「考える」と「こなす」(2024.7.7)
教師は常に忙しい。
常にいろんなことを考えている。
明日の授業のこととか、来月の校外学習のこととか、少し家庭でトラブルが起きた子どものこととか、昨日電話をした保護者さんとの話のこととか、、、
いろんなことを考えている。
それは、多分生き方として充実している。
子どもが好きで、教師であることを喜びとする人にとって、教師という生き方の中に自分が組み込まれることは幸せとこそ言える。
でも、それは教師としていろいろなことを「考えている」と言って本当にいいのかな、って思ったって話。
教師は忙しい。
だから、あまり先々のことなんか気にしていられない。先々っていうのはつまり、何年も後のこととか、未来のこととか、そういうこと。
基本的には「今」起きていることについて頭の容量のほとんどが使われていて、そこにゆとりはない。
それは、考えているようで、教師という生き方を「こなしている」だけなのではないかな、って。
当然こなしているだけでも、学びや成長がないわけではない。むしろそれだけでも人として大いに成長できるのが教師という生き方であり、それを望むのが教師らしさというものでもある。
でも、教師は「教師」以上の何者かであるための思考がない。
それは教師という生き方をこなすのに精一杯であるから。
それが悪いことだと捉えること自体おかしなことと思われるのかもしれないほどに、教師は教師”でしかない”。
教師は自身の個性を教育の場に持ち込むという在り方で教育を行おうとはしない。
教師は「教師」に”成る”ことで教育を行おうとする。教師で在るためだけに精一杯で、それ以上の個性を自己に現す余裕がない。
ぼやき。うん、おやすみ。