お金依存の君へ~IQ18の次郎とIQ140以上のメンタリストさんが同じと言ったら驚くだろうか?~
私は『津久井やまゆり園障害者施設殺傷事件』後に、次郎のIQを公表するようになった。あの日殺されたのは、次郎のような人たちだったと知ってもらおうと思ったからだ。
ところが意外な反響があって、IQが高い子どもも、とても苦労しているというのだ。同級生にいじめられたり、教師にさえ疎外されたりといったことが起こっていると言うのだ。IQが低いことでの生きづらさは、想像がつきやすいかもしれないけれど、逆にIQが高いことも日本社会では生きにくいことを知った。
疎外されることの孤独はIQの低い次郎と、IQの高い人に共通することかもしれない。IQが高い人にとっては、一緒にされるのは、とても心外なことかもしれないけれど。
今日は孤独が原因と思われるお金依存の話しをしようと思う。
最初のきっかけは、次郎が中学1年生の時のことだった。高校に進学した姉といずれ進学する兄の為に引っ越した高校に近い市街地は、コンビニが歩いていける場所にあった。それまで育った田舎と大きく違う環境だった。当時私は介護の仕事をしていたから、次郎と帰宅後、つい椅子に座ったまま眠ってしまうことがあった。暇を持てあました次郎はあろうことか、私の財布から千円を持って、コンビニに行ってプリンを買ってきた。
私は家庭訪問に来た先生に、こんな困ったことがあったという話をした。ところが、先生は「え、ひとりでお買い物出来たの?すごいね!」と言ったのだ。考えてみればそれはそうかもしれない。まだ身辺自立も出来ていない次郎が、ひとりで買い物に行ったということを、正直な気持ちですごいと思ったとしてもしかたない。重い知的障がいのある子の多くは、お金に対して興味もなく、したがってお金を使って生活をすることの経験を重ねることすら難しい場合が多いからだ。
お金=すごい
は、案外どこにでも転がっている。紆余曲折ありながらも、私はお金に興味のある次郎を支援することにした。それは、次郎と2人暮らしになって私が倒れた時、次郎が餓死しないためでもあった。大げさに聞こえるだろうが、ケアラーが不慮の死を遂げて、ケアされていた人が餓死するということは現に起こっている。とにかく自分で食べ物を買うことが出来るところまでが目標だった。
ところが、次郎のお金に対する興味はとどまるところを知らず、数の概念はついにわかることはなかったけれど(1+1=2はわからないまま)、お金の計算なら4桁まで計算機で出来るようになった。
これはIQ18の能力から考えて奇跡的なことだった。次郎が買い物に行けること、お金なら4桁まで計算機で計算出来ること、お買い得品を中心に、夕食の買い物を上手にしてくることは、先生や支援者や、いろいろな人を驚愕させた。
なぜに、それほどまでに、自分の持てる能力では考えられない程のお金のスキルを身に着けられたのか?ということを考えると、おそらくだけれど、お金を持っていると、世間の自分を見る目が変わるからだと思う。
見る目が変わる瞬間を私は見たことがある。次郎の例ではないが、知り合いの南アフリカ人が薬局で頭痛薬を買った時のことだった。その南アフリカ人は、国際弁護士の試験を受けようとしている程の超エリートだったのだけれど、薬局のおばちゃんは、冷ややかに値段を伝えた。「897円」とかそんな値段だった。そして、そのおばちゃんはどうせ千円札を出すと思ったのだろう、右手はすでにおつりに手を伸ばしていた。ところが、その南アフリカ人は、きっちり1桁の位まで小銭をそろえて出したのだった。おばちゃんは、その小銭を見て、その南アフリカ人を見て、もう一度小銭を見た。そしてもう一度南アフリカ人を見た。こんなはっきりした二度見を私は始めて見た。小銭と南アフリカ人とを交互に見た後、おばちゃんの目つきは明らかに変わった。声まで優しくなって「ありがとうございました」と言った。
お金の計算が出来ることは、かくも人の対応を変えることなのだ。
次郎は私と一緒に居るときに、冷たい視線を向けられたことはない。親が一緒にいれば、ぞんざいに扱われることもない。
問題は、次郎だけで居るとき。もしくは、次郎が次郎と同じような障害のある友達と一緒にいる時だ。ある時、次郎が友達と買い物に行きたいといった。2人では不安だから付いて来てということになった。私は邪魔にならないように2人を離れて見守った。ところが、2人がデパートの案内所で売り場を尋ねた時、案内係の綺麗なお姉さんの冷たい対応にびっくりした。言葉を話せない次郎と、話せるけれど聞き取り難い友人を、案内係のお姉さんは怪訝そうに見た。私はたまらず近づき助け船を出した。お姉さんは『ヤバい!保護者いたの?』というように顔色が変わり、私たち(正確には私)は丁寧に売り場を案内してもらった。
ああ、この子たちは、親の私には見せない綺麗なお姉さんの素の顔を知っているんだ。
普通の大人なら受けない差別を、この子たちは受けて生きているのだ。
だから、次郎がお金に執着するようになったことも、しかたないと思ってきた。なにしろ、お金を持っていると、相手の態度が変わるのだ。それまで、差別(排除、区別、制限)されていた身分がお客様に昇格するのだ。「ありがとうございます」と、笑顔で頭まで下げてもらえる。
こんな快感はないだろう。お金=快感 という依存症の素地は出来た。
お金は裏切らなかった。たくさん持っていれば、だれもが口をそろえて「すごい」と言い、お金を払えば「ありがとうございます」とお礼を言われた。お金さえあれば、何でも出来る気がした。
さらに、コロナ禍の自粛生活で孤独を極め、次郎のお金依存度が増しに増した。コロナの影響でそもそも少なかった収入さえもなくなった次郎は、母親である私に、あの手この手でお金を要求する。さながら反社のようだ。私は「毎日オレオレ詐欺に会っているんです。実の息子から。」と冗談めかして言うけれど、冗談でしか言えない本音がある。本気で困っているけれど、この根深い悩みを解決する方法が見つからない。もし誰かに話したとしても、「次郎君、お母さんを困らしちゃダメでしょ。」と言われるのがオチだ。
お金=快感
の回路を絶つ方法を探している。
ここまで書いて月収9億円(以上)と言うメンタリストさんとは、比較にも、お話にもならないと思うだろうか?
お金さえ持っていれば、welcomeな世界がある。
お金がない=不安 という気持ちは多くの人が持つだろう。
だからこそ、お金を稼げる人は人気がある。
だとすれば、
お金がなくても幸せに暮らせる社会を実現したい。
資本主義社会の次を考える時が来ているのだと思う。
差別されたり、いじめられたりしてきた人が、札束”以外”で張り倒せる世間であればいい。