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心の境界線は平和の間(あわい)

今日は心の境界線(バウンダリー)の気づきについて、わたしの経験を元に話していこう。

最近のわたし

今、わたしは福島にあるエコビレッジに滞在をしている。木々は少しずつ色づき、ひんやりとした風が身体を包み込む。手先が冷たい。東京にいる時の私よりも、身体と心の声を聞くことができている。自然と共に暮らしていると、自然と意識が外へ向き、そしてまた内へ向く。

お散歩しながらお花を摘む

鼻から大きく冷たい風を吸い込む。胸の辺りがすっーと冷たくなる。今日は胸の辺りからどす黒い何かを感じた。夢の中でお父さんに怒っていた。

わたしは人の表情や感情やエネルギーに敏感で、父の沈黙が何よりも怖かったことを思い出した。沈黙から伝わる、怒りや悲しみ、憎しみを感じて、胸が締め付けられた。

私が恐れていることはなんだろう?

と自分に問うた時、出てきたのは、【もう傷つきたくない】だった。幼い時の自分の傷や痛みを感じた。そして胸のどす黒いナニカが消えていくのを感じた。

直接言葉で伝えられることと、私が非言語的に受け取ることが違うという差異に恐れていたように思う。(非言語的で受け取っている相手のメッセージが私に向けられていないモノも受け取ってしまうことも、多々。)

本当に思っていること違うんじゃない?と疑問を感じ、その差異を埋めようと、自分の思考を回転させて、帳尻を合わせていた。評価される私になろうと必死に努力した。

心の境界線を引く

心の境界線とは、心理学用語ではバウンダリーと言われ、自分と相手の間にある、心の境目のことを指す。

心という目には見えない間にも身体と同じようにパーソナルスペースが存在する。その間(あわい)を認識して、私と相手の心の距離を保つことが大切。

例えば、相手に部屋の片付けをするようにお願いする。相手からイライラした口調で、〝わかった〟と言われたとする。このイライラは私の責任ではなく、相手の責任であり、その人が解決すべき事象である。だから相手のイライラを解消させようとしたり、手伝う義務は私にはない。というように、感情や目に見えないモノの間は明確な線引きはされていないが、私と相手との間を明確にする必要がある。

心の境界線は自分のことを、大切にする術でもある。心の境界線は曖昧になりやすい。(心の境界線を理解していたとしても、実際行動するとなると難しい)

【もう傷つきたくない】の奥にあるもの

【もう傷つきたくない】、この言葉の奥にあるのは、周囲との関係の中でたくさんの役割を果たしてきたということだ。

人と人の間で人の魂磨かれる

とわたしの尊敬する人が教えてくれた。人と人との間で起こる様々な事象を通して、私たちは様々なことを学んでいる。

果たして、私と共にいた人たちは、わたしを傷つけたかったのだろうか?と問うた時、必ずしも傷つけようとしてその言葉を私に伝えたのではないと思う。

みんなそれぞれ生きる上での事情がある。そんな相手の奥にあるモノを知った時、私たちは自分にも、相手にも優しくなれると思う。〝事情があるんだ〟と心の境界線を引く。

心の境界線は平和の間(あわい)。わたしはわたし、あなたはあなた。今日も生きててくれてありがとう。

また気づきを紡ぎます。哲学カフェをやろうと思っています☺️よかったら参加してね。ではまた〜。

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