YA【がんばってから死にたいな】(5月号)
放課後、月ノ島中学校の剣道場に、威勢の良い声が響き渡る。
木野直之と沖風瞬が道場の中央で向かい合っている。二人は幼なじみであり大の親友だ。子どもの頃から直之の亡き祖父に剣道を習っていた。その祖父が亡くなってからもう何年になるだろう。直之は集中力を失いかけて頭を振る。声を出す。
「ヤァー!」
直之の低い声に、
「ヤァーヤァーヤァー!」
瞬の甲高い声。
月末の地域大会に向けて、剣道部の全体練習だ。
この春、直之は実力を買われて、二年生で主将に選ばれた。三年生で部に所属しているのは僅か一名。もともと部員が少なかったせいと、昨年末で早めに引退を決めた現三年生が多かった。
そのおかげで、瞬は名誉ある副主将になった。しかし、直之の実力に瞬は遠く及ばない。
気合では負けないつもりなのか、掛け声だけは、直之の倍以上出している。部員たちから笑い声が漏れる。
一瞬、直之は瞬から視線を外した。
「コテッ!」
瞬が突風のように脇をすり抜けていく。
「よっしゃー! 主将に勝っちゃった」
瞬は裸足でとびはねている。
「えっ?」
直之は竹刀をにぎる小手に目をやった。
記憶のある限り、直之は瞬にきちんと負けたことはない。きちんと、というのはズルなしでという意味だ。お調子者の瞬は、竹刀を片手で持って背後から面を打ち込んできたり、時代劇の真似をして「成敗」と斜めに切りかかってきた。
「ぼーっとしていた……」
「はぁ? 何か言った?」
瞬が首をひねる。
「いや……、何でもない」
思わず口に出たが、言い訳は大嫌いだ。
直之は一人っ子で、祖父が亡くなってからは両親と祖母と暮らしている。働きづめの両親の代わりに、祖母が木野家のほとんどの家事をしていた。
その祖母の様子がおかしくなったのは半年ほど前のことだ。毎朝、必ず持たせてくれる弁当の中身に食べ物以外の物が詰められるようになったのだ。つまようじの瓶、輪ゴムの束、それから……。
「主将、礼がまだです!」
ニヤニヤ笑いながら、瞬がいった。
「んっ? あぁ、すまん」
直之はソンキョをして、同じくソンキョをした瞬に、竹刀の先を向ける。それから、脇に竹刀を収める。立ち上がり一歩下がって、お互いに頭を下げる。
祖父が大切にしていた礼義、作法の一つだ。それから、武具を外す為に道場の隅に行く。
まだ右手首がしびれている。瞬は体格では直之に負けるが、力強さでは引けをとらない。
直之が面を外して、小手を見ると、はらりと、濃紺の糸がほどけるように落ちた。
直之はそっと小手の武具を外した。両手にはめている小手の武具だけは、祖父の形見だ。糸を通せば直ると思って、武具のおくをのぞきこむと刺繍を見つけた。元々は赤色の刺繍糸だったのだろうか。天命という言葉が見てとれる。
「ごめん、直りそうか?」
慌てて、瞬がよってくる。
「大丈夫。新しく糸を取り換えるよ。それより、これ、何だろう?」
「テンメイ?」
「人事を尽くして天命を待つっていう言葉だろうか」
沈黙が流れる。
二人の知っている祖父は厳しい人だった。
好きな言葉は、努力は人を裏切らないだ。コツコツ地道に努力することが、強くなる道。
人事を尽くして天命を待つと相容れないような気もしなくもないけど。
直之はうつむく。努力が必ずしも報われないことなどとっくに知っている。
今年のゴールデンウィークは平日をはさむ。
主将の直之は剣道部の練習日にあてたのだが、やはり出席率は低い。直之の手には欠席届の束がある。
「一人でもいい。いや、今日は一人の方がいいな。初心にもどって百回素振りするか。無心になりたいな。そうだ、無心になって竹刀を……」
ところが、剣道場に向かうと、すでに防具を付けた瞬の姿があった。直之の姿を見つけると、瞬はふざけて学生服の直之に切りかかってきた。
直之は微動だにせず、瞬を眺めていた。
「メン!」
という声と共に竹刀がふりおろされ黒い前髪に触れて止まる。
直之の瞳にはスローモーションのように映っていた。
「何だよ、おまえ、いつにも増してノリが悪いぞ!」
瞬は竹刀を引っ込めてふてくされたように肩にかついだ。
「腹が減ってるんだ」
「なんだ、まだ遅弁、食べてないのか。食えよ」
直之は昼の弁当以外にも、部活の前に祖母の握ってくれたおにぎりを食べる。いつものように道場の隅へいき畳の外側に出る。
「オレにも一個くれ」
いいよと言いかけて、直之は言葉に詰まった。口に押し込んだおにぎりが固い。海苔を開いて中身を覗き見る。生の米が混じっていた。
「ダメだ」
直之は三つのおにぎりを抱きかかえるようにして、口に詰め込んだ。飲み込むときに気持ち悪さを感じたが必死にこらえた。お茶で全てを流し込む。食べ終えると、直之は肩で息をしていた。
瞬は呆然と直之の姿を見下ろしていた。それから、一言だけ、
「今日、練習やめよ」
瞬は防具を外して、直之の隣に並んで胡坐をかいだ。
直之は目を閉じた。何でもいいから冗談を言ってくれ。しかし、瞬は静かに待っていた。
認知症という言葉は、直之も瞬も知っている。
でも、そういうことは、親の世代の抱える悩みだと思っていた。自分の家には関係ない、ましてや俺たちには関係ない。
本当のところ、直之の両親は祖母の異変に、気付かないふりをしているとしか思えない。祖母の家事の間違いは多くなったがまだ何とかなっている……。
帰り道、辺りは暗くなりかけている。帰宅時間が遅くなっても怒る両親は直之にはいない。
しかし、瞬には口やかましい母ちゃんがいる。ちょっと待て、この間まで直之には口うるさい祖母がいた。
気がついた瞬間、
「歳をとるって、全然、めでたくないじゃないか」
ようやく、直之は核心に触れた。
祖母の寿のお祝いだけは、両親や親族は欠かさない。祖母が歳を重ねる度に、手紙や小包、プレゼントが届く。
「うちの婆ちゃんはもうすぐ八十歳だ。婆ちゃんが困っているのに、父さんも母さんも仕事で忙しい。俺は部活と勉強とで……。これって言い訳だよな」
「やっぱり婆ちゃんの具合が悪いんだな」
黙っていた瞬が口を開いた。
「えっ、シュン、おまえ知っていたの?」
「うん、老人会の潮干狩りの件で、母ちゃんが話していたのを盗み聞きした。木野さんのお婆ちゃんは一人にすると危ないから、参加するのなら付き添いの人をよこしてくださいって電話で言われただろう?」
直之は頷く。
両親は仕事を理由に断っていた。
しかし、婆ちゃんは毎年恒例の行事を楽しみにしてカレンダーに丸を付けている。
その日は、剣道部の地域大会の日だ。
直之が主将になってから初めての公式戦でもある。
俺が付き添えば……、という思いが、あの電話の日から消えない。
祖母の楽しみか、公式戦か。と、
「ナオ、恰好付けるのもいい加減にしろ。いつもいろんな物一人で背負ってさ。たまには人に任せてみろよ。団体戦のチームメイトとか、副主将のオレとかさ」
瞬は本気で怒っていた。
直之は返す言葉がなかった。
角を曲がると、直之の家が見えて来る。玄関の前に人がいる。祖母だ。白い前掛けを付けて辺りをキョロキョロと見回している。直之と瞬の姿に気づくと、駆け寄ってきた。
「危ない、走ったりしたら」
直之の声よりも先に、祖母が二人を叱りつけた。
「何時だと思ってるの! こんな遅くまで」
一見、元気にしか見えない祖母。
しかし、祖母の身体のどこかが壊れ始めているのは事実だ。そして、ゆるやかに壊れ続けると、医者は言った。
直之の喉元に熱いモノが込み上げる。自他ともに認める婆ちゃん子の直之にとって、一言でいうなら無念。
何もできない自分が無力だ。
いや、待て、何もできない?
「婆ちゃん、潮干狩りで、アサリ獲れるかな? ほら、今、海が汚れているし、海水の温度が上昇して貝が少なくなってるって……」
直之が言葉を絞り出すと、祖母はきょとんとした。
それから、
「わたしは、がんばってから死にたいの。人事を尽くして天命を待つ。掘る前から獲れるかどうか心配していたら、獲れるもんも獲れんわ」
祖母は豪快に笑って、直之の背中をポーンと叩いた。
瞬は直之の肩に手を置いた。
「婆ちゃんの信条か。やるな、俺たちの師匠。付き添い、行ってこいよ。さて、オレは母ちゃんに怒られに帰るかな」
瞬は片手をふると、風のように走りだした。
新人さんからベテランさんまで年齢問わず、また、イラストから写真、動画、ジャンルを問わずいろいろと「コラボ」して作品を創ってみたいです。私は主に「言葉」でしか対価を頂いたことしかありませんが、私のスキルとあなたのスキルをかけ合わせて生まれた作品が、誰かの生きる力になりますように。