こころは言葉、ことばは心。/日記
仕事に対しての集中力が続かず、久々に、だいぶ前に投稿した自分のnoteの記事を読んでいた。
読了後の第一声は、「か、か、軽い……………………………………!」。
文章が軽かったのだ。とても軽い。卵のパックぐらいには軽い。
対して、今の文章はどうか……?と、メモに残された幾つもの雑文に目を向けてみた。
お、重い……………!とまではいかないものの、どこか「うっ…重っ…」となるずっしり感がある。
文章が変化したのか、ぼく自身が変化したのか、読んでいる現在の状況が文章を重くさせているのか。
もっと軽くしたい…、子どもらしい言葉遣いをすれば軽くなるのか?
と、脳内でいくつもの改善策を陳列していた時、これだ!と思う策は不意に現れた。
まあまあ、まずはこれを「視聴してください。」
曲の良さも、MVの良さも、声を大にして「良い!」と言いたいことではあるけど、今回言いたいことは「こころは言葉、ことばは心」だということ。
テレパスとは
「言語や思考に頼ることなく、相手の思考を読みとって、相手へ直接伝えることのできる特殊能力を持つ人」
よく言われるテレパシーと同義であるので、「テレパシーを持っている人」とも言い換えられる。
楽曲では、タイトルに通り、特殊能力をモチーフに描かれている。
しかし、これは特殊能力に限らず存在するなと思い、本記事のタイトルでもある「こころは言葉、ことばは心」という言葉が湧き出した。
言葉というものは、相手に想いを伝える道具である。しかし、道具という意だけでなく、それが本物にもなりうる。嘘もつけるし、自分の気持ちと向き合うためにも言語なしでは生きられない。
対して心というものは、想いそのものである。しかし、言葉という道具がなければ、ふわふわとしたものだけで終わってしまい、伝えることも、自分に響かせることだってできない。
そう思えば少しは「こころは言葉、ことばは心」という言葉に納得する。
当たり前のことだろうと自分ですらも思うけれど、わざわざ言われると「確かにな」となってしまう。
前で触れた「言葉の重み」に対しての策もこれである。
こころが重いから言葉も重くなる。また、その言葉が重いから心も重くなる。
最近は心から楽しめていない。背景で「仕事しろ〜〜」とマイエンジェルが囁いてくるから。1人の人間に天使的自分と悪魔的自分がいるとしたら、現在どちらの自分からも、背景で囁かれている状況である。
言葉を軽くするためにはまず心を軽くする必要がある。
そして、テレパスで語られている特殊能力を自らに使う必要がある。
私は何が言いたいのか、何を伝えようとしているのか。言語化する必要はない。ただ、自分の思考の本質を見つめてあげる必要がある。
これは、文章を書くときだけではなく、人と対話をする時、人に自分:大勢で語るときも、ひとりでぼーっとする時にもあるといいのかな〜と思ったりする。
言葉というものそれぞれ意味があるし、言い方によっても意味の強さ加減が変わってくる。故に、言葉というものは凶器になりやすい。もちろんいじめなどの大きな事件もそうであり、自分と対話する上での凶器にもなる。
言葉の使い方次第で、自分の心を軽くできるかが大きく変わってくるのだ。
そう思うと、自分の好きな言葉を使った方が圧倒的に生きやすくなる。その時々でも好きな文体は変化するので、その時はその時で、楽しんだらいいじゃないか。
頑張りどきも「頑張ろう!」よりも「やってやりますわ」ぐらいの方がやる気が出るのなら、こころも軽くなるはずだ。
ここまで書いてのちに言いたいことは「まあ、ゆっくり、心を落ち着かせていきましょう」ということです。
のんびりいきましょうか。また、余裕ができたら、軽い文章が書けるでしょうか。
また今日も日記にならず、断念。日記になる日は来るのでしょうか。今日は、お昼に起きて絶望したのち、仕事に頭を抱えて、結局、音楽を掘りまくってしまいました。現実逃避で本を読むのも悪くないかもしれない。
以上自己満足の雑文のコーナーでした。
今日もいい一日になりますように。
おわり!
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