YA【優しい雨】(6月号)
月ノ島中学校一年生、貴田周は傘をさしたまま通学路でつっ立っている。たった今、女子に告白された。名前も知らない小柄な女子は、いつも見ていました、そう言って手紙を押し付けて走り去った。
周の手には、雨模様の封筒がある。
封筒の裏には、岸和江と名前が綴られている。
我に返って、周は歩き出した。封筒を鞄のすきまに押し込む。
朝の登校時間に余裕はない。こんな手紙にかまっている場合ではない。
先週から一本先の大通りを歩くことにしているのだ。偶然、バスの停留所に、小学校で親友だった森崎啓二らしき人物を見かけてから。
啓二の通う私立中学校はバス通学だ。本来なら、三十分前に出発していなければオカシイ。
(なんで、こんな時間にいたのだろう?)
二人で共に目指した中学校に、啓二だけ合格した。別々の学校になってから連絡をとってない。
それが、先週、たまたま早起きして、小学生の集団登校の群れをさけて歩いた大通りに、啓二らしき人物がいた。
「確かめないと……」
周は時計を見る。
和江に足止めされたせいで遅れた。周はかけだした。大通りの手前で信号が赤になった。
周が舌打ちをした時だ。
目の前を一本のバスが走り抜けた。窓の外を眺める顔……、ケイジ?
頬がこけている。前髪が顔を覆うように伸びている。約三ヶ月ぶりに見たケイジの顔は疲れ切っているようだ。
(何があったのだろう?)
一瞬、顔を上げた啓二と目が合ったような気がした。
授業中、周は窓際の席で、ずっと雨を見ていた。
小学生の時、同じ塾に通うようになって、啓二と仲良くなった。本気で私立中学を目指していたのは、どちらかというと周の方だ。
啓二は親の希望で仕方ないから、私立中学を受験すると言っていた。
啓二は明るくてやさしい。女子にも人気があった。
周はそこまで考えて、あっ……、今朝もらった手紙を思い出した。
(岸和江って、誰だろう?)
見覚えのない顔だった。鞄に入れた手紙を出そうかと思って止めた。
今は、啓二のことだ。
三ヶ月も、親友を放っておいたわけではない。周も新しい環境に慣れるのに必死だった。公立でも勉強は充分に難しい。
「有名私立中学校なら、きっと、もっと大変だろう……」
周の独り言は、教室の騒音の中に消えた。
(って、どうして、帰りの会が、こんなに騒がしいのだろう?)
「それで、問題のカタツムリは、どこにいるんですか?」
学級委員が真面目に話している。
女子が答える。
「サッちゃんの机の中にいて、ミーコが放り投げた……」
「つまり、誰かが吉井さんに嫌がらせをしたのですか?」
副学級委員が口をとがらせる。
担任は腕を組んでいる。今更ながら、周はクラス内で問題が起こっているのに気づいた。
(イヤガラセ?)
急に、啓二が新しい中学校でイジメにあっているような不安に襲われた。
「まさか、いや、わからない……」
チャイムが鳴った。話し合いは終わってなかったが、周は席を立った。
鞄をつかんでドアを出た瞬間、人とぶつかった。見ると、和江が尻餅をついていた。
周は和江にかまわず速足で歩いた。
ちょうどやって来たバスにとび乗る。啓二の通う中学校へ行くのは、下見と受験の時と、これで三度目だ。
このバスは途中で高速にのる。
周が乗ったバスに、和江も乗った。さすがにギョッとしたが、周は一つだけ空いていた席に座ると、窓の方をむいた。
雨と霧で景色がぼんやりしている。
灰色の建物の影が後ろへ流れていく。
(オレは、何をしているのだろう?)
さっきは、啓二がいじめられていると思ったら居ても立ってもいられなくなった。
でも、よく考えたら、アリエナイ気がしてきた。二人とも、より良い環境を求めて私立中学校を目指したのだ。
「カタツムリなんているわけないんだ。そもそも、そんなモノを学校に持ってくるヤツなんていないんだ。レベルが違うんだよ、オレらとは」
周は受験に失敗してから、心の声がもれるようになった。
辺りの人が首をかしげてもどうでも良かった。
「ケイジの心配なんてするんじゃなかった。オレってバカみたいじゃん。ってか、バカだから落ちたんだ。どの面下げて、アイツに会うんだ」
いつもなら、周の独り言を拾い上げてくれる人はいない。
けれども、今日はちがう。ゆれる車内で、和江が座席の持ち手につかまりながら答えた。
「その面下げて、ケイジくんに会えばいいと思うよ」
怒気を帯びた和江の声に、周は目を丸くした。
「シュウくんは空を眺めてばかり、ケイジくんは地面を見つめてばかり、二人ともがっかりだわ。あたし、二人のかくれファンだったのにな」
和江はよくひびく声で言った。
「あのさ、申し訳ないんだけど、どこかで会った?」
「刑事とドロボー」
和江は答えた。
周の指先が震えた。
「えっ、なんで、キミが、その名前を知ってるの?」
「学習塾の裏で、まんざいをやっていたじゃないの」
和江の言う通りだった。
周と啓二は、勉強の息抜きに、まんざいコンビ【刑事とドロボー】を結成した。そして、勉強の合間に、学習塾の裏で、二人だけでまんざいをした。コンビの名前の由来は、啓二の本名と、いつも啓二の弁当のおかずを盗むドロボーの周をヒントにしてつけた。
二人で考えるネタは、勉強の内容がほとんどだった。
山のような暗記もダジャレにして頭に詰め込んだ。だいたいが、啓二がぼけて周がつっこむスタイルだったが、まんざいを通して勉強することは、周がにがてな科目が多かった。
改めて思うと、啓二はそうやって周の勉強を助けてくれていた。
「あたし、いつも、二人のまんざいを見るのが楽しみだったの。大嫌いな塾も少し好きになれた。あたしも、私立には落ちちゃったけどねぇ」
和江は静かに続けた。
バスは高速道路にのった。
高速道路をでて二つ目のバス停で、周は降りた。
和江もついてくる。バス停から徒歩十分の学校の前で、周は立ち尽くした。制服姿の生徒が歩いている。
周の憧れだった私立中学の制服だ。思わず傘で自分の姿をかくした。雨降りで良かった。しばらくすると、やさしいオブラートで包んだように、雨音が小さくなった。
顔を上げると、体操着を着たイガグリ頭の啓二が立っていた。
「シュウ! なんでここに?」
啓二は心底、驚いていた。ひとまわり大きな傘を、周の傘の上にかかげている。
「えっ……、元気そうじゃん」
周は言葉に詰まった。
(じゃあ、あれは、見間違いだったんだ……)
啓二のジャージにはベイスボールのプリントがある。周の視線の先に気づいて、啓二は照れ臭そうに頭に触れた。
「野球部に入ったんだ。今日は雨でグラウンドが使えないから体育館のまわりを走っていたんだ。シュウかな? って。まさかと思ったけど」
「そっかぁ。野球部かぁ……」
「うん。いろいろ忙しくて連絡できなくてごめんな」
「ん? それは、オレも……」
不合格の知らせのショックは、まだ忘れられない。追い打ちをかけるように啓二の合格を塾で知らされた。
悔しさと情けなさと腹立たしさと諦めと……。
心は混乱したままなのに、公立中学校へ入学して、新しい生活が始まった。やっと慣れてきた頃、啓二らしき人物を見かけた。
あの時、本当は泣きだしそうだった。
周は見間違いの話をした。
「ソイツ、あごの形、おまえにそっくりだったんだ」
笑い話にするつもりが、上手く笑えない。
ぽつりぽつりと、本音がこぼれる。
啓二は黙って聞いていた。
周が顔を上げると、啓二はうつむいて足元を見つめていた。そして、大きく息を吸い込んで、笑顔になった。
(笑顔?)
よく見ると、かすかに唇のはしが震えている。二人で合格して、二人で通う。努力したが、夢は叶わなかった。
啓二も悔しかったんだ。気がついたら、周は卑屈になっていた自分自身が恥ずかしくなった。
(オレより、啓二の方が連絡しづらかったにちがいない)
と、突然、和江が二人の間に入っておどけてみせた。
「コンビ復活! マネージャーとして感無量です!」
「初めまして、どちらさまですか?」
初対面の和江に、啓二はボケてみせた。
「忘れたのか? オレたちのストーカーだよ」
周が突っ込んだ。
すると、和江が傘をくるくる回し反撃してきた。
「うわっ、冷たい、止めろ!」
雨空の下に、本物の笑顔がはじけた。それから、啓二がしみじみと言った。
「オレも、おまえのいうそっくり君に会ってみたい」
あの見間違いがなければ、今日という日は訪れなかった。周は傘を放りなげて、両手をひろげた。
彼にも、このやさしい雨が降っているといいな。