離婚までのカウントダウン「孤立」
土日は妹家族が連れ出してくれて、みんなで茨城まで一泊二日のお泊まり。
本当にありがたい。
親戚の力を感じるばかりです。
たくさんスポーツして、たくさん呑んで、遅くまで遊んで、くったくたになって帰宅しました。
今日の晩御飯前に実家に到着した頃には、みんなぐうぐう寝ていて、末娘がくたくたになっていて、ほうほうの体で家に入ると
母親が言いました。
「なんでそんな暗い顔してるんだ!もっと明るい顔で帰ってこい!」
と。
末娘が畳の上で寝転がってぐうぐう言い始めたので
「お布団敷くね。だいぶ疲れちゃったから」
と言うと
「せっかくごはんつくってやったのに!」
と、なおも怒り心頭の母。
「ごめん。30分だけ寝かしてあげてほしい。」
というと、台所の方に行き、父親に対して
「顔も見たくないと言われた!」
と根も葉もないことを言い始める。
完全な虚言がけっこう気になったのと、眠りたい孫をまったく尊重しないのが嫌だったから
直接言いに行きました。
「私、そんなこと一言も言ってないよ」
するとー
ーーーーー。
ーと、こまかく描写しようと思ったけれど、自分が自分で情けなくなってきたから、やめることにします。
結論として、母親に毎日お酒を呑んで大きな声で怒鳴るのはこわいです、と伝え
母は怒りが伝わらなくなると、得意の「私がこんなにやってやってるのに」と自己憐憫に移行し、父に慰めてもらう方向に持っていき
「私が出ていけばいいんだな。」
と、車でどっかへ出て行き
本筋と全くそれた方向へ行きました。
それはとても懐かしい現象でした。
思い出したんです。
私は幼い頃から、大きな声出されても、理不尽でも
我慢し、我慢し、我慢し
言わずにおれない局面になったときに、はじめて「怒りの感情に乗せて」思っていることを伝えられる。
自分の立場が悪くなると、それまで鬼のように怒っていた母は
自己憐憫のステージへいきます。
そして、いかに私が彼女を傷つけたかを言います。
私に聞こえるように、父に。
父は、中立っぽく振る舞いながらも、母親の矛先が第三者に向い、自分を味方として取り込む状況に、心の中では尻尾を振っています。
ずっとそうでした。
ーやりとりがどんなに酷くても、朝になると、忘れます。
私以外の全員が。
とりのこされた私の心はいつも不発で、結局論点すり替えられて終わりという状況に苛立ちながら
それでも、ちゃんと感じるわけです。
罪悪感を。
今回の実家ステイは、ありがたい一方で深い学びになっています。
幼少期の精算をしようとしてる気さえします。
極め付けに、父親が母親へ送ろうとしたLINEを間違えて私に送ってしまったのが、今日の1番のポイントでした。
ーそれは私の陰口を言ってるみたいな内容でした。
情けないので詳細は書きたくないですが。
同じクラスの信用していた友人が、別の誰かと私の陰口を言っていた、と知った時にとても悲しい思いをしたことがありました。
小学校1年生の時のことです。
あの時以来のショックでした。
何が1番ショックかって。
自分が、反抗でも八つ当たりでもなく
怒鳴られるとこわい、と伝えただけなのに。
なんか、私が加害者になっている。
なんてこった。
それから
ー罪悪感を感じようとして
「まてよ」
と思いました。
「これは昔と同じパターンだ。」
と気づいたからです。
ここにも居場所はなかった、という結論にするのが1番スマートですが
どこか爽快でもありますんです。
このパターンが「なつかしく」て。
母に翻弄された小学校、中学校時代を過ごしたと思います。
逃げ場はありませんから、母の期待に応えることを1番の目標にし、母にほめられれば安堵し、母が怒鳴ると萎縮しました。
自分を守るために、両親の前で笑顔をつくるのが難しくなってしまったのは小学校4年生のころから。
そのことでまあ自己嫌悪が募るわけですが、無防備に接するリスクの大きさのほうがまさっていました。
結果私は
我慢→我慢→怒りに任せて言い返す→殴られる→自己嫌悪→我慢→我慢…
のループを繰り返し
親と同じことを夫にも投影し、こんな、 状況を招いてしまった。
世界中の人が自分にこう言っているみたいに聞こえます。
「お前の存在がぜんぶ悪い」
と。
認知の歪みやら
考えすぎやら
真面目すぎるとか
受け取りすぎるとか
HSPだのアダルトチルドレンだの
もう分かってる、分かってる
分かってるから黙って!!
ーと叫んだ後に
消えたい気持ちが強まってたまりません。
子どもたちが大事だからあと数年は消えられないけど。
「甘えるならば、全部受け入れろ。
受け入れられないなら、出ていけ。」
それだけの話。
あとは、私はもうすこし私を大事にしてあげなきゃならない。
えらい粗末にしてきてしまったなあ、と
そこをとても強く思いました。