穂村弘さんへの畏怖
穂村さんが関わる本、今のところ5冊を読み終わった。
ある書店の店長さんがおすすめしていた『ヘヴンアイズ』の帯に穂村さんの言葉がのっていて、私は穂村さんの名前を知った。
その後偶然『短歌の友人』を読み、圧倒的な短歌の解説力というか、鑑賞力というか、言葉への姿勢に驚いた。
短歌という短い文言のなかでここまで遊べるのかと驚嘆しながら、
この穂村さんという人への興味が湧いた。
この人はなんだかすごいんじゃなかろうか?と。
その後、『にょっ記』を読んだ。部分的に短歌の友人に通じる穂村さんの計り知れない何かを感じながらも、ちょっと戸惑った。
短歌の友人での穂村さんは、こういう人だったのか?と。
その次は、『整形前夜』を読んだ。これがすごかった。
外国文学や倉橋由美子、江戸川乱歩作品への穂村さんの入れ込み具合をみていて、
あぁ世界にはやっぱりこんなに本を愛しまくっていく人がいるんだ、
私なんてかじってるだけだったわとガックリした。
(ちなみにこの感覚はどんな作家さんのインタビューを見ても思う。
作家さんは本をすごく読んでいるし、その幅はすごい。小学生からそんな小難しい本を・・・?と思うこと度々)
ただ、それだけではない。本が好きな人なんていくらでもいる、
私が周囲の人にこの本がすごいと言い続けているのは、
この人は見られたくないものを見抜く怖い視線がある、
センサーの感度が良い、というか、
蜘蛛の巣状にはられた感性の糸が「そこですか?!」という場所にまで張り巡らされている、
そのことへのゾワッとした感覚があったから。
穂村さんが張りめぐらせたその糸に触れたものを解体していく様、
触れたものが解体されていく様は、痛々しく鋭くて切なかった。
そして今、角田光代さんとの共著『異性』を読み終わった。
結論として、私は穂村弘さんが怖い。
この人が書く短歌や、短歌への考察を、
そしてときおりみせる鋭いエッセイでの言葉を見ていると、
怖くなる。
この人はどんな目でこの世を見ているんだろう。
どうしたら、物事をそんな風に解体していけるの?
その言葉たちは、どうやって選ばれたの?
どうしたら、そんなに敏感に鋭利に落ち着いて的確に柔らかくさりげなく、切り裂けるの?
優しいセンシティブな人、ファッション迷子としての弱々しい羊のような面をこちらに向けながら
時おり放たれる言葉は、弱々しさの欠片もない。
この人を目の前にしたとき、私は平静を保てる気がしない。
この怖さは、整形前夜の富崎由美さんの解説を読んだときにも味わったし、
シンラで公開された記事でも思った。
(http://www.cinra.net/interview/2013/09/19/000000.php)
この人が本気で紡ぎだした言葉は私の解釈や理解を越えていく
ついていけない、怖い、驚異であり、私にとっては畏怖。
自意識と戦う穂村さんの鋭い観察力は、
自分への鋭さを外界にも向けることができる。
外界の人が発する何気ない言葉が糸にひっかかる。
キャッチされる。
そこから考察が始まる。
この人はこんな人なんだろうな、という考察がされる。
そこで私は、私の安易な言葉が穂村さんの糸にひっかかったら
どう評価されるのだろうと考える。
ぞっとする。
こんな未熟で面白味もない言葉の羅列がそもそもひっかかるわけがない。
恥ずかしい。穂村さんの糸にひっかかりもせず落ちていく気がする。悲しい。
生まれもったセンサーのよさは
センスとも言えると思う。
服や髪型という外見のセンスではなく
もっと思考力とか、考える力としてのセンス。
そしてそのセンスというものは、おそらく
育てようとしても育たない。
欲しいと望んでも得られない。
もともとあるか、ないか、すこしあるか、
割り合が決まって調合されて人は生まれているんじゃないか。
それは、知恵とか知識とか、頭の回転と比例するものでもなく
どこの家に生まれるか、くらいに選べないもの。
もっと伝えたいものが私のなかにたまれば良いのに
いつも他に圧倒されて転がされてばかりいる
圧倒的なセンスの前に、うじうじとするしかないのが悲しい。
詩がかける人が羨ましい。短歌や俳句のセンスがある人が羨ましい。
自分がいくら背伸びをしても、取り繕えないとわかっているから
ただただ、羨ましい。
鍛練しようとしたこともないまま、指を間で、そっちがわを見る。
ほむほむなど、呼べはしない。私にとって穂村さんは畏怖の対象。
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