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2016/4


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 三年生に進級して二週間が過ぎた。
 まだ新学期のぴりっとした緊張感の残る放課後の教室で、徳永玲子は青冷めている。自分の鞄の中に、西岡美咲の音楽の教科書が入っていたのだ。玲子の分と合わせて、音楽の教科書が二冊ある。
 どうして、美咲の教科書を持っているのだろう? 

 思い返してみると、今日は音楽の授業の次が、保健体育だった。玲子は着替えの為に急いで音楽教室を出て、教室に戻って体操着を持って、小走りで更衣室へ向かった。
 あの時、いつも行動を共にする英語クラブの中畑さんたちの姿を見失って、のんびり屋の玲子はますます慌てていた。C組の教室へ戻った時、美咲の席にぶつかって机の上の教科書を床に落としてしまった。そのはずみで、玲子は自分の教科書も落とした。
 美咲は、ごめんなさいと謝る玲子に、
「拾っておいてよー」
 とだけ言い残して出て行ってしまった。
 そして、昼休み、午後の授業と終わり、美咲はトリマキたちと一緒にがやがやと教室を出て帰っていった。

「混じっちゃって、間違えたんだ、どうやって返そう……」
 玲子は美咲のようなタイプが苦手だ。音楽の教科書の表紙に、三年三組ミサキっち、と蛍光ペンで、名前が書いてある。美咲の生活態度、そのものだ。ショートカットの髪の毛は、天然と言い訳するには無理のある焦げ茶色だ。
 美咲は授業中に堂々と顔を伏せて居眠りして、よく先生に注意される。
 しかし、数学の授業で、前に出て問題を解くようあてられた時、面倒臭そうにしているわりには、易々と難問を解いたりする。英語の教科書もすらすら読める。
 玲子は美咲のことがよくわからない。と言うか、クラスで悪っぽく目立つ美咲とは、玲子は関わりたくない。玲子はその日一日が、ただ、穏やかに過ぎてくれることだけを祈っている。先生に反抗的な態度なんて、怖くてとれない。
 明日、正直にごめんなさいと言って教科書を返そうか? いや、できない。想像しただけで、玲子の細い指先が震える。そうかと言って、このまま美咲の教科書を持っている訳にはいかない。来週には、また音楽の授業がある。
「おまえ、まだ帰らないの?」
 ふいに、男子に声をかけられて、玲子はびくっと肩を震わせた。
 まだクラスメイトの名前は、特に男子はうろ覚えだ。おろおろと視線で名札を探していると、男子はぷいっと背中を向けて教室を出て行った。良かったぁ……、そうだ、誰もいない内に、美咲の机の中へ教科書を返しておこう。
 玲子は鞄を胸の前に抱えて、前方の美咲の机に近づいた。人の気配のない教室で、心臓がばくばくする。ちらっと、美咲の机の中を覗くと、シャープペンシルが一本と消しゴムが一個転がっていた。教科書、ノート類は何もない。
 こんなところへ音楽の教科書を入れたら、とても目立つ。美咲は音楽の教科書を失くしたことにまだ気づいていないはずだ。
 明日の朝、何これ? と、いきなり返された教科書に騒ぐかもしれない。誰が入れたの? と、犯人を捜すかもしれない。
 そこまで考えると、玲子の膝はがくがくと震えだした。一刻も早く返してしまいたいけれど、このままでは返せない。
 どうしよう。と、急に、教室の前方のドアが開き、さっき出て行った男子が息を切らして戻ってきた。
 ドカーン!
「いてっ! わりぃ、忘れ物しちゃってさ」
 男子は美咲の机にぶつかり、独り言のように謝った。それから、自分の席にかけ寄って速攻で忘れ物の鞄をつかむと、再び走って教室を出ていった。
 玲子の足元に、美咲のピンクの消しゴムが転がっていた。


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 翌朝、玲子は三十分ほど早く家を出た。
 僅かに残る桜の花に目もくれず、真っ直ぐ速足で学校へ向かう。校門を抜けて静まり返った運動場を横切り、下駄箱へ到着した。
 玲子は息を整えて辺りの様子をうかがう。
 昨夜、ほとんど寝むれずに考えて、明け方、ある方法を思いついた。
 教科書を下駄箱に返しておくのだ。そうすれば、疑いはクラスメイトだけにかからない。音楽教室に忘れたのを、他のクラスの子が返してくれた可能性も出る。
「ふぅ……」
 小さく息をつく。
 玲子は教科書を取り出して、すばやく美咲の下駄箱に差し込んだ。意外とあっけなくミッションは終了した。半歩下がって辺りをうかがうと、何人かの生徒が下駄箱へ向かっているのが見えた。
 玲子はそそくさと教室へ急いだ。
 本当はもう一つ返さなければならない物がある。ハートの形の消しゴムだ。昨日、床から拾い上げて、そのまま持って来てしまったのだ。消しゴムの表には、ローマ字でOTと書かれている。美咲のイニシャルはMNだ。
「誰のことだろう?」
 それでも、玲子は深く考えなかった。教科書を返せた安堵感でいっぱいだった。小さな消しゴムなんて、美咲は無くなったことにも気づかないはずだ。返さなくても大丈夫だろう。
 玲子は自分の席に着いた。直後、睡眠不足の強烈な睡魔に襲われた。


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「ない! あたしの消しゴムがない!」
 美咲の声で、玲子は目が覚めた。少しの間、机に突っ伏して眠ってしまった。
「どんな消しゴム?」
 トリマキの中でも一番目立つ城越さんが、面倒くさそうに、美咲の机の中を覗き込んでいる。
 城越さんは手を突っ込んで、シャープペンをつかむと、美咲に突き出した。
「あるじゃん」
「違うって、ピンクの消しゴムだって」
「ここにも、消しゴムついてるじゃん」
 シャープペンシルの小指の先ほどの消しゴムを、城越さんは指差す。
 美咲は納得せずに机を抱え上げると、逆さまにして叩き出した。さすがに、教室の中がざわめき出した。
 ダンダン、ドンドン!
 美咲は机を叩く。何も出て来ない机に苛立って、さらに音は強く大きくなる。
 美咲の左斜め後方の席で、玲子は身を縮めた。しまった! 美咲の消しゴムは取り出しやすいようにスカートのポケットに入れてある。
 思わずスカートを押さえる。
「ちょっとやめなよ!」
 さすがに、城越さんがあきれたように言った。
「消しゴムなら二個持ってるから、一個貸してあげるよ。そのまま使ってくれてもいいしさ。ね、落ち着きなよ」
「あの消しゴムじゃないとダメなの!」
 美咲が両手を、机に叩きつけた。


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 玲子は身を固くして目を閉じた。完全に、消しゴムを返すタイミングを失くしてしまった。どうしよう、処分しようかな。
 始業のチャイムが鳴る。一時限目は英語の授業だ。玲子は教科書を読むふりをしてポケットの中を気にしていた。
 美咲の怒りようは尋常じゃない。その怒りが自分へ向くなんて、考えただけで恐ろしくて生きた心地がしない。そもそも、この消しゴムは、男子が落とした物を拾ったのだ。あの時は、音楽の教科書のことで頭がいっぱいだった。
 ゴミ箱に捨てよう。一秒でも早く、不安から解き放たれたい。この消しゴムさえなければ、穏やかに一日を過ごせるのだ。いつものように、英語クラブのみんなの輪の隅にいてにこにこしていれば一日が終わる。
 そう言えば、今朝、中畑さんたちに、オハヨウの挨拶をしていない。
 気づいた途端、玲子の不安は大きくなった。三年三組での大切な自分の居場所だ。玲子は一、二年生と、クラスでの居場所が見つからなくて寂しい思いをした。
 一時限目の終了のチャイムが鳴る。
 今更、オハヨウと声をかけたら、可笑しいかな。でも、毎日の挨拶が途切れると、次の日はもっと声をかけづらくなるのを、玲子は知っている。そして、最後には会話に入れなくなる。
 一旦、玲子の足は中畑さんたちの方へ向きかけた。
 次の瞬間、視界の隅にゴミ箱が入った。まずは消しゴムを捨てて、それから、中畑さんたちの方へ行こう。
 玲子はポケットに手を突っ込んで、急に方向転換した。そのせいで、誰かと肩が触れた。
「ごめんなさい、あっ……」
 気づいた時には、もう遅かった。
 ポケットから消しゴムが転がり落ちた。玲子はとっさに拾い上げた。恐る恐る顔を上げると、城越さんが突っ立っていた。よりによって、美咲のトリマキに見られてしまった。乱暴な言葉が飛んで来る! ……はず。
 だけど、自業自得なのかもしれない。
 結局、音楽の教科書も、消しゴムも返す勇気がなかったのだから。しかも、消しゴムを捨てようとしていた。
 玲子は目を閉じた。こんな自分なんて大嫌い。思わず、涙がこぼれそうになった。すると、
「ミサキ、消しゴムあったよ! 徳永ちゃんが見つけてくれたよ」
「えっ?」
 驚いて目を開けた玲子に、城越さんは、
「んっ」
 と、手を突き出した。
 玲子は慌てて消しゴムを乗せた。
 一瞬、玲子の指が、城越さんの手のひらに触れた。冷たいと思い込んでいた手のひらは大きくて温かかった。
 その直後、美咲がすっ飛んできた。
「アリガトウ」
 を連発する美咲に、玲子は上手く笑えなかった。美咲は玲子に耳打ちした。イニシャルのことは内緒で頼むね、と。はにかんだように笑う美咲は、全然怖い人ではなかった。

 学校からの帰り道、曇り空から細かな雨が降っていた。玲子は鞄から折り畳み傘を出す気持ちになれなかった。アスファルトの色が変わり雨の匂いがする。変わりたい。玲子は思った。もっと違う自分になりたい。冷たい雨が玲子の肩を濡らしていた。

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〜創作日記〜
たかが消しゴム、されど消しゴム。人間関係って、本当に些細なことで崩壊するし、本当に些細なことで修復もできる。誠実に向き合うことが一番だと思っていますが、誠実が通じない相手もいるので難しいですね。

©️白川美古都

新人さんからベテランさんまで年齢問わず、また、イラストから写真、動画、ジャンルを問わずいろいろと「コラボ」して作品を創ってみたいです。私は主に「言葉」でしか対価を頂いたことしかありませんが、私のスキルとあなたのスキルをかけ合わせて生まれた作品が、誰かの生きる力になりますように。