死にたさと共に、生きていく
退院してから、昔からよく知る街でアパートの一室を借りた。
偶然にも高校時代からの友人の実家のすぐ近くで、彼女は中高時代この景色を見ていたんだなあなんて考えた。それだけのことなのに、何だか少し切なくなった。彼女は今、東京で医師をしながら、今年の春に一児のママになった。
何にもしない日もあれば、スーパーや産直で買い物したり、駅のほうまで足を伸ばしてみたりもした。同じ24時間を生きているのに、不思議と入院する前みたいな、泥を溶かすような一日ではない。あの感覚は何だったんだろう。
別にポジティブになれたわけではない。相変わらず夜になるといろんなところから死ねって言われているような気がするし、昼間も自分がダメ人間であることを強く思い知らされる瞬間がある。スマホを見て、今日が土曜日だと知って、ああ昨日まで平日だったんだ、とか。同じアパートの住人が帰宅して、仕事してきて羨ましいな、とか。昔より、すぐに死にたいと思うようになった。昔は死にたいという感情を口に出すどころか、抱くことさえ、自分で自分に許さなかった。
この街のこと好きだなあと感じるとき、悔しくなる。緑がいっぱいで、産直のトマトや茄子は120円で売っていて、大きめの本屋さんもあって、静かで、深呼吸しても歩きタバコの煙を吸わなくてよくて。この街の空気が好きだ。
でも、何もかもがこの街と正反対だったあの街を好きにならないうちに、こっちに舞い戻ってきた自分が、悔しくて、情けない。私だって、向こうでもっとやりたいこと、できるはずのことは沢山あった。なのに、なのに、なのに。
‥‥‥とは言え、本当に私が深呼吸して私の人生を生きられるのは、やっぱりこっちなんだろうなと思う。
死にたいという感情を、べっとりと絵具で胸に塗りたくりながら、それでも私には夢がある。
死にたくて良いんだと思う。
9月1日は、一年のなかでも自殺が多い日だという。
明日、自ら消え失せる選択をする命の灯がある。きっと、いまこの瞬間も、誰にも止められないところに立っている人がいる。自殺を止めるっていうのは、もしかしたら凄く傲慢なことなのかもしれないし、正しくないかもしれない。私には判断することのできない縁で立ちすくんでいるひとは、確かにいるのだ。
いまのところ、私は私の人生を、この死にたさと一緒に生きてみようと思っている。
何も成し遂げることができないかもしれないし、もしかしたら、回りに回って最後の最後には、結局のところ自分の手で自分を終わらせてしまう選択をしてしまうのかもしれない。それが私の正解なのかもしれない。
ただ、少なくとも今は、まだ正解か不正解かを判断しきることができるまで、私は成熟できていない。それだけの話だ。
死にたさと共に、生きていく。
傲慢なことに、正しくあれない私は、ここまで読んだあなたと、死にたい明日を、過ぎ越えたい。