北綾瀬はるか

児童福祉の仕事に関心があります。また、閉鎖病棟やアルバイトをしていた放課後等デイサービ…

北綾瀬はるか

児童福祉の仕事に関心があります。また、閉鎖病棟やアルバイトをしていた放課後等デイサービスの経験をエッセイ・小説化しています。※架空の名前で理穂という名前をよく使います

最近の記事

「ノルウェイの森」を探して

いつも通りチャイムが鳴る。退屈な授業が終わりを告げる。私たちは解放された!!と叫び出したかのように周りの生徒が騒ぎ始める。私は窓際の席でグラウンドを眺めている。空は青く澄み渡っていて、私の憂鬱は加速した。 高3の夏休みはあっという間に過ぎ、部活をしている生徒は大会の最後で引退していた。私は帰宅部で何も所属していないのでそれには無関係だったが、迫り来る受験にただただ焦りは感じた。私は私立文系の受験コースのクラスにいた。数学が特別苦手で点数がいつも赤点だったのでそうせざるを得なか

    • 改めて考える認知行動療法-カウンセラー資格学習中での観点から

      最近上級心理カウンセラー資格の勉強で認知行動療法を勉強した。精神科デイケアで再三習った内容である。 とある精神科デイケアでそれらを勉強していて認知行動療法への盲信をしていた時期はあった。 しかし、今ではちょっと疑問だ。 認知行動療法はそもそもベースがゼロだとすごく内容が難しいし入り口が大変な気がする。コラム法を理解し、書くということのできる人もいたけどそれが当たり前みたいには思わない方がいい。たしかに有効とは言われる認知行動療法。でもデメリットはないわけじゃない。 認知行動療

      • 渋谷の夜を眺めた日

        たまには恋愛の話を 高校の部活の同期を高校の三年間ずっと好きだった私。向こうにも気付かれていたかもしれないし、部活内の周りにも気付かれていたが、思いは実らなかった。彼は頭がよく、くりくりの瞳にメガネをかけていて、声も良くて、と恋をしている私にはいいところづくめって感じだった。当時の私は恋愛にかなり奥手だったし、見た目も自信がない状態。そもそも私というと教室の隅でずっと読書したり、終わっていない教科の予習を必死にやったりそんなことばかりしている人間だった。自称進なのでそのくら

        • 生きてるって

          あいみょんの「生きていたんだな」という曲をよく聴くのだが、"生きるってなんだろう""精一杯生きる"ってどういうことだろうとよく思う。 私は精神科の閉鎖病棟に何度も入院している。最近は希死念慮で調子が悪いのを予知して入院しているが、そのまえは家族の前で飛び降りようとしたり夜中にいなくなろうとしたりで母親に警察を呼ばれ不本意にも警察署に連れて行かれて取調室のパイプ椅子で夜を明かすなんてこともあった。措置入院という形を取られたときはほんとうに苦しかった。病院の選択もできないし、刑務

        「ノルウェイの森」を探して

          思い出せ

          死にたくなったら思い出せと自分で唱えている出来事がある。 死にたくなったら思い出せ。 私はあの痛みに、恐怖に耐えたじゃないか。生きて普通の暮らしが出来ることをありがたがったじゃないか。 ちょうど1年半前、私はとある大学病院の婦人科に入院していた。病名はチョコレートのう胞。右卵巣にできた陽性か陰性か開けてみないとわからないのう胞だった。 病院探しはかなり苦労した。婦人科のある名医がいる病院を求めて横浜から岡山まで行ったこともあった。結果的には精神科がなく、心理的サポートができ

          時間富裕層

          実は私と私の妹はどちらも働いていない。いや、厳密には妹はプー太郎じゃなくて父の小さな会社に所属している。 妹は2年ほど前仕事をやめた。営業マンだった。ノルマがきつく大変そうなのは知っていたものの、追い詰められるほど仕事が嫌になってあっさり辞めてしまうとは思わなかった。でも、私にとってはこれはいいことだった。妹はASDの私と向き合う時間を作ってくれた。私の発達特性をとことん調べて、食事や服薬の管理をしてくれる。申し分ないどころか申し訳ないくらい世話になっていた。 常日頃妹が言っ

          私の自己紹介

          自己紹介のタグを見つけたので改めて自己紹介をさせていただきます。 児童福祉・放課後等デイサービスの仕事に興味があり、日々邁進しております。 私自身はWAISを受けて自閉症スペクトクラムと診断されています。 元々フリーターで放課後等デイサービスの児童指導員としての職歴はあり、またその仕事につきたいと思ったのも私自身が自閉症スペクトクラム当事者で何か力になれたらという気持ちがあったからです。 発達障害ということを全て理由にするつもりはありませんが、私は社会人生活で辛い思いを

          私の自己紹介

          詫び状なんて書くつもりないから。

          向田邦子の「父の詫び状」というタイトルを聞くとなんとなく自分の父を想起させる。確かあれも随筆集だったか。私が随筆を公開するようになってだいぶ期間が経っていたものの、家族のことは書いていなかった。なんとなく目を逸らしていたのだ。 私の父は何というか悲しきリアルを背負っていた。哀愁ではない。ユーモアもない。ただ、彼の人生を辿ればああひとの人生とはこのような山や谷があるのかと考えさえられるはずだ。 父は、というよら彼は、と言おう。彼は都内近郊とは言い難い距離の田舎に生まれた。関東の

          詫び状なんて書くつもりないから。

          自閉症と告げられた私の記憶〜人生の意味、とは〜

          「記憶というのは悪いものほど残るんですよ」 静かにそう告げられた。 「忘れろ、とか思い出すな、とか言われても思い出すのが脳の機能ですからね」 先生はそうとも言った。静かに穏やかにやってきた絶望感。 昔、韓国かどこかの映画で記憶障害のひとの映画がなかったか。 私は瞬時にそう思い出した。 「思い出して、つらくて、繰り返し泣いてしまいます」 そう言った私に先生はもうそれは軽いPTSDのようなものでしょう、とぼそっと言った。 私の人生ってなに?何のためにあるの?その問いか

          自閉症と告げられた私の記憶〜人生の意味、とは〜

          "理解のある彼くん"とバカにされても

          "理解がある彼氏"という言葉がある。いわゆる精神疾患や発達障害当事者の著作物に登場する交際相手や配偶者のこと。どうしても気にしてしまうその言葉。私はその言葉に取り憑かれて、ためらいながらこの文章をしたためている。 私にとって遅い春だったと思う。恋をするのに早いも遅いもないのかもしれないが、私の感覚では、遅い春だった。 恋について考えるのは恋してない時だけなのかもしれないとも思う。恋の始まりがいつからで終わりがいつからかなんて考えたくもなくなる。 時は9年ほど遡る。とにかくがむ

          "理解のある彼くん"とバカにされても

          星読みスピカ

          クローゼットの中に入っているくすんだ青のスカーフ。毛糸の淡い黄色い花がついていて可愛らしいそのスカーフをくれた人とはしばらく会っていない。 彼女、望月沙穂さんと出会ったのは初めての入院のときだった。ODで死のうとして救急車で運ばれて一時的に大学病院に入院したあと、別の病院の閉鎖病棟に本格的に入院することになった私は閉鎖病棟ということばに怯えながら食事の席についた。病院のルールではみんなで食事を摂るらしい。同じテーブルの患者に看護師さんが挨拶をしてくれる。 「今日から入る佐倉

          星読みスピカ

          精神科デイひまわり恋愛相談室

          フクダさんに出会ったのはとある精神科デイケアで過ごしていたときだった。彼は記憶によれば私の父よりは若いくらいの年齢だった。 私よりあとにデイに通所し始めたひとだったがその場に馴染むのはかなり早かった。麻雀や料理プログラムによく参加していた。そのうちみんなにフクちゃん、フクちゃんと呼ばれて慕われはじめた。私はフクダさんと呼んでいた。フクダさんは私のことはサクラちゃんと苗字にちゃん付けで呼んでいた。でも、仲はかなり良かった。精神科デイでの日常が少し変わったのは多分フクダさんのおか

          精神科デイひまわり恋愛相談室

          "先生"と呼ばれた日々

          死のうと思ったことがある。何度かある。私は人生の中で死のうとしたタイミングが訪れたことがあった。 いわゆる希死念慮というものを抱いては、死にたいとか消えたいとか考え、行動に起こしたことがある。大学卒業から今はもう10年経っているのだが、自殺衝動の原因がいつからなのかは分かっていない。新卒での就職もできず、昼夜逆転して家にくすぶっていたとき、私は何者になりたいんだろうとふと考えた。 "このまま何になればいいんだろう" わからない。わからないからもがき苦しんだ。そのうち実家に

          "先生"と呼ばれた日々

          幸せの在処

          後悔のない人生を送りなさいと誰かが言っていた。後悔のない人生。それって何だろうか。私なりに考えてみたことが何度かあった。そう簡単に答えは出ない。ただ、30代前半になりわかったこと。幸せの在処は自分の心の中にあるということ。だから、幸せになりたいと思うより幸せを見つけられるかが大切なのではないかと。ほんの少しの幸せでもいい。それを発見したとき、私たちは足元に咲いた小さな花を見つけたときのようなそんな気持ちになるのだろう。当たり前に思えることも幸せの一部と思えたらそれこそ一番幸せ

          ひだまりの家

          雨があがったよ お日様が出てきたよ 青い空の向こうには 虹がかかったよ 車のステレオから流れる曲。聴き覚えはあった。おそらく、教育番組の曲。私たちの仕事、そう、運転手のKさんと組んでしていた仕事は銀色のワンボックスカーに乗って障がいのある子どもたちを送り届ける仕事。 9年前になる。フリーターをしていた。新卒では就職はできなかったからだ。ちょうど私は教員を目指しアルバイトしながら教員採用試験の勉強を行っていた時期だった。イタリアンカフェのホールをしていたが、店主から睨まれるこ

          ひだまりの家

          24歳から25歳にかけて私はフリーターで販売のアルバイトをしていた。仕事は様々だった。朝から仕事をする早番と、午後からの出勤で遅番があった。休みは1年の中で元旦しかない。薄給かつ準社員という微妙な立場。毎日毎日先輩やら上司やらに監視されて、気が抜けない。仕事はそういうものだ。仕事とはそういうものだ。言い聞かせては出勤して、商品の荷受けや陳列をして、レジ番のときはレジ打ちをした。お客様にお叱りを受けることは勿論あった。私は変わった苗字ゆえ、いつか名指しでクレームを受けるのではと