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「何を」教わるか、じゃない。「誰から」教わるか。


小学校4年の時の、ピアノの先生のこと。
先生は近所のおねえさんで、教え方やスキルがとりわけ上手だったとか、そういうわけではなかったのだけど

「ピアノの時間がストレスでなかった」

ということだけは覚えている。

習い事に関してはストレスがデフォルトだった自分にとって、「嫌じゃなかった」ということだけで、すでにすばらしかったのだ。


ところでその後、親の仕事の関係で引っ越しをするのだが、その先で親に別のピアノの先生を勧められることになる。


その先生は、母の知人の紹介で

「実績・抱える生徒数も以前の先生と比べて桁違いに大きい」

という話を聞いたのを覚えている。

つまり俗にいう「評判がいい」先生だった。


確かに、その先生は自信満々だったし、ピアノもピカピカのグランドピアノで部屋は豪勢だった。


同じ部屋に一緒に置いてあるチェンバロは高価ですばらしい代物だという話も聞いた。


ところが、私は結果的にそのレッスンを1か月で辞めることになる。


ー基本的に母親が進めてくる習い事は「ノー」と答えない子どもだった。


母は積極的に習い事の情報を持ってきた。


「こんなのあるんだけど、やる?」

そう聞かれたら、私は即答した。
「うん、やる」


決してやりたいわけではない。やりたい理由はない。だがそれ以上にノーと答えることには、私にとっては決定的な理由が必要だった。

前述のように、「ストレスがデフォルト」だった、致命的な理由がない限り、私は習い事を行っていた。


(一時期、カウントしたら週に7日習い事だった。ごくふつうの会社員の家なのに、私への教育によくこれほど投資してくれていたなと今なら理解する)

ところが先の、「実績のあるピアノの先生」について、私は明確に「嫌だ」と思ったのを覚えている。


その人は手の乾燥とささくれがひどく、口が臭かった。


レッスンの間に彼女が説明していたことは、耳に入らず、上から手をおえられるときに、ささくれだった乾燥した指先がザラザラと触れる感触と、ぐっと寄せてくる口からの臭いだけが、記憶に残っている。

(嫌だ、とても嫌だ)


私がその先生となじめなかった理由は、HSPを知った今なら明確である。


私は、最初から上から下への角度を付けてくる自信満々な人で、そこに微塵も疑いを持たない気が強めな人が、苦手なのである。

これはもう生まれつきの脊髄反射レベルである。

「上から下へ角度付け+自身満々+疑いなし」

のレベルは人によってさまざまだが、それが角度にして60°を超えたくらいに(←適当)私のストレス許容量を超えてしまうのだと思う。


ちなみに当時、私は同時にこういう思いも抱いていた。

「口が臭くて、手がガサガサだからという理由で嫌だと思ってしまう自分はひどく先生に失礼だ。ごめんなさい。」

ー得意の自分責めである。

時を経て、今なら当時の私に伝えてあげたい。

「口が臭くて、手がガサガサだから辞めたんじゃない。辞めたかったから、手のカサカサと口の臭さが気になったんだよ。

と。


口臭と肌質で人格否定してたわけじゃないのよ。ノーというためには理由を探さなくてはいけなかったんだ、ひとつの脳の動きとして。


ー人は違うから、合わなければつながらない。
教えてくれる相手がいかに実績があっても、だ。

つながらなくて、いい。
つながれない自分を責めることもない。


目指すゴールが

「ピアノスキルを上げる」


ということあれば、大事なのは講師の情報量ではなく、講師の指導をきっかけに、いかに本人がモチベーション維持できるかということに尽きる。

なぜなら、あらゆることは最終的に自分で獲得することしかないわけだから。

そして学びは安心感の上にしか成り立たない。


だから、まず安心できると自分が判断した対人環境である必要がある。

つまり、なんとしてでも

「誰に教えてもらうか」

が必要になってくる。

そしてそれを選ぶ基準は

「自分だけしか分からないフィーリング」

というのが、今回のまとめ。



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