鉄道とBRTでつなぐ、春の三陸海岸 ③3日目(石巻→釜石)
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【6】みんなの足は姿を変えて 石巻→志津川
2022年3月28日、月曜日。
まだ出発までは相当な時間があるというのに、朝5時に目が覚めてしまった。12月に訪れた新見でも全くといっていいほど寝付けなかったことを考えれば、やはり僕は環境ががらりと変わると眠れない性質らしい。
列車の時間にあわせて6時ごろに宿を出た。街はひっそりとしていて、空気が余計に冷たく感じる。寒さに耐えきれなくなって、結局今朝は上着をもう一枚増やし、おまけにマフラーまで巻いた。やはり寒いのは苦手だ。
朝日に照らされながら石巻駅まで歩いてきた。平日ではあるがまだラッシュには早い時間で、駅には仙台行きの快速列車を待つ人がぽつぽつといるくらい。開店したばかりの売店に駆け込んで朝食用の弁当とお茶を買い、もう4番線に止まっている古川行きの始発列車に乗り込む。学生利用を見越してか4両もつないでいて、昨日の女川行きとの差を感じる。
あおば通行きの普通電車が出ていって1分差、6時51分に列車は石巻駅を出発した。石巻駅の仙石線ホームは平日と休日で発車メロディーが異なっていて、平日用のものはまだ聞いたことがなかったのだが、今回もおあずけだ。
車窓には田んぼがずっと流れていく。ササニシキが生まれた宮城のコメどころだ。途中にある曽波神駅はシンプルな感じの無人駅だった。次の鹿又駅ではなんと向かいに貨物列車が。今も石巻港までは紙などを運ぶ貨物列車が何本か走っていて、物流ルートとして石巻線がひそかに役立っているのがよくわかる。
気仙沼線のレールが右から寄ってくると、前谷地駅に到着する。時刻は7時11分、石巻からはたった20分だ。石巻線の起点である小牛田駅まではあと13㎞しかないが、時間の都合で今回は気仙沼線にこのままそれる。
旧河南町の看板やBRT乗り場のある駅舎まわりを軽く見てみた後、気仙沼線の柳津行き列車に乗り込む。こちらはたった1両のワンマンカーなのだが、意外にもボックス席が学生で埋まっている。今の時間帯はこの方面に向かう需要はそうないはずなのにおかしいな、と思っていたら、向かいのホームに石巻方面への列車がやってくると、皆そちらへ移っていった。なるほど、暖房の効いている列車内を待合室代わりにしていたわけだ。車内は一気にがらんとなって、少し寂しくなった。
7時33分に前谷地駅を出発。終点の柳津駅まではたったの17.5km、所要時間20分と短い道のりだ。
現在は登米市の柳津駅が終着駅となっている気仙沼線だが、かつては路線名の通りに、志津川や本吉を経由し気仙沼駅までを結ぶ72.8kmの路線であった。しかし海岸近くを走っていた柳津駅より先の区間は津波で壊滅的な被害を受けており、費用面などから鉄道での復旧を断念し、BRT(バス高速輸送システム)による運行となっている。
車窓には変わらず田畑が広がっている。建物が増えてくると前谷地から3つ目の陸前豊里駅で、登米市になる前は豊里町だったところ。町の中心らしい風景だ。
北上川にかかる長い鉄橋を渡って、7時56分に終点の柳津駅に到着。本当にあっという間だった。レールはここで途切れていて、気仙沼方面の軌道を見てみるとアスファルトで舗装されている。これがBRTの専用道だ。ホームから歩いていけばそのまま乗り換えられるようになっている。
ログハウス風の小さな駅舎だが、昔の写真がたくさん貼ってあり、見ているだけでも楽しい。ちょうどこのあたりが舞台となった、去年の朝ドラのポスターもあった。窓口にはきちんと駅員さんがいて切符が売られているが、3月末で販売終了の張り紙が。
いろいろ見ているうちに、赤色のバスが乗り場にやってきた。いよいよ初めてのBRT、どんな景色を見せてくれるのか楽しみにしながら、8時11分発の気仙沼行きに乗り込んだ。
しばらくはトンネルが連続する。気仙沼線の開業は1957年の本吉~気仙沼間に始まり、1977年の柳津~本吉間で完結している。国鉄時代にできた路線としてはずいぶん新しい部類なのだ。線形はよく、走り心地もそこまで悪くはない。舗装の問題でところどころガクンと揺れることはあるが。しかも本数は鉄道時代から圧倒的に増えていて、利便性も向上している。
陸前横山駅を出て全長3508mの横山トンネルを抜け、その次の陸前戸倉駅からが、海の見える区間。今日は天気が良く、日の光が水面に反射してまぶしい。車窓を楽しめる点では、鉄道だったころとたいして変わっていないのかもしれない。
【7】新しい光、さんさんと照らす 志津川→気仙沼
一般道に降りて志津川の旧市街地に入り、八幡川を渡ると志津川駅に到着する。時刻は8時39分。降りたのは僕一人だったが、2~3人が乗っていった。
三陸海岸に面した南三陸町には平均でも16m以上の大津波が押し寄せ、犠牲者は800人以上にのぼる。志津川はラッパ状の湾の奥にある町なので、東日本大震災の前にも江戸、明治、昭和と何度も大津波に襲われてきた。津波がほかの地域より高くなるのは、リアス式海岸で地形が複雑な三陸海岸だと全体で見られた傾向である。
旧志津川町内では市街地が高台に移転しており、海に近い駅周辺はかさ上げなどもされて景色がすっかり変わっている。その中で国道を挟んで駅の反対側にあるのが南三陸さんさん商店街だ。2012年2月に仮設商店街としてオープン、震災から5年が経った2017年3月に現在の場所で本設化された。飲食店やお土産屋さんはもちろんのこと、生活関連のお店もあり、入居しているのは全部で28店舗。観光で来た人たちにとっても、地元の人たちにとっても、重要な場所となっている。
まだ開店前の商店街を歩いてみる。建物は建築家の隈研吾氏がデザインしたもので、仮設時代の雑多としたワクワク感を残しつつ温かみのあるものにしようと設計されたという。軽く散策するだけでもその意図は十分に伝わってきた。ちなみに使われている木材は南三陸産の杉だ。
商店街の一角に写真屋とギャラリーがあり、常設で写真展をやっている。そこの前にはパネルがあり、現在の写真と震災直後の写真が並べられていた。被害度合いの大きさは一目瞭然でほぼ壊滅状態、わずかに残っている建物も津波にやられてボロボロ。それから今の街の様子を見れば、10年でここまで再建できたことのすごさが実感できる。だが、道のりはまだ長い。
八幡川にかかる橋を渡ると、その先に町の防災対策庁舎がある。地上3階建ての頑丈な鉄骨造りの建物の、屋上のさらに2m上まで、津波は押し寄せた。庁舎内には町の職員が約30人いたが、助かったのは10人だけだった。この庁舎で命を落としたのは43人で、高台へ避難するように、防災無線で住民に最後まで呼びかけた女性職員もその一人。かろうじて助かった人は、アンテナや手すりにしがみついて耐えたという。
現在庁舎は宮城県の所有になり、震災遺構として保存されている。残っているのは入口の屋根と文字、そして骨組みと非常階段とアンテナだけ。津波の威力を見せつけられる、あまりにもショッキングな姿だった。
川の西側、防災対策庁舎の周辺は震災祈念公園として整備されていて、「祈りの丘」の一番上からは志津川湾と今の街を一望できる。海の方向にあるモニュメントには花が添えられていて、僕も花は持っていないがしばし手を合わせた。その丘から、高校などがある高台方向を見てみると、そこにはかつての志津川駅が。地下道とホームだけが残され、草が生い茂り、すっかり廃墟と化していた。
祈念公園を一通りまわったあと、国道45号に出て再びさんさん商店街方面へ進む。道路の海側には高野会館という建物が残されていて、ちょうどツアーの観光バスが横に止まっていた。ちなみにこの近くにはすでに解体された公立志津川病院もあり、5階建ての建物のうち4階まで津波にのまれた。患者と職員あわせて75人が犠牲となっており、患者のほとんどは65歳以上だったという。
八幡川にかかる橋から志津川湾を眺める。養殖のいかだが浮かんでいて、ホテルらしきものも見えた。実にのどかだ。こんな穏やかな光景がこれからも繰り広げられることを願ってやまない。
さんさん商店街に戻ってきた。お店をまわりはじめるにはちょうどいい時間で、僕もお土産屋さんで地元のキャラクター「オクトパス君」のキーホルダーをひとつ購入(よりによってそのあとなくしてしまったのだがたぶん自宅にはある)。まだ昼には早く食事にはできなかったので、次はご飯を食べに来られたらと思う。
10時09分、志津川の町に別れを告げ、BRTで気仙沼を目指して出発。旧市街地を出たバスは国道をそれて坂をぐいぐい上り、高台にひらかれた新市街地に入って町役場の前で止まる。まわりには病院やアリーナがあり、まさに南三陸町の新しい中心といった感じだ。建物は新しいものが多い。駅があったところと現在人が住むところが違っているこういう場合では、BRTの強みである運用の柔軟さが非常に役に立つ。
再び専用道上に戻り、志津川トンネルを抜けると清水浜駅に到着。「しづがわ」の次が「しずはま」である。高くなった防波堤の向こうに、わずかに水面が見えた。さらにトンネルが連続し、その間に歌津駅がある。ここも湾の奥まった場所にある駅だ。旧歌津町の代表駅で、町を見下ろすように高台に建っていたが、駅舎は津波で流失してしまった。
トンネルが続く区間は陸前小泉駅で終わる。専用道の築堤より海側は津波で壊滅しており、整地されて苗木が植えられている。大きくカーブを描きながらトラス橋で津谷川を渡り、三陸自動車道をくぐると本吉駅に到着。2009年に気仙沼市と合併した旧本吉町の代表駅で、駅舎が今も健在だ。
小金沢駅の手前で再び一般道へシフト。この区間は海岸にかなり近いところを走っており、当然ながら甚大な被害を受けた。
レールが敷かれていたと思しき場所を国道からたどっていき、しばらくすると目の前が開けた。ここが大谷海岸で、震災前は海水浴場があってにぎわったところだ。しかし地震による地盤沈下で砂浜は失われてしまい、道の駅と併設されていた駅も浸水した。現在はかさ上げが終わり、道の駅はリニューアルオープン。BRTの大谷海岸駅もそこに併設されている。10年越しによみがえった海岸は、車窓からもよく見えた。
専用道に戻り、本吉駅と同じく駅舎が残る陸前階上駅に到着。この辺りまで来ると、気仙沼まで向かう人たちで車内はそこそこの混雑具合になる。列車が津波に巻き込まれた最知駅と松岩駅の間も過ぎて、すでに気仙沼の市街地に入っている。
漁港や魚市場の近く、かつての市の中心部にあるのが南気仙沼駅。港町の気仙沼ならばこの辺りも相当にぎわってそうだが、意外にも空き地が目立つ。大津波と、それに起因する火災で、駅周辺は壊滅状態となってしまったのだ。土地の再整備が終わって駅が元の場所に再建されたのも比較的最近の話で、まだまだ道半ばであることがよくわかる。これから少しずつ、昔のような街に戻っていくのだろうか。
【8】海の幸、のち重大ミス 気仙沼→陸前高田
住宅地の中をぐるりとまわり、右にカーブして大船渡線と合流すると、終点の気仙沼駅に到着。時刻は11時31分、これをもって気仙沼線は完全乗車となった。
宮城県の北の端にある気仙沼市、人口は6万人弱。交通ルートが3方向に延びるこの街では漁業だけでなく商業、観光も栄えている。名産は高級食材のふかひれで、もちろんそれ以外の海産物も豊富だ。そんな気仙沼での滞在時間は目安2時間、たんまりある(と思っていた)ので、漁港方面まで歩いて昼食と行こうではないか。
気仙沼駅は街はずれにあるので、いくつかある観光スポット的な場所からは微妙に遠い。歩くのは少し大変なのだが港まで1kmくらいなら、と意気揚々と歩を進めていると、途中で自転車が2台、颯爽と僕を追い抜いていった。志津川から同じBRTに乗っていた人たちなので、案内所でレンタサイクルでも借りたのだろうか。これは思い切り失敗したな、とあとになって反省した。
両側に店が立ち並ぶ狭い道をずんずん行く。雑居ビルの柱には津波浸水高の表示があって、このあたりも浸水したことがわかる。その先に、海が見えてきた。船着き場前にある新しい交流プラザの近くには商店街があってよさげだが、その中の店には入らず、さらに先のお魚いちば併設の食堂へ。1食だけでも奮発してしまおうとまぐろ丼を注文した。
目の前に出てきてまず一言、量が多い。価格相応ではあるかもしれないが、めったに食べないので価格関係なくなかなかのボリュームに思えた。そして味も当然ながらよかった。
店を出ると目の前は港で、漁船がたくさん係留されている。ここでもやはりウミネコが飛んでいた。さらに南へ歩いていくと魚市場があるのだが、時間の都合で今回は断念。実はここまで来ると南気仙沼駅から歩いてきた方が圧倒的に楽で、またも僕の調査不足があだとなった。
思えばここ数日ずっと海の近くを進んできている。普段は海にまったく関係のない生活をしている分、非日常みがより強く感じられる。
気仙沼駅までの長い道のりを引き返し、今度は大船渡線に乗り継ぐ。岩手県の一ノ関駅を起点に気仙沼駅が終点となっている当路線、全長は62kmだが、かつてはさらに先、陸前高田を経由し大船渡市の盛駅までを結ぶ105.7kmの路線であった。しかし三陸海岸沿いを走る気仙沼駅以北は津波によって大きな被害を受け、気仙沼線と同様、鉄道事業を廃止してBRTによる運行となっている。
13時43分に気仙沼駅を出発。先ほど港へ向かうときに通った道に沿って専用道を行き、住宅街の下をトンネルで抜ける。鹿折唐桑駅で早くも専用道は尽きて、国道45号に入った。震災前の大船渡線は大きく山側へ迂回して宮城県と岩手県との県境を越えていたが、BRTは海沿い、唐桑半島の付け根を通って陸前高田市へ向かう。
やや山の中に入り込んで、気仙沼鹿折I.C.から三陸自動車道へ。正式名称を「三陸沿岸道路」というこの道路は、仙台市から八戸市までの359km間を三陸海岸に沿って結ぶ長大路線で、国土交通省による復興道路の一つに位置付けられている。2021年12月にようやく全線が開通し、三陸の新たな交通の要となった。こうなれば地元の交通機関はまた分が悪くなってしまうが、鉄道や路線バスにはスピード以上の魅力があると僕は信じて疑っていない。まだまだ頑張ってほしいし、応援していきたいものだ。
霧立山という標高400mほどの低い山をトンネルで短絡し、2つ先の唐桑小原木I.C.で再び一般道へ。木々の向こうの広田湾を眺めながら国道を走って、気が付けば岩手県陸前高田市に入っていた。16m弱という想像をはるかに超える大津波に市街地はのみこまれ、文字通りの「壊滅」状態であった。
カーブを繰り返し、気仙大橋を渡る手前で右手に目をやると、3階建ての建物が見えた。これが旧気仙中学校で、津波でボロボロになってそのままになっている。窓も何枚か抜けていた。これだけの惨状でありながら、日ごろの避難訓練のおかげで犠牲者は一人も出さなかったのだとか。
川を渡ると見えてきた、「奇跡の一本松」が。震災前は「高田松原」があったところで、津波によって一面に広がっていた松の木のほぼすべてが流されてしまった中、たった1本だけ、耐えて生き残った木があった。残念ながら海水などの腐食によって2012年5月に枯れてしまったが、保存処理が行われ、元の場所にモニュメントとしてよみがえったのが今の奇跡の一本松だ。一帯は「津波復興祈念公園」として整備され、旧道の駅や中学校跡をはじめいくつかの震災遺構が残されている。そして新たな道の駅と隣り合わせで津波伝承館「いわてTSUNAMIメモリアル」が開設され、陸前高田市や岩手県の様子だけでなく、津波災害の歴史から、あの日起きたこと、その後の被災地の姿まで追うことができるようになっている。
計画ではここにも訪れる予定だったのだが、僕はなぜか素通りして新市街地にある陸前高田駅で降りた。時刻は14時22分、次に乗る予定のBRTまでは1時間半ほど。時間に余裕はあるように思えるが、駅の横にある観光案内所で聞いてみると、陸前高田駅から奇跡の一本松まではおよそ1km離れており、歩いて20分かかるという。おまけに今日は強い風が吹いていて、あまり歩きたくない。これはまたリサーチ不足だな、と苦い顔になった。
無理に一本松まで歩いて旅程が崩れては元も子もないので潔く諦めて、観光案内所の方からおすすめされた市役所を目指す。現在の駅がある場所は震災後に整備された高台で、住宅や店が立ち並ぶ。駅の目の前、道路を挟んだ向こう側には「アバッセたかた」というのがあり、調べてみると様々なテナントが店を構えしかも図書館まであるらしい。一度すべてを壊されてしまったからこそ、新しい街の形を探して、見つけて、立て直している。
駅から山の方へ歩いて15分で陸前高田市役所に到着。もともと小学校があった場所に移転させたそうで、外観はまだ新しい。自分の住む市以外の役所には入ったことがないので、少し腰が引けたが、何もしないのはもったいない、と足を踏み込んで、エレベーターで最上階を目指す。
最上階は展望室になっていて、地元の方々が談笑していた。海から津波伝承館、そして新市街地まで、陸前高田の街を一望できる。なるほど、観光案内所の方がすすめてくださっただけのことはある。計画段階で予想していたものとは違ってしまったけれど、「今」の高田を見ることができたという点では、悪くなかったのかもしれない。次こそは一本松と津波伝承館に訪れようと、決意を新たにしたのであった(そして下調べをきちんとしようとここにきてようやく思い直した)。
【9】さらに北進、いよいよ三鉄登場! 陸前高田→釜石
微妙に時間が合わなかったため駅で少しだけ待つ。駅舎の外観は震災前のものをイメージしてつくられているが、内装は近代的だ。かつて陸前高田駅があった場所を含め、旧市街地はすっかりかさ上げされており、その姿をとどめていない。
15時51分発のBRTで陸前高田駅を出発。気仙沼線の志津川と同じように、大船渡線でもこのあたりでは高校や病院に立ち寄っていく。
しばらくは一般道を走って、小友駅の手前から再び専用道区間。海がすぐ近くに見えるところもあって、するともう大船渡市だ。
市街地に入ると、右に魚市場の大きな建物が見えてくる。リアス式海岸に面する大船渡市は最大11mの津波が到達し、多くの地域で浸水の被害が出た。湾のまわりにある市街地も破壊された。以前は市内の商業の中心だった大船渡駅周辺は、今後再び浸水する可能性も考慮しつつ、区画を整理してその機能を復活させようとしている。駅前には「おおふなぽーと」というのがあり、防災交流センターとなっている。大船渡でも観光する時間があれば立ち寄ってみたかったのだが、残念なことにここではすぐ乗り継がなければならない。再訪が必要そうだ。
右からやってきた三陸鉄道の列車と偶然にも並走して、16時36分に盛駅に到着。乗り換え時間はたったの13分、接続がよすぎて今回の旅ではむしろ困るくらいだ。大急ぎで写真を何枚か撮り、三陸鉄道の「片道途中下車きっぷ」を購入した。通常運賃と同額の3780円だが名の通り途中下車が可能で、片方向に抜ける前提での観光利用にはうってつけの切符だ。
16時49分、あわただしく乗り込んだ列車で盛駅を出発。今朝の気仙沼線以来となる久しぶりの「鉄道」だ。少し遠くに煙突が見えて、盛川を渡るとトンネルに入る。新しい路線だから、トンネルは多めだ。
三陸鉄道が開業したのは1984年4月のことで、国鉄の盛線、宮古線、久慈線という3つの路線を受け継ぎ、未開通だった区間をつなげてできたものだ。会社は地元自治体が出資してつくられた「第三セクター」で、国鉄の不採算路線を継承した母体としては初めてのものだった。震災では甚大な被害を受けており、路盤の流出、浸水、高架橋の倒壊などが起きた。しかし「とりあえず列車を動かさねば」という方針のもと、わずか5日後に一部区間で運転を再開し、被災地を元気づけた。それが幸いしてか各方面から支援があり、2014年4月に南リアス線と北リアス線、全区間の運転再開が実現。2019年3月には旧JR山田線の一部区間を継承し、現在は盛駅から久慈駅まで、総延長163kmの「リアス線」となっている。
大船渡市と合併した旧三陸町の代表駅である綾里駅までが、旧南リアス線最初の再開区間。次の恋し浜駅はもともと「小石浜駅」で、ホタテのブランドの名前から逆輸入して改称された。待合室にはホタテ貝を用いた絵馬掛けができ、ホーム上には「幸せの鐘」がある。まさに「恋」とかけられた駅で、旧南リアス線区間では特に人気と知名度の高い駅だ。昼間の列車は少し長めに停車してくれるのだが、今はもう17時過ぎ、すぐに発車した。
トンネルの間に小さな港が現れる景色が続き、吉浜駅の先では吉浜湾が見える。このあたりではアワビがよくとれるのだそうで、昼間の列車ではそう案内されることもあるらしい。そのあと長い鍬台トンネルに入るが、震災当時はこのトンネル内で列車が急停止した。トンネルの北側にある橋は津波にやられており、もしタイミングが悪ければ列車も巻き添えになっていたかもしれない。幸い、乗客乗員にけがはなかった。
何本目かのトンネルを抜けて、ぐっと左にカーブすると街並みが見えてきた。ここが製鉄とラグビーの街、釜石だ。駅の目の前に製鉄所があって、もくもくと煙を出している。
ゆっくりと減速して、列車は釜石駅の構内に入った。時刻は17時36分。休むにはちょうどいい時間だ。
今日は反省点の多い一日だった。明日はもう少しきちんと楽しめるように、まずはぐっすり眠ろう。部屋で納豆巻きを食べながらそう思ったのであった。
ー続くー