
調べ物日記:間男地蔵
香川県綾川町羽床にある「間男地蔵」とその周辺のはなし。「間男」とは妻が夫ではない男と性的関係をもつこと、またはその相手の男をさす言葉である。




間男地蔵(まおとこじぞう)
…180年位前、文化3年(1806年)4月はじめのことである。徳川11代将軍家斉の時代である。旧藩世時代、高松藩松平の殿様に仕える家臣に二番丁矢田亀三郎という者がいた。29才になる美しい奥方がいて、何の不自由もなく、他人から羨ましがられる暮らしをしていた。その矢田家に、金毘羅(琴南町造田字内田)の者で、名を吉蔵(吉吾かもしれない)という下男がいた。世に類を見ぬほどの美男で、気立てもよく、何かにつけて親切に仕えていた。年は23才である。
美しい奥方は、美しい下男に恋慕をして、終に越えてはならない道に深入りしてしまった。…4月7日夜、二人は駆け落ちした。金毘羅で2・3日も泊まり、阿波の峠を越えて山里に潜んでいた。矢田家では大騒ぎとなり、両人の行方を探索した。その後両人が阿波方面に隠れていることを知り、追手をだした。二人は捕らえられた。
奥方と吉蔵は、別々にかごの押し込められ、途中猪の鼻峠を通り、琴平に至り宿泊、武士の情けで両人に対して今生のはなむけにとご馳走が出された。若者は、うなだれたまま箸もつけなかった。奥方だけが悪びれることなく召し上がった。なお奥方に対しては、頭髪を一本も乱さぬよう綺麗に結び、薄化粧までさせ、晴着を身につけさせた。
両人に対しては、武士の家柄としては許すべからず重罪を侵したことなので、このうえは武家としての掟を守り、家の為、藩の為、最後を立派にするよう承知させて翌朝宿を出立した。高松藩の領内に入る前に、二人を成敗するようにと命じられていた追手は、その場所を物色しながら東へ向かった。
四条、羽間、岡田、栗熊と、その道すじで付き人は、殺害の機を伺っていた。各地の名主、庄屋は、この由を早く知り、これを遮断してきたので目的を遂げることができなかった。とうとう綾南町小野の土地まで来てしまった。この土地の庄屋の断りのない前に…首を打ち、体はその場に打ち捨てたまま去った。付き人は、生首を…高松まで持参、高松藩松平侯に拝閲をして、家族の不都合をお詫びしたとのことである。
里人は二人の遺体を埋めたが、人魂がしきりにさまよい出て…悲恋に散った二人を供養するために、土地の人が地蔵さんを祀った。…お地蔵さんは、鼻の先を白く塗られているが、どうしてか、それもわからない。よくあるお化粧地蔵の習わしかもしれない。首を討たれた妻女へのせめてもの供養としてお化粧をしたのだろうと伝えられている。…悲恋に散った若い二人の霊を慰めるために、この供養はずっと続くことだろう。
間男地蔵が建てられたのは文化3年(1806年)4月に起きた事件に由来するという。武家の妻女と下男の許されぬ恋、駆け落ちからの捕縛、切腹か処刑か、花の盛りに恋に散る…という展開は、事件というより芝居の筋書きに近い。
仇討ち・女敵討ち(めがたきうち)
江戸幕府は「仇討ち/敵討ち」を法制化し、武士は事前に届け出をすることで仇討ちが許可された。間男と妻を殺害する「女敵討ち/妻敵討ち」も私的裁判権として公認されており、江戸時代の仇討ちとしては129件が記録に残されている。庶民にとって仇討ちは極めて関心が高く、実際に起きた仇討ち事件を題材に、おびただしい数の仇討物の芝居が上演された。
▶ レファレンス協同データベース:「女敵討ち」について
▶ 文化庁デジタルライブラリー:仮名手本忠臣蔵 仇討ちという仕組み
▶ 歌舞伎用語案内:敵討(仇討)物
駆け落ちと金毘羅大芝居
間男の吉蔵の出身地で、駆落ちした二人が泊まった金毘羅の町は、金毘羅大権現の門前町だ。旅館に商店、土産物屋に飲食店などがひしめく繁華街で、金毘羅大権現の会式のある3月・6月・10月には市が立ち、仮小屋を建てて興行される芝居は、参詣者の楽しみのひとつだった。天保6年(1835)には常設の芝居小屋「金毘羅大芝居」が建てられ、名だたる千両役者たちが檜舞台を踏んだ。
「間男地蔵」の語り手は、聞き手を芝居の世界へ誘う。美しい奥方と美しい下男、手に手を取って駆落ちした二人は峠を越えて阿波まで逃げたものの、高松藩の追手に捕らえられる。高松藩領に入る前に二人を成敗せよと命じられ、隙あらば首をはねようとする藩士と、それを察してそれとなく邪魔をする名主に庄屋。ハラハラする場面だ。
▶ こんぴら歌舞伎オフィシャルサイト:こんぴら歌舞伎のあゆみ
仇討ちと「研辰の討たれ(とぎたつのうたれ)」
芝居といえば、羽床には歌舞伎狂言『研辰の討たれ』にちなんだ「羽床辰蔵の墓」がある。


[研辰の討たれ]京都で刀剣研師をしていた辰蔵(羽床出身)は、妻の不貞を知ると、所持していた刀で妻と、間男の侍を殺して逃げた。殺された侍の弟二人は藩主に仇討ちを願い出て辰蔵の行方を追い、約3年9ヶ月後、故郷の羽床に戻っていた辰蔵を討ち取った。
▶ 『ふるさと羽床』:「辰蔵ゆかりの丘」,「研辰討たれの記」 p.53
『研辰の討たれ』は、文政10年(1827)に讃州阿野郡南羽床下村で実際に起きた仇討ちを題材としている。この事件は当時話題となり、事件から3カ月後に歌舞伎狂言『敵討高砂松』が上演された。大正14年には『敵討高砂松』のキャラクターを一部改変した『研辰の討たれ』が上演され、昭和初年代に「研辰ブーム」を巻き起こす。2001年は野田秀樹脚本・演出による『野田版 研辰の討たれ』が歌舞伎座で初演され、大ヒットしてシネマ歌舞伎になった。野田版は2025年に中村勘九郎主演で、再び歌舞伎座で上演される予定である。
▶ シネマ歌舞伎:作品紹介『野田版 研辰の討たれ』
▶ 野田地図★速報★『野田版 研辰の討たれ』上演決定!2025/01/23
歌舞伎『敵討高砂松』は、文政10(1827)年閏6月4日高松近くで実際に起きた敵討を題材に、同年9月に大坂の浜芝居で上演された。御家騒動の枠組みに、恋や敵討を巧みにからめたこの作品は、上方を中心に、幕末から明治にかけて40回あまり上演された人気狂言であった。
そこに「半道敵」(道化た敵役)として登場する守山辰次を、今度は研屋辰次(通称・研辰)という名の主人公に仕立てて木村錦花が原作を書き、それを平田兼三郎が脚色して、二代目市川猿之助が演じた大正14年(1925)年12月歌舞伎座の『研辰の討たれ』(一幕三場)の舞台は、大いに評判を取った。
…大正デモクラシーの進展にともない菊池寛や直木三十五を軸に、敵討批判の新潮流が文芸界や演劇界に次々と生まれていたことは、拙論「歌舞伎『研辰の討たれ』の成立」で触れたが、『研辰の討たれ』は従来の敵討物の図式をそっくり逆転させ、しかもそれを敵討批判という直球でなく、風刺・皮肉という笑いの変化球で示した。このコミカルなアンチヒーローの創出こそが、本作の最大の特徴であった。
おろく狸と「土手のお六」
羽床の本法寺には昔、いたずら者の狸が棲みついていたという。狸の名は「おろく」というが、歌舞伎の登場人物にも有名な「お六」がいる。『於染久松色読販』に登場する「土手のお六」は気が強く、人を騙して金を強請ろうとする悪いオンナだが、恋に忠義に一途ないいオンナでもある。舞台では一人の女形が7人の役を演じ分け、一瞬で衣装を替えて別の役になる演出が有名だ。「土手のお六」は七役のうちの一つで、江戸の日本堤(吉原土手)で引手茶屋を営んでいた実在の女性をモデルにしているらしい。
狸の「おろく」も七変化で人を騙すが、悪さをする時はたいてい、本法寺のお上人さんを思ってのことである。お上人さんを一途に慕い、お上人さんが碁に負けそうなら勝つまで相手を足止めし、食事の時にはちゃっかり御相伴にあずかる狸に、「土手のお六」を重ねた人がいたのかもしれない。
▶ 文化デジタルライブラリー:はじめての歌舞伎「土手のお六」
時代ははっきりしないが、古くから霊体(不思議な力を持つもの)と思われる狸が棲んでいて、その名を「おろく」と呼んでいた。いたずらもするが、愛嬌もので、いたって忠実でもあった。外宗の十か寺詣りなどが来ると、屋敷の外回りを朝から晩までぐるぐる回って境内へ入れなかった。奥谷常会(本法寺のある末会)の農家に、「本法寺は、どちらへいったら行けるのですか。」と、度々尋ねてきたという話はよく知られている。気に入らない人が通ると、砂を投げかけるようないたずらもするが、お上人さんが夜遅く帰る時は、明かりを持参して出迎えて、自室へ入るまで見送ることを怠らなかった。また小僧さんが法事の逮夜(命日の前夜)などで夜遅くなると、「おろく、おろく」と二・三回呼べば、何km離れた所へでも直ちに迎えに来て先にたって歩くので、小僧さん達は淋しい時には「おろく」を頼りにしていた。食事は、いつも一人前ふえるならわしであった。巣は寺の境内に枝を張り、昼なお暗い大老松の幹の中ほどのほら穴にあった。この松を土地の人は、「ねぜり松」と呼んでいた。
ところが大正の初期に、時の住職がこの松を伐採してしまった。その後住職も交代した。「おろく」は住む所を失い、食事を与えてくれないようになっても、なお境内に棲み、夜は太鼓をたたき、時には腹つづみを打ち、とてもよい音色をたてて賑やかな時もあった。
…ある時、本法寺へ行ってお上人さんと碁を囲んでいて夜遅くなった。そこで、もう帰ろうとした時、にわかに本堂の方から大きな音がして、築山を狸が歩いたので恐ろしくなり、碁打ちたちは変えるどころか朝までそのまま遊んでしまった。碁の勝負は…
お藤天神と「お初天神」
羽床から少し離れた松恵神社が「お藤天神」と呼ばれているのも、芝居の影響かもしれない。
松恵神社の氏子は有岡地区住民で、社名は天神、有岡天神、天満宮、松恵天満宮、松恵神社と変遷している。社伝によると、菅原道真が国司として讃岐にいた頃、有岡の地には道真の別荘館があり、道真は「お藤」という女性と親しくなった。別荘館の跡に建てられたのが現在の松恵神社で、松恵神社は菅原道真と、道真とゆかりのある「お藤」を祀っていることから、俗に「お藤天神」と呼ばれている。
[松恵神社(お藤天神)]羽床城主羽床伊豆守の臣に有岡牡丹と云う者あり、羽床七人衆の一人と言われる。代々有岡に住し当社を祭り来たれり。世に有岡天神と称す。神社記によれば延享4年(1747)天神、文政・天保(1818〜44)ころは有岡天神、明治4年から6年(1871〜73)天満宮社、以後松恵神社として祀られた。俗にお藤天神と呼ばれる。「お藤天神古墳」という円墳頂上に祀られている。
[松恵神社(お藤天神)]道真が国司として讃岐にいた時、有岡の地に別荘館があり、時々遊びに来ていたそうです。伝承では、この地にお藤さんという女性と仲良くなり、綾川の岸辺に立派な枝振りの大きな松があったそうで、その松の下で二人が語り合ったり、魚釣りをして遊んだりしました。道真が衣を松の枝に掛けたのでその松がご神木として祀られています。
菅原道真公が讃岐の国司としてこの地に住まわれていた時に、お側でお世話をしていたお藤さんという女性がおり、二人は恋に落ちました。綾川を散策中衣をかけた松の木が「恋の袖かけ松」と呼ばれていたという言い伝えがあります。
言い伝えにあれこれ言うのは野暮だが、道真が讃岐の国司だったのは平安初期、「お藤」のように女性名に接頭辞「お」を付けるのは江戸期以降の流行、娯楽としての釣りが定着するのも江戸期以降である。お藤天神に関する伝承や史料は江戸期より前には見えず、お藤天神周辺のごく狭い範囲でのみ語られていることから、江戸期以降の創作と推測できる。
▶ レファレンス協同データベース:菅原道真の讃岐での伝承についてわかる資料はあるか。また、綾川町枌所西にある白梅神社、綾川町北にある松恵神社についてわかる資料はあるか。
▶ ミツカン 水の文化センター:江戸で花開いた釣りの文化
「天神さん」は全国いたるところに祀られているが、「お藤天神」のように女性の名前を冠した天神は珍しい。私が思いつくのは『曽根崎心中』の女主人公お初にちなんだ「お初天神」くらいだ。
女性名+天神といえば、大坂新町の遊女には4つの階級があり、上から順に「太夫(たゆう)」「天神(てんじん)」「鹿子位(かこい)」「端女郎(はしじょろう)」とされた。お初は「天神」格の遊女ではないが、お初が心中した天神の森・露天神社(つゆのてんじんじゃ)は「お初天神」と呼ばれている。
[曽根崎心中]堂島新地の天満屋遊女お初は平野屋の手代徳兵衛と恋仲だったが、徳兵衛に金のからんだ気に染まぬ結婚話がもちあがり、せっぱつまった二人は曽根崎の天神の森で心中する。
『曽根崎心中』は元禄16年(1703)年に実際に起きた心中事件を元に書かれており、事件から1ヵ月後に浄瑠璃作品として発表されると、一途な恋の物語、恋の手本としてたちまち大評判となった。『曽根崎心中』の流行とともに心中までも流行したため、享保7年(1722)に将軍徳川吉宗は心中物の出版や演劇を禁じ、翌年には心中行為そのものを禁止した。
▶ 文化デジタルライブラリー:新町遊女の格
▶ 歌舞伎演目案内:曽根崎心中
▶ 露天神社:「露天神社」と、近松門左衛門「曽根崎心中」について
讃岐の地芝居、農村歌舞伎
「お藤天神」が「お初天神」の影響を受けていたのかどうかはわからない。しかし羽床の人々が芝居を好んでいたのは確かである。
「市の庵」は羽床氏の時代(約六百年前)に諸人の往来が盛んであったころ「市」がたった。この「市」を「十七燈」と呼んでいる。「十七燈」は8月17日の夜、田井・場所・奥谷に青年が主催して地蔵市が行われていた。…青年たちは「にわか芝居」をして賑い、大勢の参詣人が来ておまいりをしたり、芝居をしたり、一文店の品物を買ったりして楽しい一晩を送っていた。…この青年たちの芝居は、いっとき「羽誠団」という組織をつくり、頼まれると遠方まで出かけていって上演して多くの人を楽しませた。
民俗芸能としての「地芝居」は、江戸時代初期頃から三都において行われてきた歌舞伎を、地方で、その土地の住民である素人(専業役者ではない)が演じてきたものをいう。「地芝居」は「地狂言」「地下芝居」「田舎芝居」「素人芝居」など、地域や時代によって様々な呼称で呼ばれながら、津軽や薩摩まで全国各所で行われ、現在まで伝来しているところも多い。
江戸時代には、歌舞伎は、幕府の許可した場所で、許可された者以外には興行が許されていなかったが、神仏への奉納という形態をとると、例外的に上演が認められたので、祭礼や仏事の奉納芸の名目で、寺社の境内で歌舞伎が上演されるようになった。
…地芝居は、三都で上演された歌舞伎作品を中心に、全国の各地で在地の素人が演じるものであるが、三都からどのような経緯で地方に伝播され、その地でどのように伝承されていったか。各地の地芝居はそれぞれの土地の風土や社会状況によって、独自の形態や性格を持つ民俗芸能として発達した。明治になって、禁令の呪縛から解放されると、庶民の唯一の娯楽として、北海道から九州まで、津々浦々で盛んに行われた。
交通が発達し、人の移動が活発になると、人の集まる場所に都市が形成され、そこが文化の中心になる。江戸期は金毘羅大権現が全国的に流行し、参詣客とともに都市文化が讃岐に入ってきた。羽床の地芝居の演目がどのようなものだったのかはわからないが、松恵神社に伝わる「お藤天神」のエピソード、松の枝に衣を掛けたとか、松の木の下で語り合ったとか釣りをしたとかの、まるで見てきたかのように具体的な描写は、演じているのを実際に「見た」人がいたのではないか。菅原道真といえば『菅原伝授手習鑑』もあるが、有名作品と地域信仰を組み合わせたオリジナルストーリー、いわゆるご当地ものも、祭の場で演じるなら楽しそうである。
▶ 歌舞伎演目案内:菅原伝授手習鑑
まぁ、考えてもわからないものはわからない。「お藤天神」が「お初天神」と似ているのも、松の枝に衣を掛けたという話が「松恵」を「松枝(松ヶ枝)」に掛けた言葉遊びになっているのも、偶然の一致といえばそれまでである。藩主に献上していた羽床銘菓、菅原道真ゆかりの「恵の露」という米菓子の名もなんとなく怪しい。怪しいと思えばなんでも怪しく見えてくる。
綾川に農村歌舞伎は残っていないようだが、香川県出身者で唯一の現役歌舞伎俳優・中村梅寿さんは綾川町の出身である。こういう偶然は楽しい。
▶ 四国新聞:歌舞伎の魅力知って 中村梅寿さん(綾川出身)イベント 小中生にせりふ回し指導