努力がニューノーマルであると思った話。
今年の4月に、経営大学院を卒業した。
お試し的に1年間通い、そこから本入学したため、卒業まで約3年間。私は子供とアンパンマンを見ていてもジャムおじさんの親切さに泣いてしまうくらいの泣き虫だが、自分でも驚くことに3年間学校のことで辛くてとか、苦しくて泣いたことは1度もなかった。
ただし大げさではなく、ケースを読みながら気づいたら白目になっていて「ハッ‼」っと叫んで起きたり、レポートを書きながら嘔吐いていたことは多々あった。
正直なところコミュ障で人前で話すのも辛いタイプなので、発表したりコメントしたりする度ごとに結構「オエッ」となっていた。本当に、その場所に最も向いていない部類の人間だったと自分でも思っている。
また、仕事や育児と並行するのも、不器用な自分にはハードルがあった。ポケットに子どもの脱いだくさい靴下や食べかけの菓子が入ったままになっていて、保育園バッグに課題のレポートを入れて出したことも何度かあった。何もかもが中途半端で乱雑だった。
しかしながらオエッオエッとしながら臭い靴下をポッケに入れて3年も続けられたのは、単純に日々新しいことがわかるのが楽しかったことと、普段会えないような強烈に心身を鍛えている人たち(「超人たち」と心の中で呼んでいる)に会えることが大きかった。
超人たちは複数の仕事を兼務しながらもまた更に何かを自分に課して楽しんでいたり、「あんた、どこまで自分事なんだ …!!」と思うくらい世のなかのいろんなことに自分を奮い立たせ、コミットしていた。脳ミソのキン肉マン、脳ミソの棚橋弘至を見ているみたいで、シンプルにカッコ良かった。(なんのこっちゃ)
超人たちは学校を卒業してからも、持っていた夢を磨いたり、新しい夢を見つけたり、自分を奮い立たせ、人を鼓舞している。いつもカッコよく、私はヒーローだと思っている。
一方で私ですが、卒業してから3か月、よく眠り、よく食べ、順調に毎日の缶チューハイの量が増え、夢ではなくビール腹だけが膨らみ、花沢健吾さんの描くいい感じのおじさんみたいな腹になり(好きなタイプだけど)、本日ふと、寝そべってアイスを食べながら、3か月がすでに経過していることと、一つの真実に唐突に気づいた。
「人一倍の努力をする」ということはもはや普通に毛が生えた程度のことなのではないか、と。
情報量がこれだけ多く、ちょっと努力すればなんだって知ることが出来る今、普通の努力はみんな口に出していなくても普通にしていて、なにがしかを変えたいとおもうのであれば3倍以上の努力をしなくては、手には入らないのだと。
人の2倍の勉強なんて、ちょっとくらい「オエッ」てなれば誰だってすぐに出来てしまう程度であり、それに加えて更に人に伝える努力や工夫がなくては、凡人は超人の後ろについていくことすらできない。「人一倍努力が出来ます」なんて自慢でもなんでもなく、本当に3倍努力できますと胸を張って言えるのだろうか。
このような時代になって「努力」という言葉がそれに適しているのか、それはわからない。しかしながら努力とかつて呼ばれていたものと、熱意とが混ざったもの、もしかしたらそれが既に一歩先を行く人たちからは、デフォルトの状態に変わっているのかなと思う。要は多少「オエッ」てなっていることくらいは「努力」でももうなんでもないし、それ以上のことを楽しんでやりきれないと、なんら何もかも変えることはできないのだ。
というようなことを、私は腹をなでながら思った。取り急ぎアイスは今日限り暫く食べない。(でもチューハイは飲んでしまうと思う)