わたしの〝性〟の原体験④ 最後
こんにちは。
性愛を通して、対等な人間関係やパートナーシップの選択肢を広げる活動を今年から始めました。まずはなぜ私がこの活動をしていこうと思ったのかを納得感を持って進めたいと思い、自身の原体験を振り返る作業をしています。
前回は初体験の話を書きました。
いまでこそ、「セックス は美しく、楽しいものである」という認識を持っていますが、小学生の時にお父さんのエロ本発見事件(原体験①に書いています)による「女性は見られるものであり、消費される側である」というネガティブな事実を突きつけられながらもどうして私はこの活動をしたいと思ったのだろう?というクエスチョンに気付きます。
結論から言うと、
■矛盾を埋めたい
■自分の弱さにもう浸りたくなかったから
■暇だったから(転職して時間的余裕と心的余裕ができた)
この3つのタイミングが重なったからです。
■矛盾を埋めたい
先程、「セックス は美しく、楽しいものである」と書きましたが、365日そう思えているわけではありません。常に私には「女性は見られるものであり、消費される側である」という自分は弱い立場に置かれているという自己肯定感の低さといつも戦っています。
セックス は信頼できる人とするもの(付き合ってるとかそういうのは関係なく)=対等な立場でお互いを尊重し合ってする対人間的な愛情表現であることを信じているはずなのに、それがどうしようもなく信じられなくなる時がある。
それはセックス を欲望だけを満たすセックス として楽しむことを否定しているわけじゃないんです。大切なのは、そこにお互いの同意や理解があるかどうかなんです。
よくある話が、1夜を共にした男女がいて男はそんな気1mmもないけど、女は男と付き合いたがっているみたいな類。それって女性は恋愛を前提にセックス をしたいと思っているのと、男性は欲望をただ満たしたいという互いの人間関係の要求が矛盾してますよね。
こういう異性間の愛、どころか対等な人間として話ができていない、優しさがないよなあって悲しくなるんです。
ちなみにこの場合、別に男が悪いわけでもなく、女が悪いわけでもありません。
私がお父さんのエロ本事件で感じているような「女性は見られるものであり、消費される側である」というような社会的刷り込みが、あまりにも自然に、日本に蔓延しているんです。
だから1回セックス をして、それきりになった時に大抵貼られるレッテルって男性側だと「女を仕留めたヤリチン=モテる男」女性は「男に逃げられた尻軽女=ダメ女」っていうのが一般的な気がします。
「サレ妻」とかもいい例ですよね。浮気してるのは男性なのに、なぜかされた側がネガティブなイメージを背負わされる。あ、でも浮気とか不倫も別に否定しません。
何度でも言いますが、大切なのは両者間(その関係の中に含まれる全ての人。浮気相手と結婚相手も含め)での同意です。
セックス は人間の欲求としてあらゆる人が大なり小なりもっている欲求のはずなのに、それが社会的な立場に置いて不平等に扱われていることの矛盾に取り組んでいきたいと考えています。
■自分の弱さにもう浸りたくなかったから
かという私も、どちらかと言えば「男に逃げられた尻軽女=ダメ女」の部類の女です。(あえて現在進行形)
セックス 好きで、かつある程度いいなと思った相手としか一緒のベッドに入ることはしないのでまあ一回したら次も・・と思ってしまうのでした。
そんな私がセックス で満たそうとしていることってなんなのだろう?と考えた時に、「自分の存在を自分に証明したい」欲求だと気付いたのです。
この話はどんな人にとっても大事な話になりそうなので、またnoteに書きたいと思います。
セックス は対等に人と向き合い、愛情を与える行為だと信じ努力したいと思う強い自分と、誰かに与えられることで、私はここに確かにいると誰かに言って欲しいと願う弱い自分が同時にいることに気付いたんです。
その弱い自分を消し去ることは到底不可能です。なぜならばこの活動の着火剤はどちらかというと、この弱い方の自分にまざまざと向き合った結果だからです。
人間誰しも100パーセント強くて、ポジティブで、かっこいい人なんていません。いい面も悪い面もルービックキューブみたいにたくさんあって、色んな色が組み合わさることでその時の自分って形成されるものだと思ってます。
そんな弱い面にまた出会った時に、
「もうこれ、こんなにいらない!!!」
とシンプルに思ったんです。
弱い面があってもいいんだけど、私はあまりにもこの面に引っ張られすぎていました。この面が出てきた時の「自分は必要とされていない人間だ。価値がない。私はここにいない。」と心が萎んでいくのがあまりにも耐えられなかったからです。
死にたいなんて思うことなんて当たり前。
家の天井が高いので、どうやって首を吊ろうかと考えたことも何度もあります。
怒りにも近い、昭和の親父がちゃぶ台ひっくり返すような感覚でした。
その勢いに身を任せてinstagramに「はじめます。」と投稿したのでした。
ベッドの中で。
そこから「応援してる!」とみんなにコメントをもらって、
やっぱり私の信じたいものはセックス と同じで、「誰かから与えられる自分の価値」ではなく「誰かに与えることや向き合うことで得られる成長」だと確信できたのでした。
■暇だったから
(転職して時間的余裕と心的余裕ができた)
暇ってめちゃくちゃ大事だなあ。と思います。
自分がしたいことを贅沢に吟味して、選び取ることができる時間だと思います。
仕事が忙しくて、深夜帰ってきたらもうコンビニのお弁当しか選ぶ余地がないけど、時間があるとそもそもまずは何を食べようか?から始まって、どこで食べたいかな?こんな店がいいなー。あ、〇〇ちゃん誘ってみようかなあ、なんて食欲から始まってさらに別の楽しみを付随させることができる。
結果、なんかいい1日を過ごせる気がしますよね。
あとは私小さい頃からずっと続けてきたことがないのがコンプレックスで、
みんな何かしら特技とか持ってるのに私ないなあ、って暇な時間で考えてた時に、あ、セックス は割とみんなよりも長く続けてるかもなあって思ったのがきっかけでもあります。
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こんな原体験から私はポルノディレクターとして性愛を通して、対等な人間関係やパートナーシップの選択肢を広げる活動をしていきます。
少しずつ、具体的な活動やコンテンツなどお見せしていければと思うので応援宜しくお願いします^^*