新橋演舞場『激走江戸鴉』―桜吹雪の散らせ方―
<白梅の芝居見物記>
近代的任侠道の精神
横内謙介氏脚本・演出『江戸鴉』を新橋演舞場にて拝見。
熱気に溢れた舞台で、役者の皆さんの奮闘は見応え十分かと思います。にもかかわらず、芝居の内容として私にはどうしても受け入れ難く感じる部分があり、素直には楽しめなかったというのが正直なところです。今回見物記は書けないかなと思っていました。
ただ‥
横内氏は本作に「チャリンコ傾奇組」と副題を付けており、歌舞伎の一趣向ともなっている「雁金五人男」を題材にした作品だと作者自身がおっしゃっておられます。そうしたことに興味を抱かれている若い人たちもいらっしゃるようです。
そう思うと大人げないことではあると思いますが‥、いまだ本作が上演途上にありケチを付けるようで申し訳ないのですが‥
これからも横内氏には歌舞伎においても古典となるべき作品を期待したい私としては、本作に対して私自身が拒否反応を起こしてしまった点に関して感じることを少し書いて見ることにしました。
梅原猛作品に対してさえ異をとなえてしまうような者なので、寛容に読んで頂けたらと思います。
日本において、「武士道」と「任侠道」は切っても切り放せない、底辺でつながっている精神的美学であることは紛れもない事実であると私は考えています。
ただ、近世において不即不離に発展させてきた「武士道」や「任侠道」の精神性は、近代に入るとかなり違ったものに変化してしまっていることは否めず、注意を要すべき点であると私は考えています。
「武士道」を考察する上で、今もって江戸中期に書かれた『葉隠』は必読の書となっているかと思います。
この書は江戸中期に肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を語った内容を記録したものです。本書の「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という言葉は武士道に興味を持った人であれば、どこかで目にしたことがあるかと思います。
ただ、この書が広く世に知られるようになったのは、近代になってからのことです。
明治政府のもと軍事的緊張状態に置かれていた近代の日本社会において、太平の世に発展した近世におけるものとは、武士道や任侠道も様相を異にしていかざるを得なかったのは、近代の社会体制のなかでは仕方のないことであったのかもしれません。
明治天皇崩御に際し乃木希典が殉死した事件をめぐって議論が活発化した時代に森鴎外が書いた『阿部一族』。この作品なども、武断政治からの脱却を図ろうとしていた近世の実際の事件の裏で起っていたであろうことからはほど遠い、全く異なった解釈の上に描かれてしまっています。鴎外作品が太平洋戦争に向かう若者の精神性に決して良い影響を与えていなかったのではないかと思えて、私は大変悲しく感じます。
近代に変容したこのような武士道や任侠道の精神は、太平洋戦争後の現代においても少なからず残っていたであろうと思われます。
私は若かりし頃、三島由紀夫に対して受入れがたい人物というイメージを強く持っていました。この年になってようやく三島の思いを受け止められるようになってきてはいますが‥。
三島の止むに止まれぬ自決も、近代の日本社会に蔓延してしまっていた「任侠」の精神性とも言えるようなものがたどり着いた、一つの結果であったように私には思われます。
時代劇の存在意義
近代に育まれた男性としての生き方の美学、任侠道とも言える精神性を礼賛する思いが、作者の意識下にあるのかないのかは私にはわかりません。
ただ桜のように若き命を散らせることのみに美学を見い出すような作品になってしまっているのではないか。『江戸鴉』を見ていて、私はそう感じずにはいられませんでした。
これが小劇場などで、権力側の無為無策にスポットがあたったかたちで掘り下げられた作品として上演されるのであれば、問題の提示という意味で、それはそれで意味のある上演であるかもしれません。
ただ、大劇場において不特定多数の観客、殊に若い世代の人たちを対象に娯楽劇として享受してもらうには、本作は余りにも安易な物語設定に終わってしまっているように私には感じられました。実際の江戸幕府の政権下でもあり得ないような不条理な芝居運びとなっていることに私は疑問を感じざるを得ません。
昭和のワンパターン化したお茶の間時代劇を享受していた頃とは観客自体も変化してきていることに思いを致すべきではないか、と私などは感じてしまいます。
戦後、近代的国家としてここまで成熟して来ていながら、政権批判をしていることだけが正義と勘違いをしているようにしか見えない今の日本のマスメディア。権力者の「力」による横暴ばかりを強調し、むしろ政治不審を招くことが目的化しているように見えるプパガンダ的報道ばかりが、日々垂れ流されています。
善良なる大衆を虐げる権力者という構図でしか世の中の動きを捉えることができなければ、問題の本質が見えてこない報道で世の中が溢れかえるのも無理はありません。それが今の私たちを取り巻く社会の現状だと私には思えます。
話がそれましたが、今は昭和の庶民的価値観で世の中を見る時代ではもはやないと私には思われるのです。
昭和的マスメディアが幅をきかせる日本社会の現状にあって、というよりそんな社会だからこそ、そこに一石を投じるような作品を私は見てみたいし、若い方々にも見て頂きたいと願わずにはいられません。
若い人たちに将来の指針となるようなテーマを感じさせたり考えさせるような作品が、殊に大劇場で上演される芝居には必要不可欠な要素のように私には思われます。
逆に言えば、大衆もそうした要素に無意識的に反応するため「大当り」を取ったり、胸に残り再演を望まれるような作品には必ずそうした時代を先取りするようなテーマ性が見いだせるのだと私は思います。
「温故知新」という視点がなければ、いつの時代においても「時代劇」というジャンルの存在意義を観衆に見いださせることは出来ないのではないかと、私などは思ってしまいます。
桜吹雪の散らせ方
本作において、今回幕府の中枢政治の腐敗と安易に絡めて、国家統治に関わることゆえにやむを得ず若い命を犠牲にさせてしまうな内容になっていることが、私が一番疑問視するところです。
先非を悔い、世のため人のために生を全うしようとしている若者を、世の中の秩序を乱した罪により世間への見せしめとして市中引回しの上獄門に処すという幕切れは、例え芝居であっても私には異様とさえ感じられました。
実際に、江戸幕府がどのように成立していったかを見た場合、その成立ちの考え方を引継いでいたであろう幕府の政治において、あり得ない事件の設定であるかと私は考えます。
ここで詳述することはしませんが‥。大岡裁きという一連の講談種にもなっている江戸時代の裁きの在り方。「放生会」が盛んに行われた時代的背景。武家である軍事政権がおさめる世の中であるからこそ持っていた、世の中をまるく治めるための知恵は深く考察すべきものだと私は思うのです。こうした考え方の視点を持つことは江戸時代を考えるとき大変重要だと私は思います。徳川幕府による大政奉還から明治維新という革命が、内乱を起こさずに成し遂げられた知恵と通底していることは間違いないと思われます。
本作で描かれる五人の若者の死を悼む民衆を登場させる必然性があるのであれば、尚更この幕切れに疑問符を付けずにはいられません。作者には赤穂義士の討入り事件を綯い交ぜにするような発想があったのでしょうか‥。それとも、黙阿弥の白浪物などの幕切れなどが念頭にあったのでしょうか。ただ、描かれている世界のバックボーンが違いすぎるので、私にとっては非常に違和感の残る幕切れでした。
私は保守系の考え方の持ち主だと自覚していますが、家族には左派だと言われているので、きっと中庸な思想の持ち主なのだろうと思っています。
帰省した時には高校受験の時に力添えを与えて頂いたと思っている釈迦堂にいつもお参りさせていただいています。地元の太平洋戦争における戦没者の方々のために建立された「平和堂」と名付けられているお堂です。
とかく近隣国に政治利用されてしまう靖国神社にもたまにお参りさせていただきます。ただ、この神社の成り立ちから言えばA級戦犯が合祀されていることに関しては賛成しかねるというのが正直な気持ちではありますが。
日本は数多の貴い命を戦いにより散らせることも厭わず近代化の道を突き進み続けました。
殊に太平洋戦争では、無理な戦争を回避できないまま敗戦を迎えます。この戦いは、日本にとっても近隣諸国を巻き込み深い傷跡を残したという点でも、二度と起こしてはならない歴史として振り返る必要があると私自身は思っています。
近世までの桜の散らせ方は、決して簡単に命を投げ出して散らせる類いのものではなかったと私は捉えています。
日本においては、簡単に死を選ばない、選ばせないというのが上古の昔からの政治的知恵であったことは間違いないと私は捉えています。
近い例で言えば齋藤道三も明智光秀も、織田信長も、歴史上死んだと言われている時点において死んではいません。こうした視点がないと日本史の本当の姿は見えてこないでしょう。吉田松陰も西郷隆盛も坂本龍馬も死んだとされる時点で亡くなってはいないのです。
満開の桜を潔く散らせても、翌年にはまた花を咲かせる。若木から年輪を重ねた木は年ごとにより立派に華やかな花を咲かせます。
命を散らすことだけが潔さではないでしょう。
時代の潮流に乗った勢いだけで、敗者を徹底的に駆逐してしまうことを良しとしない歴史を日本は千年以上かけて育んできたました。そこに日本が長い歴史を積み重ねてきた、積み重ねて来ることが出来た知恵があることは確かです。
無鉄砲な若い命を簡単に散らせることをよしとしない。
そんな「時代劇」こそが、今の時代にあっても求められているように私には思えてなりません。
時代劇と時代劇役者さんの可能性
最後になりましたが、本作における山口馬木也氏の存在感、味わいは抜きん出ていて素晴らしいものがありました。
こういう役者さんが、歌舞伎の世界だけではなく日本でも育っているのです。
芝居や映画において時代劇を生かすも殺すも、それはひとえに如何なるテーマを世に問うていくかという点に尽きると思います。昨今の時代劇の興行的不調はそうした時代をリードするようなテーマ性をしっかりもった脚本がないからではないか、とこの芝居を見ていてつくづく考えさせられました。
扱う世界が現代の感覚と違うからというのは、社会が求める「いい芝居」を作り出し得ていないことに対する言い訳に過ぎないように私には思われてきました。
社会や人々に感動を与えなにがしか考えさせ胸に残るような、そんな時代を先取りしたような深いテーマ性があれば、これからの時代、グローバル社会においてさえも、時代劇というものは存在価値のあるものであろうと私には思われてなりません。
2024.10.23