい人物であったと言えるのでしょうが、その作品群のほとんどは越前守自身とは関係のないフィクションを含めた事件や裁きを扱ったものと言われます。

 本作は大岡政談の「小間物屋彦兵衛の一件」を題材にしています。大衆向けの作品でありながら、江戸時代の市井の庶民生活が活写されいて、笑いの中にも市井の人物を鋭く描き出している秀逸な作品と言えるのは間違いないかと思います。
 今回もその作品の力によってそれなりに見せてはいますが、古典演劇として演じ継いでいくという意味では、こうした世話物の難しさをいやが上にも感じさせられた舞台であったというのが正直な感想です。

 仲良しの一座で楽しいそうに舞台が作られているという点では、歌舞伎ファンにとって全く楽しめないというわけでもないのでしょうが‥。
 歌舞伎に馴染みのない方にこれは是非見るべきです、とはなかなか言いにデキであることは否めません。
 出演している役者の皆さんがそれぞれにそれなりに平均点の芝居はされているのだとは思います。しかし、作品全体として見た場合、戯曲の深さを感じさせる説得性をその舞台から感じることは出来ませんでした。

 近代的な感覚の役者さん達にとっては単なる江戸時代の喜劇的な芝居に過ぎないのかなと思えてしまったのは、やはり役としての性根がどの役者さんにも薄かったからなのかもしれません。
 心理劇ではないですが、やはり一つ一つの場面でその役としての生きた思い入れが活写されていないと「上手い下手」の次元を越えて観客の胸に響いて来ないことを実感します。

 この作品は例えば義太夫狂言の時代物のような、公的立場の人間としての生き様とはほど遠い人物が描かれています。どこにでもいるような、ちっぽけな「小人」。人の災難も見て見ぬふりをしてしまうような、正義感よりは打算が先行してしまうようなどこにでもいるような人物。ただ、そうした行いに対して後ろめたさは感じてはいる‥。
 「小人」という書き方をしましたが、どんな立派な人物の中にもある人間としての弱さや人情、逆境をなんとかしようとする知恵‥、等が描かれているからこそ、どんな人の心にも響くのであり、上演を重ねる魅力が本作にはあるのだと思います。

 そうした意味で今回の舞台は全体的にどの役においても役の上辺だけで演じられている感が否めませんでした。世話物であってもその役としての「思い入れ」をしっかりと表現出来る「技術」の上に、遊び心をもった舞台を目指して頂けたらと願ってやみません。
                       2024.10.13

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?