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映画『哀れなるものたち』評
映画『哀れなるものたち』を観た。
キョーレツな映画だった。
似た作品は思いつかなかったけれど、
連想されるモノには幾つか思い当たった。
❶映画『オズの魔法使』
❷ディヴィッド・リンチ
❸漫画『火の鳥 復活編』
❹AIの進化史
❺映画『2001年 宇宙の旅』
❻ツゥラトゥストラはかく語りき
❼総括
以下、作品の内容に触れます。
❶映画『オズの魔法使』
モノクロからカラーに。
それだけで映画『オズの魔法使』を連想する。
1939年の映画で、カラー映画の第一号だった。
ドロシーが暮らすカンザスシティはモノクロで描かれ、
竜巻で飛ばされた先のオズの国はカラーで描かれた。
ドロシーが目指すエメラルドシティへ続く道は黄色いレンガの道で、
『哀れなるものたち』でベラがさまようリスボンの街も、
黄色いレンガで敷き詰められていた。
世界を見る旅に出たベラが生まれ育った家に帰り、
彼女の「おうちが一番ね」というセリフで物語を締めるが、
これはドロシーがオズの国からカンザスシティに帰るための呪文であり、
ドロシーが自宅に帰り(目を覚まして)、述べるセリフでもある。
「There is no place like home !」というセリフですが、私は英語に疎く、
この『哀れなるものたち』でのセリフと同じものか、確証はありません。
❷ディビッド・リンチ
『哀れなるものたち』の奇怪でグロテスクな描写を観ていると、
デヴィッド・リンチの表現を思いだす。
彼は映画『オズの魔法使』の影響を公言している。
監督した作品全てに影響が及んでいると、当の本人が語っている。
はっきりとしたものでは1990年の『ワイルド・アット・ハート』。
『オズの魔法使』をベースに制作された。
『ワイルド・アット・ハート』で、
主人公の運命を変えるほどの重要なキーパーソンが登場するが、
これをウィレム・デフォーが演じた。
『哀れなるものたち』では主人公ベラの産みの親という、
これまた非常に重要な役を演じている。
おそらくそういう意味を含んだキャスティングだったと思われる。
❸漫画『火の鳥 復活編』
手塚治虫のライフワーク作品『火の鳥』の一編「復活篇」で、
事故死した主人公レオナが、再生手術で生き返る。
レオナは人類再生成功例の第一号だった。
これには後遺症があって、人間や動物などの生命体が
みにくい無機物に見えるようになってしまう。
この後遺症によって映し出される世界と、
『哀れなるものたち』のベラが見ている(生きている)世界に、
ほんのわずかに近似性を感じる。
❹AIの進化史
『哀れなるものたち』での背景は、すべて嘘ものに見えた。
ファンタジーの世界を彩ろうとする意図とは別物の意図を感じた。
現実とは少し違う違和感が漂い、奇妙だった。
それは生成AIが描いた絵を見た時みたいな感覚だった。
先述のモノクロからカラーへ変わる表現を踏まえれば、
ベラの「見ている世界」がこの映画上の色彩に
強く影響を及ぼしていると考えるのが自然だから、
この奇妙な世界はそのままベラが見ている世界と考えて良さそうだ。
つまり、生成AIが描く世界をベラは見ており、
つまりベラの成長は、そのままAIの進化史を
映画として表現しているのかもしれない。
吸収するだけだったベラは、最後の最後で「迷える羊」を産み出す。
「現代の生成AIに追いついた」という物語の終焉と言えるか。
❺映画『2001年 宇宙の旅』
ベラが産み出した生命「迷える羊」。
彼が画面に映し出されたとき、
かなり神の領域を感じさせるような狂気じみた音楽が流れる。
全編に統一感のある前衛的で神々しい音楽が流れているが、
このときはひときわ重大な音楽に聞こえる。
映画『2001年 宇宙の旅』を思い出す。
『2001年 宇宙の旅』の冒頭で
類人猿が武器を使って殺人をしたとき、
あるいは映画の最後、
新たな人類が誕生するイメージが映し出されるとき、
リヒャルト・シュトラウスの
交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』が流れる。
あまりにも有名で、この曲はこの映画のために作られたと
そう思い込んでしまっている人も多いだろう。
余談だが『2001年 宇宙の旅』を監督したスタンリー・キューブリックは
映画内で、神との契約更改者が人間ではなくコンピュータだと表現した。
さらにキューブリックは『A.I.』という映画を構想していたが
実現するには自分ではなくスピルバーグが向いていると考え、
彼に制作権を譲っている。
❻ツァラトゥストラはかく語りき
リヒャルト・シュトラウスの交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』は、
ニーチェの著作『ツァラトゥストラはかく語りき』からインスパイアされて
原作の部分部分を選び取って表現したものとされる。
ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』は思想書だ。
彼が考え出した「永劫回帰」とか「ルサンチマン」とか
「超人」とかのことを語っている。
「永劫回帰」という思想を簡単に言うと、
人間は同じことの繰り返しだ、いいことも悪いことも、
必ず繰り返される。その枠の中で生きている。だからこそ、
日常や自分を肯定するべきだ、といったもの。
『哀れなるものたち』でのベラは、
マッドサイエンティスト(ウィレム・デフォー)によって
死んだ母親の肉体で生きており、
母親の肉体にとっては第二の人生なのだが、
これは「同じことを繰り返す」の象徴として考えられる。
ニーチェは、同じようなパターンが繰り返される人生を肯定し、
それを受け入れた人のことを「超人」と呼んだ。
『ツァラトゥストラはかく語りき』で「超人」について以下の記述がある。
「その人は、いつかはわれわれのもとに来るであろう。世を救う人は、大地に目標を与える人は『超人』と呼ばれる」
しかし、『哀れなるものたち』のベラは、
ニーチェの言う「超人」のように同じことを繰り返さなかった。
知識を吸収していき、進化していき、
新たな生物を産み出すに至る。
『オズの魔法使』ではドロシーが総天然色のオズの国から
カンザスシティに戻ると、映像はモノクロに戻ってしまい、
映画の中で「色の棲み分け」のようなものができているのだが、
『哀れなるものたち』のベラが旅を終えて家に帰ってきても、
映像がモノクロには戻ることはなく、カラーのままである。
同じことは繰り返さない、どんなに躓き、打ちひしがれても、
私たちは先に進んでいる、肯定も否定も、なによりもそれが現実である、
というような強い意思表明のようにも感じた。
❼まとめ
この『哀れなるものたち』は、
ニーチェの「力への意思」とか、
「永劫回帰」といった思想が
物語の一番根幹部分に敷かれ、
物語はニーチェの思想を踏襲しつつも、
最終的に否定気味にリライトした…
といった感じではないでしょうか。
ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』では、
神なき時代に、「超人」は世界に新たな価値を与える存在となる
としている。
ベラがAIの進化を象徴しているのであれば、
キューブリックが『2001年 宇宙の旅』で描いたように、
新たな人類の主役となるのはAIであると、
そういった危機感と期待感ないまぜの、
複雑で面白い作品だった。
とにかくマーク・ラファロが相変わらず
抜群に魅力あるお芝居をしてるんですが、
主役のエマ・ストーンの前では完全に彼女に
圧されてるように見えてしまいます。
アカデミー主演女優賞は間違いないでしょう。
他にこの役を演じられる女優は見当たらないです。
この女優がこの役をエロくやってしまうと
意味がまったく変わってきてしまうので。