生きてる言葉
私は、、、という言葉を必要以上に使いたくなくなった。
中動態が大事と知った。対話とは、自分と相手のどちらでもない、中間の、目に見えない何者か が何かを生み出しているもの。対話とは、私(自分)があなた(相手)に助言したり意見したりするものではない。意外にも。私が何者かに誘導されて喋ってる、というか喋らせられてく。だから主語は私(自分)ではない、厳密には。
だから色々な現象を自分のせいにしすぎないし、他人のせいにもしすぎない。だから色々な現象を自分ごとと捉えるけど自己犠牲的にならないし、他人ごとと捉えるけど無責任や無関心にもならない。相手が回復しても、自分の手柄とか成果とは思わない。
今日は何もうまいことを話せなそう、書けなそう、と思ってくよくよしてても、話せたり書けたりする。話したり書いたりは自分一人の力じゃないから。相手と自分がいて初めて言葉になる。相手とのやりとりを通して初めて、その言葉のその時の意味が収束・限定されてく。音に意味が宿る。対話は言葉の言い換えごっこみたい。対話は、出てきた言葉を違う言葉に言い換え、具体化したり概念化したり物語化したり、そのおびただしい繰り返し。言い換えることは、ここまで理解したよ、合ってる?と聞き返すことであり、そこからまた相手の反応が返ってきて、また言い換えられてく。一番最初の地点からどこまで来れたかな。どこまで言葉は変遷したかな。
自分の言葉が言い換えられるのを嫌う人もいる。解釈されたくない人がいる。その人は相手の捉え方を取り入れたくない、取り入れられない、閉じている人、つながれない段階。だから私はずっと、何か1つでも共有できる現象や音がないかな、ぴったりはまる言い換えができないかなと、とっかかりを探す。すぐ見つからない、無理をしない。
自分のことを話すと涙が出る人がいる。その人は投げ入れるということをずっとしてこなかった人かなあ。
投げ入れて、取り入れる。共有する。感情とか自分の体験を、言葉で。それがひどく難しい。それがASD者なのかなあ。彼女らにとって人と対峙することは、自分だけの思いをもう純化しておけなくなるということ。自分を崩され乱されてくということ。同調圧力に抗えない無力感を味わうということ。でもカウンセリングに来たってことは、、、勇気を出したということ、変わりたいということ。
他人には私の苦しみは分からない、と思っている人がいる。その人にとっては、苦しみを共有されてしまうこともまた苦しみであり、ずっと自分の中でだけ育ててきた何かを喪失すること。
うまくまとまらないまま、無理にまとめないまま、1時間になる。あ、おしまいですね、また次回、、、ってなる。ふわっと終わる。私一人が絶対的な正しい答えを持っているわけではないから、また次回対話の波にぐーっと入り込もう、その時にまた聴いて感じ取ったり考えたりしよう、と思う(ひそかに決意する)だけ。死にたい話の時も死にたいままで1時間が終わる。死にたくなくなったふりは、あまりさせない。依存をある程度引き受けるのは大事だと思うから、どこまで引き受けるのが互いにとってよいのか一回一回考える。
日々こんなことをしている(強い意志を持ってしているのではなく、いつのまにかさせられている感)。
当院は私しかいない(私の他にスタッフがいない)。だから、患者さんのことを患者さんがいない所で患者さん抜きでスタッフ達だけで話しちゃうことがない。患者さん抜きで事前に患者さんの目標や治療法を決めちゃうことがない。スタッフ同士の会話やスタッフだけのミーティングで患者さん像が出来上がって、だんだんずれてくというのがない。倫理的。それが、一人でやって良かった、と思ってること。一人での開業だとできないことも沢山あるけど、良かった点もあると気付いた。