YA「サイテーなあいつ」(7月号)
まぶしいくらいの日の照りつける土手の上を、スポーツバックを振り回しながら、剛裕は歩いている。野球部の剛裕が、授業が終わってまっすぐ家へ帰るのは久しぶりだ。今日から、テスト週間に入ったのだ。
剛裕は土手を降りて、芝生にごろんと横になった。緑色の草の匂いが、むんっと鼻につく。スポーツバックからグローブを取り出して、左手にはめてぽんぽんと叩く。新品の青いグローブはまだ固い。
「あー、野球やりてぇなぁ……」
部活動の入部届を、剛裕は親に相談せずに提出した。運動部に入りたいだなんて言ったら、教育熱心の母に反対されるに決まっていると思っていたからだ。父は専業主婦の母の言いなりだ。
あの夜のことを、剛裕は思い出した。夕食の席で、剛裕はナイフとフォークを見つめながら、おれ、野球部に入ったから、と事後報告した。
とても緊張していた。その証拠に、皿の上のチキンソテーを細かく切り刻んでいた。勉強はどうするの? 塾に通わないつもり? また、母はヒステリックに叫ぶだろうか。父は逃げ出すだろうか。少しの沈黙のあと、母は席を立って、
「おかわり、食べるでしょう?」
と、剛裕の空っぽの茶碗にご飯をよそってくれた。父はカレンダーをながめて、週末にスポーツ用品店に行くか、と誘ってくれた。剛裕は、あ、うん、と、ぽかーんとした気持ちのままうなずいた。
反対されなかった。それどころか、応援してくれるのか? 嬉しさよりも驚きを隠せなかった。ふと、食卓の隣の空きイスに視線をやった。兄の義裕が座っていたイスだ。この春、県外の全寮制の高校へ進学した。
三歳年上の義裕は、緑ヶ丘中学校で、常に学年十位以内の成績だった。県内のトップクラスの高校も含めて、どの志望校でも合格できると、塾でも学校でも太鼓判を押されていた。しかし、義裕は受験した県内の高校はすべて落ちた。そして、家を出て行った。
「なにが、医者か弁護士になるだ」
剛裕は大きなひとり言をいった。小学生の頃から、高尚な夢を語っていた兄、義裕には秘密があった。中学三年生になってから、義裕は暴れるようになった。突然、大声を出して、皿やコップを割ったり、家具をけとばしたりした。
母は、義裕が暴れ出すと、ご近所に叫び声が聞こえないように、家中の窓を閉めて回った。父は一番先に二階へ逃げた。剛裕はただボーゼンと立ち尽くしていた。やさしかった兄が、マイホームを破壊するサイテーなやつに変わってしまった。
義裕がいなくなって天野家が平穏を取り戻して、数カ月が過ぎようとしている。剛裕は体を起こした。風が気持ちいい。と、そこに、
「おーい、天野! そんなところで寝ていたら、犬のうんこがつくぞ」
一年A組のクラスメイトの宮間が歩いてきた。
宮間は剛裕と同じ野球部だ。と言っても、宮間は入部届けを出しただけで一度も練習に参加してない。剛裕は野球部の先輩に注意されて、何度か声をかけたが、宮間は長い前髪をかき上げて、へらへら笑っているだけだ。
「おっ、かっこいいグローブ、ちょっと触らせて」
「いやだね」
剛裕はさっと、グローブをカバンにしまった。
「ケチだな」
剛裕は思わず、宮間をにらんでいた。いつも薄ら笑いを浮かべている宮間は、何を考えているのかわからない。それに、別にわかりたいとも思わない。野球部という共通点がなければ、会話すらしないだろう。
「部活にこないなら、なんで入部届を出したんだ」
同じクラスなのだから誘って来るようにと、剛裕は監督にも言われているのだ。
「だって、野球部って、かっこいいじゃん! 女子にもてそうじゃない?」
「かっこつけるためかよ」
犬のうんこがつくと言った宮間は、剛裕の隣に横になった。剛裕は立ち上がった。これ以上、話すことはない。
「まてよ……」
剛裕は相手にしない。すると、
「まてって、言ってるだろう」
宮間の声が低くなった。剛裕はふりかえる。気のせいだろうか。宮間の声に悪意のようなものを感じた。大きな剛裕の影が土手にのびる。いつの間にか、身長も体重も、三歳年上の兄よりも大きくなっていた。
「そんな怖い顔すんなよ。天野クン、お願いがあるんだ」
「気持ちわりい。クンなんて呼ぶな」
「今度のテストなんだけど、ちょっと見せてくんない?」
「はぁー?」
「英語と数学だけでもいいから……」
剛裕は宮間を見下ろした。剛裕の影が完全に、細い宮間を覆いかくす。ふざけるな。カンニングの頼みなんてきけるわけない。言葉にしなくても伝わったらしい。草の上で、宮間はあわてて飛び起きた。
文武両道が目標の剛裕は、授業中も真面目だ。覚えられるところは、授業中に暗記している。斜め後ろで居眠りばかりしている宮間とはちがう。成績が悪ければ、いつ、母に野球をやめろと言われるかわからない。剛裕は野球を続けたい。
「おれ、マジで帰るから」
歩き出した剛裕の足を、宮間の言葉が止めた。
「ちぇっ、アニキはいいやつだったって聞いたのによお」
宮間は立ち上がって、にやにやしながら剛裕に近づいてくる。宮間にも三歳年上の兄がいる。確か、三年生のとき、義裕と同じクラスだった。いいやつ? どういう意味だよと聞くまでもなく、ぺらぺらと宮間がしゃべった。
「おまえのアニキは、カンニングをさせてくれていたらしいよ。うちのアニキが、お礼を言っといてだってさ」
宮間はぽんぽんと、剛裕の肩を叩いた。その手を振り払えないほど、剛裕の心は動揺していた。
夕食後、剛裕は勉強机にむかった。度々、英単語を書き写している手が止まる。頭を振って、集中しようとするができない。宮間の甲高い声が耳に残って離れない。剛裕はシャープペンを投げ出した。
必死に覚えた英単語をよこから盗み見られるなんて腹が立つ。数学だって、努力して導き出した答えを写されるなんて許せない。だいたい、兄ちゃんがいいやつだって? 家の中を破壊しまくったあいつが……。
剛裕は部屋のドアの前に立った。義裕がけとばしたせいで穴があいている。黒い穴を見つめていたら、嫌な映像が頭に浮かんだ。宮間と、宮間の兄とその仲間たちが、コンビニの駐車場でつるんでいるのを見かけたことがある。
「兄ちゃんは、いじめられていたのか?」
背が低く体も小さかった義裕は、中学生になり塾へ通うようになってから、ますます目立たなくなった。剛裕は、義裕の友だちを見たことがない。帰宅部だった義裕は、塾へ行くか、家ではいつも勉強していた。
もし、宮間の兄におどされて、カンニングを強要されていたとしたら? そのことを誰にも相談できずに、ずっと心の内に抱えていたとしたら? 言葉にできない代わりに、義裕が物にあたっていたとしたら? サイテーなやつは、誰だ?
剛裕はゆっくり階段を下りる。宮間の兄も、宮間もサイテーだ。まちがいない。それじゃあ、勉強ばかりさせていた母は? 逃げ回ってばかりいた父は? 剛裕は、義裕が中学生になってからあまり話をしなくなった。
「おれは? おれは、どうだよ……」
階段の踊り場で立ち止まった。まだ二人とも小学生だった頃、剛裕は義裕と、土手の上でよくキャッチボールをした。楽しかった。ようやく、兄の笑顔を思い出した。喉のおくが熱くなる。目の前がかすむ。
次の瞬間、歩き出した足は階段を踏み外していた。剛裕は滑るように階段を落ちて、廊下に尻を打ち付けた。いってーっ……。母がリビングから飛び出してくる。
「ちょっと、何やってんの。大丈夫?」
目を閉じて痛みをこらえる。大丈夫じゃないという言葉を飲み込む。きっと、義裕がそうしていたように。ふいに、ある疑問が頭をよぎった。兄ちゃんはわざと、県内の全ての高校に落ちたのだろうか?
暴れるようになってからも、義裕の成績が下がることはなかった。不合格は、試験のときに緊張したせいだろうと、先生たちは言った。ちがう。もしかして、宮間の兄たちから逃れる為に、白紙の答案用紙を出したのか?
「兄ちゃんの電話番号、教えて……」
剛裕はつぶやいた。
義裕が家を出るとき、唯一欲しがったのが、携帯電話だった。仲のいい友だちもいないのに。
何を話すのよと、母は怪訝そうに尋ねた。
「勉強で、わからないところがあるんだ」
話すことなんて、なんだっていい。兄ちゃんは電話を待っている。家族からの電話を待っている。
絶対に。
新人さんからベテランさんまで年齢問わず、また、イラストから写真、動画、ジャンルを問わずいろいろと「コラボ」して作品を創ってみたいです。私は主に「言葉」でしか対価を頂いたことしかありませんが、私のスキルとあなたのスキルをかけ合わせて生まれた作品が、誰かの生きる力になりますように。