スマホの断捨離
あるLINEグループに強制加入してしまったのだが早くもしんどいと思う。
このLINEグループもそうなのだが、アプリだのクラウドワークだの、とにかくスマホもそろそろ断捨離すべきだろうか?と考えている。
初めて携帯を持ったのは高校2年生だった。
当時はまだauもセルラーの時代で、ポケベルから進化したくらいの通話とメールができればよかった時代だ。
私がインターネットを始めたのは18歳。
当時はまだパソコンでしかできない状態で、しかも定額制のない時代だったからバカ高かった。
しかし、私は親に話せない悩みをたくさんの匿名の方に聞いてもらって、ネットってすげぇ~と感謝したのだ。
お金という制限がある以上、自制心も働くので今みたいにスマホ依存するほどの状態でもない。
LINEグループはこれまで自主的、積極的に入ってきたものが多かったので、いやいや加入させられるということはなかったのだが、今回ママ友関連で初めてそういう事態が起き、
「ああ、LINEグループがストレスになるとはこういうことか」
と理解した。
と同時に、これから中学、高校と進学してスマホを早期に持つ娘は、こんな時代を生きていかなければいけないのだなとそのサバイバルのハードルの高さを案じてしまう。
気が向いたときだけ友達と会えばいいのではない。
今の私がそうであるように、24時間何かのしがらみに捕まっているような状態だ。思春期ならなおそんな関係は面倒だろう。
SNSというのは、ギャンブルを超えるアドレナリンが出るように設計されている。シリコンバレーのIT企業で、実際にこういうスマホやアプリを開発した創設者は、実はみんな自分の子供にはスマホを持たせていない。ひどい依存性と人間性の劣化を招くことを知っているからだ。
スマホと自分の距離が近ければ近いほど私は浮足立って疲れる。
「いつも誰かと繋がっている」
というのは人間の性質上できないことだと思う。
これがいわゆる「マインドワンダリング」という、心も頭も「ここにあらず」の状態だ。
だったらもう格安ガラケーでも持とうかなと思うほどだ。
今後「人類の発展」という言葉を聞くたびに「人類の劣化」と考えたほうがよさそうだ。退化することこそ進歩だ。先日の国連気候サミットで「How dare you!」と叫んだ17歳の少女はまっとうである。
これからの時代を生きなければいけない子供は「これから」の基盤を作った大人に対して「てめえらのせいで」と言う。言われて当然だと思う。
雑念が多い。とにかく雑念が多い。
私が子供だった頃はテレビや週刊誌が雑念の役割だったが、今はそれに加えてネットやSNSが雑念として膨大に増えた。
私たちはプラスのものを受け取るより、マイナスのものを手放すほうが心地よくなれることをもっともっと実践すべきだろう。
目線を人間の基本的生活(家事や会話)に戻すべきなのだ。
LINEグループに入れられる名目は、だいたい情報のシェアである。
おそらく仕事でも趣味でもママ友でも同じだろう。
退会すればいいんじゃないの?という思いを遮るのは、招待してもらった人に申し訳ないとか、自分だけそこに属していなかったら変に思われるのではないか、といった新たな雑念である。
本当に私って面倒くさい。
面倒くさいが、中高生のクラスや部活でこれが行われているとしたら、もっとめんどくさいだろうな~。
シェアと親睦はまったく違う。
本当に親睦できる関係であれば、グループなんか作らなくても仲はいいはずだ。
微妙な関係のコミュニティこそ、ネット上にグループを作りたがる。
そこに”親睦が深まる”という幻想を信じて…。
話は変わるが、昨日私は生まれて初めてエンディングノートを書いた。
私はクリスチャンなので、キリスト式のエンディングノートだ。
エンディングノートを書いてみると、本当にこの世で生きるために大切なことは1つか2つしかない。
あーあ、私たちはトラップにはまってるんだ。
これを作ったら売れるってトラップに。
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