『マハーバーラタ戦記』に思う
白梅の「古典を考える」
どんなに感動しても、もう一度見たいなと思っても、基本的に一つの作品を一度の観劇にする、と私は決めています。
そんな私が、今回二度観劇させてもらったのは、『マハーバーラタ戦記』を古典にしたいとの熱意に共感したからです。古典となるには何をどう目指していくべきなのか、私なりに考えて見ようと思ったのです。
ただ、一度ではそのとば口も見いだせないでいましたが、二度見ることによって、さらに考察しなければならないことが広く深くなってきてしまい、考えは混迷するばかりで当分収集がつきそうにありません。
今のところのメモ書きのようなことを書いてみようと思います。
若い頃は、同じ興行に何度も通いました。観劇経験の少なさを補うためという自分自身への言い訳があったからですが‥。芝居をに通うのが好きだったからに他なりません。
ただ、何度も通うことで大変勉強になったので、今の定額制度も、学生さんには金銭的ハードルがやはり高いかと思いますが、良い試みだと思います。
私自身、時間的・経済的・疲れ知らずの肉体的余裕があれば、劇場にへばり付いていた程、芝居を見ているのが好きなのですが‥
そうも言ってはいられないのが、悲しい性分ではあります‥
「その暇があったら、もっとやるべきことがあるだろう」
何をするにも自分なりの「理由」がなくてはならない。「新しい経験」をすることと「家族との時間」を過ごすこと以外に、自分に言い訳できる「理由」がないまま遊んだことが、私にはほとんどありません。
変人と言えば変人の部類でしょう。
そんな人間なので、もちろん(?)古典をただ楽しむということなど出来ません。なぜ、古典として存在しているのか‥。何を学び、何を伝えていくべきなのか‥。そういったことを、考えずにはいられないのです。
H29年10月に『マハーバーラタ戦記』が上演されたとき、この叙事詩に中途半端ではありますが挑戦して、非常に多くのものを学びました。
例えば、日本には「申し子譚」というものがあります。そうした奇瑞を語り子供を授けてくれることがある譚を流布させることで、寺などへの信仰に導く宣伝効果があるため生まれてきたものであったのだと思います。
子供を授けてくれるという信仰がいつ頃まで根強くあったのかは分かりません。ただ、実際に子供を授ける機能を有していた寺があったのではないか。
神仏を信仰すれば本当に子供が授かるなどということは、現代人の感覚では信じられないことですが、子授けに有用な手段が知恵が確かにあり、昔から試みられていたのであろうことを、この叙事詩から私は学びました。
私は、1988年、ピーターブルックの9時間に及ぶ上演の『マハーバーラタ』を見ています。ただ、その作を消化できるだけの素養も洞察力もなく‥。すごいらしいが、ただ暗い芝居でよくわからなかった、という記憶しかありません。その頃、その叙事詩に挑戦しようと、もしかしたらしていたかもしれませんが、多分早々に挫折したのでしょう。全く記憶に残っていません。
それに比べれば、今少しは考察することが、出来るようになったようには思います。
私は、歌舞伎の初演の時から、この叙事詩には、紀元前後の歴史的事実がなにがしか反映されているのではないかと思い当ってはいました。ただ、今回の上演でその考えはより強くなりました。
インド神話は大変重層的で、ヒンドゥー教の三大神である、ヴィシュヌ・シヴァ・ブラフマーでさえ、一言では言い表わせません。時代や地域によって違う伝承をもつ信仰をすべて飲み込んでいるらしく、非常にわかりにくく複雑なのです。
この叙事詩も、様々な成立過程を経たものを羅列しているようにも見えるところが、かなり複雑で、わかりにくい部分が多いように感じる原因となっているようです。
ただ、歌舞伎の初演の頃より、マハーバーラタに関する著作も増えており、川尻道哉署『カルナとアルジュナ』(勉誠出版)など、大変面白く読みました。訳文がわからなかったり、原典ではどう表現されているのか、気になる箇所も多いのですが‥。この叙事詩が”演劇”として成立する素地を十分持っていることは、これを読むだけでもよくわかります。
今回、鶴妖朶(ドゥルヨーダナ)を中村芝のぶ丈がつとめており、その好演により、非常に印象に残る人物となっています。
ドゥルヨーダナは、叙事詩では「男」とされていますが、歌舞伎ではどうして「女」として描いたのか‥。どこかで説明があったのかも知れませんが‥。たまたまなのでしょうか‥。
ただ、これは改悪ではなく、この人物の本質をついており、本来女性で描くべき人物で間違いないと私は考えます。
叙事詩の訳を読んでも、それは決して間違っていないと思います。
迦楼羅(カルナ)の死骸を前にして、その死を取り乱して嘆く姿は、決して勇猛果敢な戦士の姿ではありません。詳細な説明はここでは出来ませんが、叙事詩におけるドゥルヨーダナの勇猛な姿の描写は、恐らく弟の道不奢早無(ドゥフシャーサナ)を描写したものでしょう。二人で一人として行動を共にしており、詩を書いた人物もそれを知って書き分けていたのだと私は考えます。
今回の上演で一番惜しい点は、迦楼羅を中心にしながら、その迦楼羅の葛藤と死を十分に描き切れていない点だと思います。
皆さんの熱意で、今回、初めに見たときよりも二度目の方が、舞台の面白さが数段上がっていました。
やはり歌舞伎は役者で魅せる演劇だと思います。
ただ、この叙事詩の伝えている出来事は、世界史的にも大きな影響を世界の各地に与えているのではないかと私は考えています。
ヨーロッパでは古代ユダヤ教からキリスト教が生まれ、インドではバラモン教からヒンドゥー教に発展し、中国では上座部仏教から大乗仏教へと発展していく。そうした契機となるほどの問題をつきつけた大きな出来事だったのだと私は考えます。
話はそれますが、日本ではキリスト教が国民的宗教として発展することはありませんでした。それは何故か?
ここのところ、信仰心や宗派の教えから抜けきれない思いの上に書かれたものではなく、自然科学的に仏教を解析してくれる著書が出てきていますが、そうした著書が教えてくれました。一見全く違うように見えますが、キリスト教と浄土教は同じ考えの方向性から出てきていることが指摘されていました。
キリスト教的他力本願の救済の方向性が、形は違っても、すでに阿弥陀信仰を通して日本に広く深く根ざしていたため、キリスト教が入り込む余地がなかったということでしょう。
迦楼羅の葛藤がどこにあるのか、やはり、ドゥルヨーダナや、アルジュラ、クリシュナ、ユリシュナをもっと掘り下げないと、かえって迦楼羅の葛藤が浮かび上がって来ません。その葛藤は、後に残された者の葛藤にもなっていくのであり、その死をどのように昇華させたのかということが本来見えてきてもいいのではないかと思えます。
かなり散漫ですが、世界史に影響を与えてきた作品を扱うと言うことは、それなりの覚悟も必要になるのではないかと思われます。
この叙事詩が、今の世の中にも大きな課題を突きつける問題を含んでいることは確かであり、その問題に切り込んでいく志なくして、今後世界を相手にし、後世に残る古典を創造していくことは、難しいようにも思われます。
2023.11.25