見出し画像

歌舞伎とは如何なる演劇か その六

日本人の美学をつなぐ古典芸能

少子高齢化で地球を救う

 ”芝居は女子供が見るもの”
 そんな言われ方をすることがありました。
 私は、ここにもう一つ付け加えて、”芝居は女子供、そして熟年層が見るもの”と、提唱していけたらと思います。
 ジェンダー平等ということが叫ばれる昨今ですから、こうした書き方は誤解を生むかもしれませんが‥

 現在、少子高齢化が日本の社会問題となっています。
 イーロン・マスク氏は、日本が早晩滅びると心配(?)して下さっています。
 でも、考えて見て下さい。
 日本の国花は”桜”です。
 そして、現在、桜の代名詞になっているのが”染井吉野”です。
 染井吉野は実を結びません。接ぎ木によって子孫を残していくのです。

 地球全体を見れば、地球の環境のことを考えれば、人間を増やし続けることは、決していいことばかりではありません。
 むしろ、悪いとさえ言える面が拡大しているように思われます。
 美しい地球を破壊し続けているのは、人間に他なりません。
 食糧危機の対策として、昆虫を食料とする工夫も大切かもしれませんが、そこまでしながら人口を増やすことに、何か意味があるのでしょうか。

 日本の少子化対策は、補助金だとかイクメンのための休暇制度とか‥
こうした政策で次世代を担う親や子を育てられるのか‥。
 かなり心許なく感じます。
 生まない世代でも出来ることはあるはず。
 老害になるより、年を重ねることを生かしたい。
 

女系社会の日本の知恵

 清和源氏を考えるところで言及していますが、中世までは、日本は母系社会、女系社会であり、外から新しい血を入れることで、活力を得てきた社会だといえます。
 民衆レベルが女系(母系)であるが故に、中世までは、天皇家が男系であることが求められたのだと、私は考えています。

 話はさらにそれるかも知れませんが‥
 昭和の終わり頃、日本橋の老舗の旦那衆を集めて子供の頃の日本橋に関して話をしてもらおうと座談会を催した時のこと。皆さんがその座談会にご夫婦同伴で出席をされた。そんなエピソードを読んだことがあります。何故なら、旦那衆は皆さんお婿さんであり、子供の頃の日本橋を語れないからであったからというのです。
 守るべきところは守りながら、外部から若い活力をいれていく。
 商人の世界に限らず、江戸時代から養子縁組は日本でも盛んにおこなわれました。

 よいものを”守る”姿勢と、時代の変化に負けない活力。
 こうした組み合わせが、日本の大きな力になってきたことは、間違いないと思います。

 もし日本に誇るべきものがあり、それを後世に伝えたいと思うのであれば、血筋にだけこだわる必要はないのではないか、と私は考えます。

”家”は後進を守り育てる場

 古典芸能を受け継ぐのに、血筋がおろそかにされていいと言っているわけではありません。
 古典芸能の世界に限らず、むしろ、最小単位の共同体である「”家”あってこその個人や社会」という考え方は、決して否定されるべきものではない、と私は思うからです。
 むしろそこを蔑ろにする世の中の流れに、私は大きな危機感を持っています。

 ”家”を大切にし、”家”を守るなかで子孫や後進に伝えていこうという古典芸能の在り方を、むしろ見直すべき時に来ているとさえ、私は考えます。
 共同体から共同体へ、時代を越えて受け継いでいくからこそ、知恵の集積が可能となります。
 古いものを破壊し、ただ、新しくすればいいものになるという考え方では、人間は同じ過ちを繰り返すだけです。

世襲は悪か

 世襲が悪い。既得権益を持っている者は常に悪。
 そうした考えを振り回している人に、新しい時代を切り開いていくことが果たして出来るのでしょうか。
 そんな人に国を任せる方が、よほど危険なことだと私には思えます。

 為政者としての素養を育む教育がなされない今の教育システムの中、優秀な成績であっても数年高等教育を修めただけ、為政者として真っ当な仕事がすぐ出来ると、どうして思えるのか。
 行政経験を少しばかり積んでそこで一目おかれたから‥。それだけで、優秀な人材がそろっていてもなかなかなし得ない、複雑なこの社会を簡単に改善していくことが自分には出来ると思える方が、私には不思議に思います。

伝統は多くの人に支えられている

 少しばかりスポットがあたる時があっても、それだけで大きな事が成し遂げられるわけではありません。
 むしろ、小才子がたまたま権力を握り、それを振り回すことの方がよほど危険だと思います。
 長い年月をかけて、さらに高みを目指していけるのは、回りで支えてくれる人、見守ってくれる人、意見を言ってくれる人がいるからこそです。

 芸の世界も、政治の世界も同じだと私は思います。
 同時代の横のライバルだけでなく、時間を越えた縦のライバルを突きつけてくるのが、伝統の世界です。

 長く、暖かく、厳しく見守ってくれる観客がいること。
 それが古典芸能の強みであるとともに重みでもあります。
 あの方の息子だからとか、あの方の残された芸や思いだからとか、まわりで支える方達の気持ちも、伝統を受け継ぐにはとても大切だからです。

 古典芸能が、演者のみならずそれを享受する側の存在がなくては成り立たないことを思えば、一方で、血縁だけが重要であると言えないことも、当然のことだと思います。

日本人として育つ

 人間の結びつきは、血縁だけに限られるものではない。
 そうしたことを考えたとき、日本も人口減少に危機意識をもつより、日本人の誇りに思う精神を後世に伝えられないことにこそ、危機意識をもつべきではないでしょうか。
 日本社会の底流にしっかりしたものがあれば、外からいくら新しい人々が入ってきても、その社会はゆるぎないと思うからです。むしろ、新しい活力が、日本を再生していくのだと思います。
 そして、日本の活力が世界に羽ばたいていく、そうした原動力にもなると、私は思います。

 日本人として生まれるのではなく、日本人として育つ、のだと思います。
 大切なのは日本人としていかに生きるのか、ということではないかと私は考えます。

熟年層への期待

 こう考えれば、子育て世代だけでなく、熟年層にも、後の世に対して大きな責任が残っているように思われます。
 自分の余生を楽しむだけでなく、働き盛りの世代の世話になるばかりでなく、出来ることはたくさんあるように、私には思われます。

 芸能の世界に限っても、古典芸能の世界に親子でお誘いする試みにも大きな意味があると思います。
 ただ、古典の世界は、広く深い。
 単なる体験に終わらせるだけのものではなく、広く深く掘り下げるに足る世界であると思います。
 人生経験も豊富で、時間に余裕が持てるようになっている熟年層が、子供とともに、それは血のつながった子供とではなくとも、一緒に古典の世界を楽しみ、学ぶということは、大変意義があることだと、私は思うのです。

婦女子庭訓としての歌舞伎

 話を歌舞伎に戻しますが、歌舞伎は家宰をまかせられる貞節な女性を育てる演劇だと、私は思っています。
 歌舞伎では、複数の男性を渡り歩いたり、手玉にとるような女性は描かれません。
 夫のために他の男性になびくふりをすることはあってもです。
 皆無だったとは言えないまでも、そうした、女性に嫌われる女性は、歌舞伎の主人公として残っていかないのです。

 頽廃しつつある時代に、”悪婆”と呼ばれる役柄が、歌舞伎に生まれました。悪事を働く中年女性ですが、そうした女性でさえそれは惚れた男のためにすること、というのがお決まりで、美しい女形がつとめます。

 何故なら、歌舞伎で描かれる女性にはモデルがおり、その人の生き方を見習おうとする精神が、歌舞伎の根幹にあるからです。
 そうした女性を見習おうとする伝統は、当初から大奥にもあったものです。
 同じ根から出ている、そうした女性としての理想像が歌舞伎にはあり、それが、民間にも広がっていったのだと思われます。

 ”大奥”というと、今はあまり清廉潔白なイメージがないように思います。しかし、詳しく説明するのは別の機会に譲りますが、江戸時代の政治を考える場合、この大奥の存在を無視することは出来ません。
 徳川家斉の時代の大奥にはかなり問題もあったのだと思います。
 ただ、国家の家宰をまかされるに足る伝統が大奥にあったからこそ、江戸城の無血開城がなしえたと言えることは、記憶にとどめていただきたいと思います。

 大奥や芝居の世界で理想化された女性像。その女性には支えたい、あるいは守られたいと思う理想の男性がいる。理想化された女性を追い求め、理想化された男性像がさらにつくりあげられていく。それが歌舞伎であると私は考えます。

 以上、歌舞伎がどういった演劇であるか考える上での、基礎的なことを少しまとめてみました。
 これからは、歌舞伎が伝えようとした、天下統一に託された考え方、それを歴史の謎にせまりつつ、少し時間はかかりますが、丁寧に見ていこうと思います。
                       2023.9.18

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?