燻っている、見過ごせない変化
ここ何日か、いや正確には6日間、私は嫉妬の炎に燃えている。
ここ何年も、こんなにも何かが燻っていることなんて一度もなかったので少し記しておこうと思う。
さて6日前に何があったか。
勘のいい読者さまはお気づきかと思いますが、6日ほど前の夜、かつて学生時代にジャズ研でドラムを叩いていたころのライブと発表会の音源を聴いたのだ。
「くっ…当時の私め…ドラム初心者のくせにこんなに上手い人たちと組みやがって…」
「っていうか今そばにいたらまた一緒に組みたい…いや、組ませていただきたい(うっとり)」
「なのに昔は練習、好きじゃなかったなー。ほんとうはジャズピアノがやりたかったって、ずっと思っていたなー」
「だけど、こんなに上手い先輩たちと演奏させてもらってありがとうございますって思いよりも、“私のドラムが下手すぎて邪魔”ってずっと思っていたなー」
「いや、それが全部音に出てるし!!」
(全て、心の中の声)
幸運にも楽器に真剣に取り組む先輩方と一緒に居る機会もやらせていただく機会も多く、初心者ドラマーながらに演奏機会が多かったように思います。
常に上手い先輩方と一緒にやるということは、常に自分が一番下手、という環境でやること。
それはもう自信なくなるわ、でもその分練習するかと言ったら正直そこまで、音色を感じられないドラムが好きではなかった気がする。
ピアノの音色の多彩さに比べるとどうしても、「破壊音」や「破裂音」にしか聴こえないという印象は今でも変わらず…(シンバル音を聴いてメーカーを当てるゲームは得意だったが)。
それでも要領よくこなせてしまうため、聴く人が聴けば練習不足だとはわかるけれども、CDやライブを聴く量、セッションの回数で補っているため、勘だけは抜群だった。
周りの先輩たちのアドリブ展開を把握もしくは予測し、ここぞとひょいと盛り上げたり乗せることがうまかったように思う。
なんならアドリブの調子や楽器の音色でフロントマンのその日の体調まで察してしまい、ドラムの音量やフィルインの手数をこっそり調節したりした。
今日のこのアドリブは、誰それのあのリーダーアルバムの気分だな、じゃあそのドラマーっぽく叩こう、あのアルバムの雰囲気に持っていこう、などど、意識したりもした。
我ながら、ずるい、ずるすぎる。
今考えればそうゆう細かい調整がウケていたのだろうとは分かるが、「叩き上げ」と言えば聞こえがいい私のドラミングの基礎力のなさは目に余るものだった。
本当にドラムが好きな方々に謝れと当時の自分に言いたいが、とはいえ、それなりに自分でも上手い先輩方に囲まれて、危機感と責任感を持って続けていたはずだ。
でなければ、真面目に楽器に取り組んでいた先輩方も私には声をかけないはずだ。
ブランク明けから今まで、周りの誰かと比べて劣等感を感じたりは多少あったが、悔しさや嫉妬したりという感情はなかった。ほんとうに、信じられないけれど、ほぼゼロだった。
あったとしても、悔しさや嫉妬する矛先はいつだって人に対してではなく、途切れずに楽器を続けていられる、その環境そのものに対してだ。
「また一番出来ないところからの始まりだな、昔みたいにやるっきゃない」と、技量に関しては上だけを向く気持ちでまっすぐにやってきた。
どんなに上手い知人がいても、「うまいなー、すごいなー、おーがんばれー」と、どこか外側から見ていた。
負けず嫌い精神が強かった昔の自分と比べて、今のそんなあっさりしている自分に内心驚いてもいた。
ところが……昔の音源を聴いて、あっさりと手のひらを返してこれである。
「何くそ、昔の私!!」
「◯◯先輩のお気に入りフレーズ、いただいちゃおう!!」
「全部吸収してやる!!」
冷めすぎだろ自分、と思っていた矢先に火をつけたのは、言い方はあれなのだがあくまでも比喩で、ここ最近すれ違い、今の一瞬しかお見受けしていない方々ではなく、長く、それは長く時間を過ごしてきた方々との演奏なのだ。
どれだけ楽器に真剣に向かっていて、どれだけ熱心にCDを聴いて、その熱量をそばで感じつつ幾日の夜を練習室で過ごしたわからないくらいの、今はもう遠く離れて暮らす先輩たちとの過去の演奏が、ようやく私に火をつけた。
「でも…ドラムから離れたら、こうゆう風に全体の音を聴きながら、柔軟に自分の振る舞いを変えていくスタイルじゃ、なくなっちゃうんだな」
と、若干の寂しさを覚えつつ、スティックよりもひと回り大きいフルートという新しい相棒が可愛くて可愛くて仕方がないのでありました。