『伊勢音頭恋寝刃』 <白梅の芝居見物記>
辰 歌舞伎座 三月大歌舞伎 夜
昼の部上演の本格的な歌舞伎の古典に関して、かなり気合いを入れて書かせて頂いた後で、『伊勢音頭』に頭と気持ちを切り替えることはなかなか困難でありました。
この作品が何故ここまで命脈を保ってきたのか。
どこにスポットが当たることで、今後も大切な作品として残すことが出来るのか‥。今の歌舞伎役者さんで残すことが果たして出来る芝居なのか‥。それ以前に、そもそも残す必要がある芝居と言えるのか‥。
そんなことを考えあぐねていたのですが‥。
結論は‥、どこからかストンと落ちてきたように思われます。
やはりこの芝居は「夏芝居」として大切にしていくべき作品ではないか。
おそらくこの芝居の本質は、世情に対しての痛烈な批判精神を背景にもった「狂歌」的側面にあるように、今回私の考えもまとまってきました。
人形浄瑠璃も歌舞伎も、勧善懲悪や三大名作に代表されるような崇高な武士道的とも言える精神を礼賛する芝居を中心に、古典として受け継がれてきた側面は大きいかと思います。
しかし一方、歌舞伎ではそんな真面目一方に世の中を見る視点や価値観に対して、「狂歌」的な、まさに「狂言」とも言えるような視点で物事を見たり、様々な視点から批判精神を持って世の中を見ることを忘れない側面が、色濃くあったように思われます。
それは、後の鶴屋南北の作品にもつながる視点であり、精神です。
そして芝居に携わる人たちや見物達の、社会の一員として世情にもの申していこうとする思い入れがしっかりあった上で、この作品をブラッシュアップさせながら名作として時代を越えて名優によって演じ継がれてきたのではないか、と私には思われてきました。
今回の上演では、季節がらという点でも、テーマの重い本格的古典作品と並べた半通しという点でも、この作品が本来持っていた「狂歌」的な側面が却って生きない結果となってしまったように私には思われたのは残念です。
私自身、決して不満ばかりが残った舞台であったわけではありません。
楽しんでいらっしゃるお客様もたくさんおられるのだとは思います。
ただ上方で育った芝居は、その芝居作りの精神をもう一度考え直し再評価しないと、さらに先細りになり、歌舞伎の持つ財産の大きな部分が失われてしまうように、私には思われます。
今年、大坂で上演された立春歌舞伎の『ちょいのせ』や『曽根崎心中』で私が書かせていただいたこと、また、「歌舞伎とは如何なる演劇か 序、その壱~その六」で書かせて頂いたことを参照いただき、皆さんにも、上方歌舞伎の在り方を考えて頂けたら、その参照にいくばくなりともなれたらという思いで書かせていただこうと思います。
『伊勢音頭』は、寛政8年(1796)7月大坂角の芝居において歌舞伎として初演されました。天明7年(1787)~寛政5年(1793)時の老中松平定信によって断行された寛政の改革から3年後のことです。
この作品が、初演直前に実際起こった伊勢の遊郭での9人斬りといった事件を当て込んだ際物のように上演され、當をとったことは確かでしょう。
しかし歌舞伎における作品の主題は際物的趣向にないということは近世演劇全般の特徴で、この作品も例外ではないと私は思います。
寛政の改革に対する庶民の反応として、教科書にもこんな狂歌が紹介されています。ご存じの方も多いかと思います。
「白河の清きに魚も棲みかねてもとの濁りの田沼恋しき」
松平定信は徳川八代将軍徳川吉宗の孫にあたります。
鎌倉幕府を開いた源頼朝以来の、質素倹約、清貧を理想とするような武家政権を実現しようとする思想の流れの中で、定信は政権をとったかと思います。
吉宗を輩出した紀州徳川家は、この作品の主人公である福岡貢のモデルとなっている歴史的な人物の系譜を引くと私は思っています。
徳川幕府は封建制の上に成り立っていますが、定信の時代は、都市を中心に貨幣経済がさらに発達を遂げ、封建的政治体制では対応しきれない社会的矛盾がいよいよ拡大していた、政権における政策の行き詰まりの深刻さを露呈させた時代であったかと思います。
武家政権の行過ぎた理想を中和させたのが、吉宗の時代にあっても女性の論理で動く大奥にあったことは、ここで詳細に立ち入ることはできませんが、心にとめておくべきことと思われます。
そして、松平定信の政策においても一番の抵抗勢力はおそらく当時の大奥にあったかと思われます。ただ、女性の論理は近視眼的であり、社会的矛盾の中で鳥瞰的視点で世の中をどう変えていけるかとの根本的な解決には向かわないという点で、決定的な弱さを持つことも事実だと思います。
そうした弱さを補いうるのが、社会の中で政治参画出来る余裕を持った層の活発な議論であったでしょうが。
浄瑠璃や歌舞伎の作品内容を見ても、そうした層が明和安永期までにはかなり育ってきているように私には思えます。
そんな時代にありながら、不幸なことに、天明の大飢饉という災害による世情の不安定さにしっかり対応しきれるだけの能力や活力に幕府自身が不足を感じ、余裕がなかったことは大きかったと思います。
ただそうしたことを考慮にいれても、寛政の改革における最も大きな負の遺産は、社会参画出来うる層に対する激烈な言論弾圧にあったと、私は思います。
そうした世情を考えた上で、男性にとって女性というものがいかに付き合っていくべき「生き物」かという視点を与えてくれるという点で、かなり興味深い深さをもった芝居としてこの作品が浮上してくるのを感じます。
男性のみならず、女性が社会というものを学び生き方を学ぶ上で様々な視点を与えてくれる作品でもあるかと思います。
『伊勢音頭』は、一見、福岡貢や今田万次郎や料理人喜助の芝居のようにみなされますが、むしろ、お紺や貢の叔母おみね、お鹿、万野が面白くならないと芝居として生きない作品であるように思われます。
回りにいる女性によって、男性が生かされも殺されもする、そうした大きな視点さえもって見物すべき作品のように、私には思われてきました。
『伊勢音頭』において、お紺、お岸、お鹿は、歴史上の一人の女性をモデルにしていると私は考えています。
なぜそう考えるかに関しては、今詳細に踏み込むことはできませんが、今後の観劇の参考に、登場人物の衣装に注目していただけたらと思います。
歌舞伎の登場人物がどんな衣装を身に付けているかということは、その色彩的な美しさや華やかさだけでなく、登場人物の役の性根を象徴させていると言う点で、非常に大切であると私は考えます。
近世演劇において、深い考えもないまま自分好みに衣装を勝手に変えていいようにはなっていないはずだと思います。
『伊勢音頭』では女形の三枚目的な役柄であるお鹿ですが、お鹿の衣装に注目するとそれは『三笠山』のお三輪や『野崎村』のお光につながります。
その衣装を着た純粋無垢な恋心の中に生きる娘を、『伊勢音頭』では極端なまでにシニカルな視点で描いているのです。
三枚目的には描かれていますが本来は醜女ながら貢に対する思いは純粋に描かれなければならず、貢に相手にされていない悲哀も感じられなければならない役柄であると私は考えます。男性の敵役の範疇にはない役柄で、その点今回の坂東弥十郎丈には大変気の毒な役であるかと私は思います。
万野に関しては、中村魁春丈がインタビューで貢に対する思いを持った女性であることを盛んに話しておられます。衣装を見ると立女方の格や肚の強さが求められる役でなければならいはずで、単に底意地の悪い仲居ではなく、かなり難しい性根を持った役であると言えるかと思います。
私はこの人物は、「大々講」の叔母おみねと重ねて描かれている可能性があると思います。初演時の配役をなだ調べてはいないのですが。
そして、この役はその衣装から想像するに『摂州合邦辻』の玉手御前をシニカルに描いているのではないかと今のところ考えています。
今回、松本幸四郎丈が奮闘しており、部分的に上方和事的な味わいもみせますが、その芸によって一つの演し物とするには、まだ一層の研鑽が必要なように思われました。
江戸前のすっきりした若旦那のような尾上菊之助丈の万次郎は、さしたる為所もなく、かなり菊之助丈の芸質からは遠い芸が要求される役どころであるように私には思われます。菊之助丈自身がでそうした役に意欲をみせるのであれば悪いことだとは思われませんが、積極的に取り組もうと思えない役であるのであれば、この配役は大変気の毒であったなようにも感じます。
「大々講」は、役者その人の芝居のうまさが出てくれば大変面白くなるように思われますが、すっきりした江戸前役者の味わいでは全くその面白みが出てこない場であることを実感します。
この場で存在感を出さなければならないのは、やはりおみねや正太夫、彦太夫であり、上方的な芝居巧者が集まってはじめて成り立つ場のように思われます。
ただ、「大々講」の坂東彦三郎丈や「追っかけ」の中村吉之丞丈、中村歌昇丈は役を楽しんでいらっしゃるので、これからさらに身体の動きや台詞における「間」や「タメ」を意識し工夫をすれば、見せ場と出来る面白さが出てくるのではないかと私には思われます。
「間」や「タメ」というのは、例えば『供奴』のような舞踊でもそうした芸の工夫があってこそ、本当の面白さが出てくるように私には思えます。そうした芸を深めていける愛嬌のあるお三方であることは、他の役でも見せて頂いているので、今後さらに期待したいと私は思います。
2024.3.22
※万野に関して、お紺やお鹿などと同一人物と書いて公開しましたが、訂正しました。今のところ、『合邦辻』の玉手御前が妥当であると考えを改めました。 2024.3.23
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