言葉には、抱えたままの伝達があること

詩を「批評する」ことの難しさを考えれば、自分の表現創作の欠点や盲点が浮き彫りになる。例えば、詩において、この言葉はあるイメージを暗喩しているだとか、この一行は直線をその次は曲線を描いているとか、季節や時間の流れ方に注目すべきだとか、この詩は物語の中に新しい次元の物語を組み込んでいるだとか、構造的、あるいは修辞的に文章を捉える能力がないと詩の批評は無理である。
密かな励ましとなる自分のお気に入りの詩の魅力を自分の言葉で語るためには、論理的な思考を必要とするというのに、私はこれまで主観的、つまり自分の経験に即した感受をもって詩を受け止めていたし、自分を肯定するために詩という「言葉の力」の一部はもはや物神化していたように思う。

「胸を打たれた」「心にグッときたから」
そのような言葉でしか言い表せないのは、語彙力の欠如問題の以前に、私はいつも物語の内側にしか自分を置かないためであった。詩は物語ではない。だけどそこにはいつも人間の佇まいや眼差し、温もり、生き方そのものが存在しており、彼らに寄り添うように詩を読むのが常である。彼らとは、作家自身のことだけではなく、作者の内側に佇む他者のことでもあるが、批評をするためには、個々の存在を一旦総和してみなす大胆さがなくてはならないのではないかと思う。いくつかの視座を軸に言葉を対象化してみること、そして物語の内側にではなく俯瞰して批判的な視点で見渡すことが必要だ。

しかし抒情の在り処が自分に問われる言葉であるかぎり、血くだの中に秘められた無意識の世界にこそ一本の投壜通信が届くのではないだろうか。叱られない夢を見たい。私だって心ある批評家になりたいのに、何もかもが舌足らずだと感じる。


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