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日本人の心を与える道徳、という見方はどうですか。(2024/3/18)
今日の日記。
特に自己紹介はありません。
よくわからないまま、なんとなく読んでいただく中で浮かび上がる僕を
そのまま受け取ってもらえれば、
それがきっと一番僕らしい僕であろう、というような。
そういう適当な思いです。
今日あったこと
・お勉強
・読書
・バイト
今日思ったこと
今日こんな記事を見た。
メールの末尾に
「返信ご不要です。」
と書いたら失礼か、否か。
僕は、何をそんなくだらないことをニュースにするのかと思ったのだけれど、なんだか若い世代の人たちは、「メールの返信しなくていいのは助かるし失礼ではない」とか「それ怒るのは過剰なんでは」とかなんとか、、
僕は当然、そんなの
「伝えるのみで”伝わる”と確信できる内容であるならば、僕と対等か下の立場の人に送る場合に限り、書いてもいい」
と思ったし、
「目上の人あるいは自分が下る場合の相手に対しては、書くわけがない」
なぜなら「返信が不要だ」という事は
すなわち「返信をしてくれるな」という指示あるいは命令なのであるから、当然その内容を送れる相手は対等か下の者のみなのであって、目上の人にそのようなことを送るのは失礼だと感じる、というのは当然の認識だと思っていた。
ニュースで見たのは、
ある学生が、先輩から「忙しいと思うから返信しなくていいよ」と結ばれたメールを貰って、心地が良かったから同じように大学の先生に「お忙しいかと思いますので返信ご不要です」とかなんとかと送ったら叱られた、という内容だった。
いや、当たり前だろ。
先輩が後輩であるあなたに送るメールだったからその配慮ができただけであって、先生にそんなの書くか?普通
って思いました。
こういうのも、掘り起こせば日本の道徳教育につながってくるのだろうと思う。
日本は少なくとも仏教に続いて儒教の教えを国民に施してきた国家であるし、その教えでもって国民性を一つに保っていた民族の一つだ。
修身が国家主義的な利害のうちに孕まれてしまうまでは、少なくとも人のあるべき在り方は儒教の示すそれであったし、それに美徳を感じる国民性も十分育っていた。
戦後の道徳でも伝統的な教材は様々あったろうが、それらも当然上を敬い下を守るという精神がこそ徳の体現であったことは言うまでもない。
それが、今の道徳では
教材から全て作り変えられて、伝統的な教材の一切を切り離すとともに、アスリートやインフルエンサーなど今に生きる人物を教材化することで人の生き方を示そうとする。
教材とは、いつ見ても(日本人が)どこで見ても(日本人の)誰が見ても、
「これが伝えんとする徳は〇〇だ」
とわかる明瞭な教訓が示されて然るべきだ。
伝統的な教材は、その緻密な表現によって常にその徳を伝える発揮を持っていた。
しかし、今に生きる人物はどうか。
10年後、彼らは同じ徳を体現しているのだろうか。
10年前、彼らはその徳をすでに持っていたのだうか。
今、彼らは本当にその徳を現していると言えるのか。
それはわからない。10年後逮捕されている活動家がいないなんて誰も言えない。
だからこそ「議論する」とは言うが、
議論すればそこに”正しさ”が生まれてくることを、一体誰が示し得るのか。
道徳において、自分で掴み取る”正解”が果たしてどこまで必要とされるべきなのか、僕には疑問に思えてならない。
人が生きる道というのは、常にすでに示されているべきだ。
その示された「正解」が常にすでに自分の中にあるからこそ、そうではない自分に葛藤し、そうである自分を褒められる。
そうでない自分も、それを良しと見て受け入れることもまたできる。ただそれは常に「(自分らしい)自分」の自覚があるから良しと思えるものであって、その「正解」もなしに、どうして自分を「(何かの基準に対して)自分らしい」と自覚できるのか。
その常にすでに示される「正解」が、日本においては儒教であったし、それが日本を一つにまとめ、ゆえにその日本の中で日本人はよく”分かり得た”。
その「正解」が崩壊し、あるいは希薄化し、人は自分で自分の”正解”を見つけていかねばならなくなった。それによって人は自分らしさでぶつかり合い、自分らしさで競争し合い、自分らしさでに憎み合うことになるのではないか。
つまり、自分で考えさせる(ことが全ての国民に”可能”と見做して)ことで、人は社会を取りまとめる全体性を見失った。
それによって人は社会の拠り所をなくして、結局はそのために何も考えなくなるのではないか。
人は良き素晴らしき文化という全体性を持つからこそ、そこに愛着を感じ、ゆえにそこを自分の居場所と捉え、その居場所を良きものとし続けるために「良い」ことについて考えるのではないか。
ん〜??
ちょっとおかしな方へ話が進んでいっちゃったな、、
なんだか過激に読めるけれど、そういうわけではない、というのはきちんと書き残しておくとして、
この弁明は、またの機会に。