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6歳になった長男に

6月17日。施設で暮らす長男が6歳になった。ちょうど土曜日だったので、次男とふたり面会に行く。今年のプレゼントは車の音の鳴る絵本で、渡すと少しいじったのちにニコっとしてボタンを押し、時々口をつけて振動を楽しんでいた。3、4歳向けの玩具だけど、きっとこんなのが好きだろうと選んだもので、気に入ったようでホッとした。

来年はいよいよ小学生になる。といっても、妊娠していたときに夢想した、普通の子供ではなく、支援学校に通う一年生だ。目の前にいるこの子が普通級に行けるわけもなく、そういう事実をただ淡々と受け入れている。そう思えるのも、この子が施設に入所していることとか、次男が言葉を交わせる子供であることなんかがぜったいに関係していて、外的要因が大きいと思う。たとえば一人っ子で、付きっきりで面倒を見ていたとしたら、物分りよくこの状況を受け入れることはきっとわたしにはできない。「この子には発達障害だけでなく知的障害があるかもしれない」と強く思い始めた頃のグチャグチャした気持ちは一生忘れられない。子供を受け入れられず恥ずかしいことだとも思う。でもやっぱりしんどかった。

どういうわけか、長男の誕生日の朝、次男が「なんさい?3歳〜」と指で3を作って見せてきて、そうか、3歳児ってこんなことができるのか、長男は数字の概念もないし、自分の年齢なんかわからないだろうにと思うとその光景がとても不思議だった。ひとしきり褒めたあとで、長男はこの先、3歳の次男ができることのうちどれくらいのことを習得するのかな、と少し考えた。

ここしばらく面会の日は雨が続いていたけれど、久々に晴れの日に伺えたので、久しぶりに公園に行き、すべり台の好きな長男がせっせと滑るのに次男が続いて行き、わたしは長男に知的障害がある、とはっきり告げられたとき、「兄弟で遊ぶ、という経験もできないんだな」と思ったし、実際次男と目を合わせることもなかった長男を思い返してみて、「いっしょに遊んでいる」と言うにはすこし強引かもしれないけれど、次男は長男の名前を呼びながらあとに続いており、自分の早合点というのか、ネガティブな決めつけというのか、とにかくふたりでかわるがわる滑り台を滑っていく姿を見て、すこし泣きそうだった。

次男に対する単純明快な愛情と、長男に抱いている気持ちとに、どうしたって差があると思う。長男を愛してないわけではない、でもすくなくとも小さな次男と離れて暮らすことは不可能だから、とそう思えば思うほど次男と同じ3歳で入所させた長男に、手放しの愛情があるのか、と自問自答してしまう。いつか長男のそばで暮らしたい、でもそれだって贖罪にはならないと思う。それでも長男のこれから先の人生は、優しい人たちの中だけで生きてほしい。この気持ちにだけはひとつの嘘もない。色んなことがあったけれど、出来ることもたくさん増えて、表情も豊かになった長男を見ていると、6年って歳月の重さに気付かされる。たくさん頑張らせてごめんね。6歳おめでとう。

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