古典歌舞伎をどう見るか 『御浜御殿綱豊卿』<芝居見物記><日本人の死生観と忠義2>
辰 歌舞伎座 三月大歌舞伎 昼
元禄忠臣蔵 御浜御殿綱豊卿
『元禄忠臣蔵』は、元禄赤穂事件を題材として昭和9年から昭和16年まで計10編11作が上演された真山青果の代表作で「新歌舞伎」と呼ばれるジャンルに属します。
その中の一編である『御浜御殿綱豊卿』が今歌舞伎座で上演されています。古典歌舞伎に興味のある方は、必見の舞台であると思います。
『元禄忠臣蔵』は発表当時あまりにも史実とかけ離れていると、青果はかなり批判を受けたようです。
その批判に対抗しきれず、戦争が終わったら描き直したいと娘さんに話していたことが伝えられています。
この作品が描かれた時代も、未だ史実を表沙汰にしたり、それを証明し世間に訴えることが出来なかったであろうことは、想像に難くありません。
真山青果の無念はいかばかりであったかと思います。
今回、片岡仁左衛門丈の今まで以上にさらに深く掘り下げられた綱豊卿を拝見していると、真山青果がいかに深く歴史を調べ、思い入れをもってこの作品を描いているかが改めて実感され、感銘もひとしおです。
私自身、少しづつ歴史を学び、少しは理解できるようなってきていることにうれしさも感じます。
ただ、そうした背景を見る側がわかっていなくても、名作は時代を越えて人の心に深い感銘を与え、役者の肉体を通してその作品に込められている思いは伝わるのだと言うことを、仁左衛門丈の舞台は証明してくださっていると私は思います。
真山青果の精神が、確かに現代にも受け継がれているのです。
古典歌舞伎の醍醐味を私たちに与えて下さる舞台であると思います。
赤穂義士討入り事件を、単なる「赤穂浪士の復讐」であると捉えていては、この作品の本質は見えてこないだろうと私は思います。
事件そのものに立ち入ることは今回はひかえますが。
ただ、仁左衛門丈の至芸を堪能しつつ、この深いテーマに皆さんにも思いを致していただけたらと私自身も願ってやみません。
仁左衛門丈の至芸に比べると、というより綱豊卿が素晴らしい分、回りの演者に対する目は観客として自然と厳しいものになってしまうのは、お許し頂きたいと思います。
今回、孝太郎丈の江島、梅枝丈のお喜世ともに、仁(ニン)にあっていないように、私には思われました。この一座で言えばいたしかたありませんが。逆の配役の方が仁にあっているように私には思われます。
江島には肚のすわった立女方の凜とした強さや品格がもう少し欲しいですし、お喜世にはウキウキした娘らしいおきゃんで闊達な面があった方が原作の意図に近いように思われます。
仁左衛門丈の綱豊卿に対して、松本幸四郎丈の助右衛門はまだ暗中模索の状態であるように思われました。
どんな人物像として描くべきか手探りの状態なのか、自分の表現したい人物像に表現力が追いついていないのかはわかりませんが。
助右衛門に関しては、いろいろな解釈があっていいように思います。むしろ、それぞれの演じ手の解釈を見せて頂くのも観客としては別の楽しみとなるように思います。
今回、幸四郎丈の助右衛門で印象に残ったのは、助右衛門は大石内蔵助に対して絶対的な信頼を依然寄せている人物であるように感じられたことでした。不安を抱えながらも、内蔵助を信じる、信じたい心がなければ助右衛門自身が志を持ち続けることは出来ないのではないか。そんな風に今回思わされました。
『仮名手本忠臣蔵』七段目の助右衛門とは違った、『元禄忠臣蔵』の助右衛門像を見せていただいたように思います。さらなる人物の掘り下げを期待したいと思います。
古典歌舞伎にみる<日本人の死生観> 武士の「忠義」と「生き様」を考える 2
仁左衛門丈の綱豊卿において、「侍ごころ」というものの大切さが印象深く、心に残る台詞となっています。
「侍」とはいったいなんでしょう。
読んで字の如く「仕え、奉仕する者」ということでしょう。
それでは、誰に対して仕えるのでしょう。
それは天下に対して仕えるのであり、天下とはそこに暮らす人々や社会のことだと私は思います。
天下が太平であるために、社会の一つの機能として天下に仕える者が為政者である「侍」なのだと思います。
近世において、社会の秩序を保つために封建社会における身分制がしかれていますが、現代の私たちが考えるよりずっと身分間における流動性はあったと考えるべきであると私は思っています。
また、犯罪者を除き日本においては制度上、西洋のような奴隷というものは存在しなかったと私は考えています。
律令制においても封建制においても、制度からはみ出している者をやはりその制度からはみ出している「天皇」が認め交流するという機能も日本社会は有してきたのであり、それが、他国における歴史認識で日本の歴史を捉えることが出来ない、捉えてはいけない大きな要因であると私は思っています。
話がそれましたが、近世において「侍」「武士階級」も「農工商」も、制度から外れている例えば芸能者も、それぞれがそれぞれの「分」のなかで至誠を尽くすことが求められたと思います。
また、人々自身がそれを求めていたからこそ、武家社会を扱った浄瑠璃や歌舞伎のような芝居が農工商の中に深く浸透していったのだと思います。
武士階級の中においても身分差により入ってくる情報は違いますし、どこまで広い視野をもって社会や組織をみるか、どこまでの責任を持つことが求められているか、そうしたことは身分の差により必然的に違ってくるかと思われます。そして、身分差とは立場の違いであり、それは現代社会のどんな組織においても同じ事であると思います。
そうした上下関係の中で、上の者が下のことを慮れないのと同じように、下の者が上のことを慮ることが出来ないことにより、行き違いや不信感、余計な摩擦や暴走、社会や組織のゆがみが生まれてくるように、私には思われます。
『綱豊卿』は、そうしたことを教えてくれる芝居のように、私には感じられます。こうした見方をするのはかなり希かもしれませんが。
綱豊卿は、朝廷側の考える打開方法に耳をかすことが求められる立場にある一方で、武士としての社会正義を「世間」に示すべきではないかとの思いが強くあり、迷いや苦悩を抱える立場にあったように思われます。
ここでは深く立ち入ることはしませんが、松の廊下の刃傷事件を「喧嘩両成敗」としなかった幕府側にもしなかっただけの「理由」があり、また、仇討ちを表立って許すことも許さないことも出来ない、という表沙汰に出来ないことのために幕府側自身が苦しんでいたということが、確かにあったのではないかと私は考えています。
史実の綱豊卿もそうした状況に苦悩していた一人だと私は思います。
綱豊卿や、上との交渉の最前線にいる大石の苦悩は、下の者の思いを受けとめつつ判断を求められる分、下の者には想像も出来ないものであると推察いたします。
綱豊卿自身は理想をかかげ自ら動くことが求められる当事者ではなく、表だってそれを支持できる立場でもありません。
討入りを実現させるにはさせるだけの当事者達の信念と実行力がなくては、蔭ながら大石側を後押しすることさえ出来ないでしょう。
太平の世における集団での討入りです。当時とすれば、討入る者達は最初から討死にや切腹を覚悟して事に及んだ志士達であったろうと思います。
綱豊卿自身の理想を実現させるために、赤穂浪士が討入りに向かうようけしかけることも望んではいないでしょう。
浪士達自らのやむにやまらぬ心や政道に対する信念があってこそ、実現出来る難事であったろうとと思います。
綱豊の立場で鳥瞰的に見て、その「生き様」が本人達にとっても、回りの者の心に残す思いとしても尊いものであるように、見守り、蔭ながら後押しすることが、綱豊卿の「世間」への「忠義」であると私には思われます。
世の中への「忠義」がどのように成されるか、それぞれの立場によってあらわれ方が異なってくるのは、自然なことのように思われます。
よく歌舞伎を見て「上の者のために下の者が犠牲になる」というような解釈をされる方がいます。
しかし、私は近世演劇を見る限りそのような見方をすることには賛同しかねるのです。
近世演劇の中に近世の社会の価値観を見る限り、常に下の者が上の者の犠牲になっている犠牲を強いられている、とは私には思われないからです。
なんとなく思っていたことに確信を持つようになった事例を一つ紹介したいと思います。
それは、徳川三代将軍家光が起こしたと伝えられる思春期の婦女暴行事件です。家光が十代の半ば頃だったと記憶しますが、城内ではあるものの夜、女中に暴行を加えて妊娠させてしまう事件を起こしてしまいました。
城内で次期将軍候補が起こしたこととはいえ、秩序や風紀を乱すという点で有耶無耶にすることが出来ない状況があったのだと思います。権力闘争がからんでいたのかもしれません。妊娠させられた女中と幼い時から家光の小姓をつとめていた若者が死を持って償うことでこの事件は落着させられます。
若者は家光の罪を我が身に引き受けたのですが、それは上の者の犠牲にさせられたというより、家光に天下の将軍になることがいかなることであるか自覚させ、死を持って「天下」に対するつとめの重責のなんたるかを示したと言えるように私には思われます。
その時の心の衝撃は多感な時期の家光にとっても非常に大きなものだったと推察します。それは家光が三十代半ばになるまで子を成すことが出来なかったことをみても、想像に難くありません。
近世の日本社会は、どんな立場にあっても一人一人が社会に対する「忠義」を自覚し、また互いに自覚し合う社会を指向していたように私には思われます。
どんな社会にも歪みが生じ、因習と化すことで本質が見えなくなることはままあることではありますが‥。
清和源氏の武家社会である中世から近世にかけて、そうした自覚が日本人の中に育まれていったのではないか、と私は考えています。
2024.3.15