平和で民主的な国家(2024.8.15)
思考の備忘録として、残します。
僕のいつの日か書いた日記を引っ張り出してきて、その日記について今の僕が感想をつける、という形でなんとなく文章を書こう、という魂胆です。
なんとなく僕には、本当に残忍な人の心というのを認めない節がある気がする。
僕自身そんなにできた人間でも無いのに、
きっと人には清らな精神が一番根っこにあって、その美しさを信じることで、人や社会が少しづつ良くなっていくと信じているような気がする。
「人の心」と「主権者教育」
この日記を書いていたときには全然意識していなかったと思うのだけれど、この「心ありき」って感覚は僕の思想の土台に固く根をはってあるような気がする。
何についても、こうした意識で物事を考えるように組み込まれているみたいに。
政治的中立な教育を目指して
教育において究極的に目指されるべきは、平和で民主的な国家の実現である。
子どもたちの豊かな成長とは、真の民主主義実現という目的を健全に果たすための目標であり、これが目的化している以上は、国家はにっちもさっちも進歩しない。
民主主義のために必要なことは、人が個としての尊厳を自覚することである。社会から自分が個として認められている自覚と同じだけ、社会の中に今生きている自分という存在を自分自身が自覚できてなければ、民主主義には程遠い。
個としての自覚とは、個としての責任ある行為に基づく。
ただ生きているのみの民が大勢いるのでは、民主主義が生きているとは言えない。
個々が各々自分の思想と立場を持って、或いは特技と専門性を持って共同体や社会に作用していく確かな行動力が民主主義を前提する。
今日の学校教育は、その民主主義を片付けて仕舞おうとする思惑に駆られているとしか思えないのである。
政治的な見解も、宗教的な立場も、個人の意見でさえも、それが「政治的中立性を守るために」押さえ込まれている。
健全な民主主義を考えれば、全くもって善人の思惑でないことは間違いないのであるが、これがまかり通っているのが、我が日本という国である。
政治的中立を守るとは、誰も何も発言しないことではない。
政治的中立を守るとは、誰しもが発言できることであるのだ。
全ての人が個を表明し、かつ誰しもがそれによって不利益被らない社会が民主主義に近いそれであり、その土台が国民総意の意思形成を実現させる。
教師がなにも言わず、何も教えず、故に教師自身がなにも考えなくなる学校の中で、
子どもたちはどのように社会や政治や宗教や戦争に関心を持ち、自身の想いを育てていけるのだろうか。
「差別を受けることになるかもしれないから、自分の立場を明かさないでくれ」
などと言うのは、
この社会が真っ黒な差別を受容していると公言しているようなものだ。
なんとくだらないことだろう。
少しづつでも、人の意識から変えていかねばならない。
人は発言こそすべきで、意志を表明するための努力を惜しまず生きるべきであるのだ。
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