『時里二郎 詩集』(現代詩文庫・思潮社)を読む
思潮社の現代詩文庫から時里二郎詩集が刊行された。
読むのをとても楽しみにしていたので、ゆっくり読もうと思っていた。
通勤電車の中が私の主な読書時間。朝は立ったまま、帰りは大体座った状態で本を読む。荷物もあって必ずしも良い姿勢ではないのだけれど。
読み始めると文字通り心を奪われてしまい、あっという間に目的の駅に着いてしまう。気分が沈む日も、今日は集中できないかも、と思う日も、関係なく詩集に心を持っていかれてしまい、下車する駅に到着する度に愕然とする。毎日、目が覚めるような、冷たい手でひっぱたかれるような、感覚。
特に「覇王記」、「とりかい観音」、「石目」が衝撃的だった。
詩集『名井島』は持っているので再読ということになるけれど、2段組の文庫で読むと印象が少し異なる。猫の“みゃー”という鳴き声がとてもおかしく感じられ、文庫で読むと洒落の部分がやけにダイレクトに響いてくる。
それが読んでいて不思議にも面白い。
巻末の散文・作品論・詩人論の内容はどれもとても親切で、感動的で、
繰り返し読んでしまう。<詩集>を編むことについて書かれている部分が
ひときわ印象深い。
詩集を繙く者は、収められた一編一編の詩を読みながら、そこに、言葉では書かれていないもうひとつの≪詩≫を読むことになるのだ。
詩集を「作る」のではなく「編む」こと。そこには従って、「ほどく」ということや「編み直す」や「編み足す」ことも含まれている。
(P132からの引用)
書かれていることは、読めば「確かにそうだ」と思う。
とても高度で難度の高いことがやさしく書かれている。
「編みもの」行為は現代詩の詩集で特に輝くのだろう。
なぜならこの一冊が、詩でしか表現できないものの塊だから。