島津ご夫妻との想い出
都城文化誌『霧』94号(2015年6月発行)掲載
故・島津久厚様の都城市葬に参列しました。平成26年11月22日いい夫婦の日。風もなく暖かい早水体育文化センターに大勢の人が集まっていました。舞台に設えられた祭壇には、白い菊の花に包まれて、都城島津家第28代当主の久厚様と穰子(しげこ)様の遺影がありました。
8月2日、95歳で旅立たれた久厚様。その6日前に奥様は突然お亡くなりになった事を、第29代当主久友様のお礼の挨拶の中で知りました。
「先に天国で、父を迎える準備をしていたのでしょう」
との言葉に、私は(きっとそうに違いない・・・)と思ったのでした。
祭壇には、様々な褒章の証とともに〝都城市名誉市民の証とメダル〟も飾られていました。そのメダルは、都城出身の芸術家でスペイン在住の又木啓子さんがデザインしたもの。又木さんのおかげで、そのメダルと当時まだ個人所有だった島津邸を見学する機会を得たのは、平成19年4月のことでした。
島津氏は前年18年7月、合併後の新都城市初の名誉市民になられました。できあがった七宝焼きのメダルをまだ見ていなかった又木さんが、東京で島津氏と会ったさい、
「ロータリークラブの会合で都城に行く時に、メダルと島津邸を案内しましょう」
という事になったそうです。又木さんは、私たち都城市民会館保存運動の仲間にも誘いの声を掛けてくれたのでした。
島津ご夫妻と邸宅を任されていた執事の来住(くるすみ)氏による説明の見学会とは、なんと贅沢なことでしょう。七宝焼きのメダルも大野重幸の描いた鳥の襖(板)絵も間近で見せて頂きました。
市に寄贈した宝が保管されていた室内の蔵や昭和天皇のお泊りになった部屋・・・。今は市の文化財として公開されていますが、整備の手が入った今とはまた少々違った雰囲気がありました。
来住氏の説明で印象深いことが三つ。門のそばにあった金属製の1本のポール。これは東京オリンピックの時に旗が掲げられていたものだとか。古いから撤去しませんかと島津氏に進言しても「いやこのままに・・・」ということだそう。 二つ目は邸宅の南側にある池の事。危険だからと注意をしても、近所の子ども達が勝手に入って来て遊ぶので、苦心の末わざと周辺を草ぼうぼうにして道路側から池が見えない様にしている・・・という話。 三つ目は、その池に生息しているスッポンが、縁側の下あたりに産卵するのだそうで、池を整備したらその生態系が変わってしまうのではと心配されていた事。
見学が終わると、城山近くのレストランに移動して、ご夫妻とともに昼食会。見学の感想や島津邸を市民の宝として残すには・・・などが話題の10数名の会食でした。
私はご夫妻の斜め前の席でした。洋食のレストランですから、ご夫妻の前にもエビフライやハンバーグなどが並びます。私は、ご高齢だけれどこのメニューで良いのかしら・・・といらぬ心配をしていたのですが、皆さんとなごやかにお話しされながらも、ご夫妻はきれいに完食されていました。しっかり食べることがお元気の秘訣なのかもと感じたのでした。
奥様のひと言ひと言には、久厚氏への深い思いやりが感じられました。優しさ上品さ聡明さはもちろん、なにか女性としての凛とした強さも感じられ、島津を温ねる会の土持吉之氏が
「最後のやまとなでしこと言える方だ・・・」
と深く敬愛されている気持ちが、わずかな時間でしたがよく分かりました。
「来年のNHK大河ドラマは、今和泉(いまいずみ)島津家の篤姫(あつひめ)ですね」
と私が申し上げると、島津氏は「ほぉー」という驚いた表情をされたあと、
「今和泉の島津家とは今も交流が続いているのですよ」
と教えて下さいました。私は
「来年はきっと島津ブームがきます。(市民の皆さんに理解をいただく)チャンスです!」
とも申し上げました。
そのうち話が盛り上がる中、迎えの車が来たので、又木さんと私の二人で外へ出て、ご夫妻をお見送りしました。又木さんに続き私も「頑張ります!」と言って島津氏と握手をさせて頂きました。
その時の手の感触は今でもしっかり思い出されます。温かくて大きくて、こんなにも厚い掌・・・お人柄がその手に溢れていると感じたのでした。
その年のお盆ごろ、私は文化財課に出向き「都城市民会館と島津邸およびお宝の活用」に関して、小1時間ほどしゃべりまくって帰りました。
その一部分でもお役に立てたのか・・・その後、観光協会を中心に「市に寄贈された1万点のお宝、島津の名の発祥であることや歴史、文化財としての島津邸の三位一体の活用」のために署名運動が展開されました。 島津氏と交わした「頑張ります!」の約束は心にずっとあり、娘の高校の役員なのをいい事に、PTAミニバレー大会で署名集めなどしたものでした。
あれから7年、現在の都城、お宝や島津邸のありように、ご夫妻はどんな思いをお持ちだったのだろう、来住氏はどうしていらっしゃるのだろう……感慨深く懐かしい想い出にひたりながら市葬会場を後にし、霧島酒造の駐車場行きのシャトルバスに乗り込んだのでした。
■追記・・・来住氏は2年ほど前に亡くなられたと、今年(2014年)2月に知りました。
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