短編小説『化け猫にとりつかれた女の話』全文無料
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〈一〉
丘の上の豪邸からのぞむ山並みが、ぼんやりと黄色く霞んでいた。
「奥さまの猫が死んだって聞いた?」
「おれが埋めたんですよ。車に轢かれたんですって。なんでも昨夜いらしてた」
「シッ、駄目よ。老衰で死んだことになってるんだから」
「いや、あの死骸は」
「奥さまがそう言ってるの」
女中の口調に気圧され、下働きの男は半笑いでハァともらした。
二人がいるのは丸山家の庭にあるひょうたん池のほとり。傍らの、形よく整えられたツツジの、影に見える部分は掘り返したばかりの土だった。
鯉がピシャンと水音をさせ、女中は池の飛び石を一瞥すると眉をひそめて足元を見る。
「ねえ、そのツツジの根元に埋めたんでしょう?」
「はい。池の、あそこにある大きな丸石でよく寝ていたからだって」
不意にどこかで障子をたてる音がし、二人は手にしたほうきと枝切り鋏を動かした。雨戸の開け放たれた縁側を、奥さまが音もなく渡ってくる。
奥さまが十八で嫁いで来る前は、ひょろっと痩せて目のつり上がった女が奥さまだったが、あの女は今は大奥さまと呼ばれている。大奥さまは猫嫌いで、若い頃は猫を追っ払うために煮干しを遠くにポーンと放り投げたりしていた。
今の奥さまはそんなお転婆なふるまいはしない。女中らが庭からいなくなると、蕾をつけたツツジのそばにしゃがみ繰り返し同じ言葉を唱えた。
「どうか良い子をお恵みください」
一年ほど前、『いくら器量よしでも子ができねばねえ』と大奥さまが愚痴をこぼしていた。奥さまが野良の老猫に鈴を付けたのは子ができないさみしさからだ。
奥さまの願いが叶い、丸山家に赤子がやってきたのは数日後のこと。連れてきたのは猫を轢いたあの車だった。ご主人さまは口髭のもさもさした訪問者の前で畳に額をすりつけ、奥さまは涙をぼろぼろ流して赤子を受け取った。大奥さまは顔を真赤にしてどこかへ行ってしまった。
「母が失礼な態度をとり申し訳ない」
「いやいや、先代が亡くなって以来丸山物産を切り盛りされてきたお方だ。赤の他人の妾腹、しかも女子を引き取るなど簡単に納得できないだろう」
「ですが、わたしたちにとってこの子は何者にも代えがたい。今どき男子が跡をとらねばならぬということもありません」
「あまり気負わんでくれよ。こちらもほっとしているんだ」
「あのう、この子の母親はまだ行方知れずで?」
ご主人さまの問いかけに男は口髭をなでる。
「実は、妻を問い詰めたら女に手切れ金を渡して追い払ったと言うんだ。女は憎いが子に罪はない。あの程度の脅しで子を捨てて逃げる女に未練などないでしょう、だと」
奥さまとご主人さまが気まずそうに顔を見合わせ、髭の男は苦笑を浮かべた。
「病院から母親が消えたと連絡があってわたしが赤子を家に連れ帰った日、妻は怒りもせず丸山君のところの養子にどうかと提案してきた。あの夜、わたしが狼狽して丸山君のところに押しかけてきたのも全部妻の手のひらの上だったというわけさ。隠しておくわけにもいかないから話したが、その子の親になるのが嫌になったとは言わないで欲しい。この通りだ」
今度は髭の男が畳に頭をすりつける番だった。
「まさか、言いません」
奥さまの裏返った声に赤子は火がついたように泣き出す。
「まあ、どうしましょう。ちょっと、サエコさん、サエコさん」
障子を開けて女中が顔を出し、「あらあら、お腹が空いたんですかねえ」と慣れた手つきで赤子を抱くと、体をゆすって隣室に移動した。薄暗い部屋で胸をはだけて乳をやる。襖越しに声が聞こえてきた。
「乳母がすぐに見つかったのは幸いでしたね、奥さん」
「半年ほど前からいる女中です。子をニ人育てているというから安心して任せられますのよ。粉ミルクはヒ素の事件があったばかりだから心配で」
赤子は大人たちの話などそっちのけで寝息をたてはじめた。
「あなたのおかげでお手当がずいぶん増えたのよ」
サエコは愛おしげに赤子の頭をなでる。翌日には珠世と名付けられ、大奥さまの姿はそれ以降見かけなくなった。
丸山家の庭で工事が始まったのは晩夏。大奥さまが敷地の三分の二を県に売ったらしく、いずれ道路ができるということだった。大奥さまが居るのは駅前にある新しい屋敷で、引っ越すつもりで昨年末には完成していたらしい。
「男の子ができない限り新築に越してきてはならないって。大奥さまもひどいお方ね」
サエコは背におぶった珠世に話しかけ、縁の床板がキィと音をたてた。身をそらした珠世の口からよだれがポタと落ちる。
「ご主人さまは愛妻家でらっしゃるし、どうされるおつもりかしら」
サエコの疑問が解けたのはさらに数ヶ月後のことだった。ご主人さまは残った三分の一の敷地に小さな家を建て、ほとんどの使用人を駅前の新築の方にやり、夫婦と珠世とサエコとで暮らしはじめた。丸山夫妻に奇跡的に男子ができたのは二年後のこと。珠世がみっつの時だ。
〈ニ〉
丸山家の四角く厚ぼったい顔立ちとは違い、珠世は色白の細面に目鼻立ちのはっきりした、あまりこのあたりでは見ない容姿をしていた。
「姉さんは芸能の仕事があっているかもしれないね」
二十二歳になった弟の道雄は、駅前の本宅(むかしは駅前の新築と呼ばれていた)から県道沿いの旧宅に顔を出すたびそんなふうに言った。居間のソファーに腰掛けて「姉さんの方が美人だ」とテレビをさす。
「いやよ。東京に行かないといけないでしょう」
「そりゃそうだけど、あんがい合ってるかもしれないよ。女優でもないのに街でひっきりなしに声をかけられ、男どもから贈り物が毎日のように届くんだろう? ねえ、サエコさん」
白髪の混じり始めたサエコが、茶を淹れながらうなずいた。
「珠世さんは赤ん坊のころから美人さんでしたもの。けれど飽き性なのがたまに傷ね。仕事も、習い事もなかなか続かないし、男性とのデートはニ回か三回会ったらそれきりなんですよ」
ご主人さまと奥さまが本宅と旧宅を半々で行き来する生活を送るようになり、サエコは以前にも増して珠世に遠慮がなくなった。珠世も血の繋がらない母親といるより気楽そうだ。
「姉さん、働くのも結婚するのも嫌なら、せめて本宅で一緒に暮らさないか? この家、今なら良い条件で買い手がつきそうなんだってさ」
「売るの? いやよ」
珠世は弟に掴みかからんばかりにテーブルに身を乗り出した。サエコが「火傷しますよ」と溢れた茶をふきんで拭う。
「ほんとに売るの?」
今度は泣きそうな顔で問うた。
「まだ決まった訳じゃないよ。姉さんがこの家に思い入れがあるのはみんな知ってる。父さんと母さんを説得するのは簡単だけど、お祖母さまがね」
お祖母さま、という言葉で珠世は「やっぱり」と目をつり上げた。
「あの人、わたしを丸山家から追い出したいの。縁談も全部あの人からだし、丸山物産で働いていたときは男の人が次から次に声をかけてきたのよ。あれもあの人の差し金だったのね」
大奥さまが珠世を孫と認めないから、珠世も向こうを祖母とは認めていない。かたちの良い額にシワを寄せ、珠世は真面目くさった顔で唇をとがらせた。道雄は諦めのような、悟ったような吐息をもらす。
「姉さんがモテるのは姉さんが魅力的だからだよ。お祖母さまはお祖母さまで、姉さんの行く先を心配してる。姉さんに対して素っ気ないのは、あの性格だから引っ込みがつかなくなってるだけさ」
そうかしら、と珠世は弟を一瞥し、何もかも面倒くさくなったというように、だらしなく絨毯に座って広島土産のもみじ饅頭にかぶりついた。
「道雄、新婚旅行どうだった?」
「まあ、楽しかったよ」
「道雄は、子どもを捨てるような親にはならないでね」
「そんなの当たり前だろ」
道雄が窓に目をやる。二十五年前と変わらぬ形をしたひょうたん池。その傍らに立つ新妻の背後で、濃い色のツツジが咲き乱れていた。
『どうか良い子をお恵みください』
あのときの奥さまの言葉は、すでに話のついた貰い子のことだった。はたして珠世は良い子だろうか。珠世はいつからかサエコに代わってパン屑を池に撒き、煮干しをツツジの下に放るようになった。
〈三〉
珠世は二十六になっても変わらず見合いをしては断り、勤め口を見つけてきては数ヶ月で辞めた。断ったはずの見合い相手や、勘違いした同僚から旧宅に贈り物が届き、郵便屋とサエコが天気の話でもするように「これはラブレターのようですね」「こっちはずいぶん重いけれど何が入っているんでしょう」と笑いながら話した。
そんなある日の夜遅く、一人の巡査が珠世を訪ねてきた。応対したサエコは何事かと青ざめていたが、寝間着にカーディガン姿で現れた本人は、「あら、お巡りさん」
あっけらかんと口にし、若い巡査が顔を赤らめた。
「夜分にすいません」
「いいえ。おかげさまで無事にパーラーにたどり着けましたわ。迷子になっていないか心配で来てくださったのかしら? でも、名前も住所もお教えしなかったのに」
隣でサエコが見張っているせいか、巡査は「ああいえ、そのことでは」とへどもどしながら答える。
「あなたが丸山家のお嬢さまということは存じていました。あのあたりでは評判ですから。今夜うかがったのは、駅前であった酔っ払いの喧嘩のことで」
「それがどうして珠世さんに関係あるのです」
サエコが強い口調で威嚇した。
「あっ、ええっと、喧嘩の原因が珠世さんらしいのです。一人は大学生、もう一人は丸山物産の従業員。二人に面識はありません。たまたま飲み屋で隣合わせて互いの会話が聞こえ、二人とも自分が珠世さんと結婚するのだと主張して、酒が入っていたため大事に。それで、珠世さんからも事情を聞いたほうがよいかと」
「珠世さんに婚約者などおりません。お巡りさん、そんなふうに茹でダコのようにのぼせ上がって、喧嘩だなんだって、評判の美女の家を訪ねる口実ができたからのこのこやって来たんじゃありませんか?」
図星だったのか、巡査は顔を引きつらせてもごもご言い訳めいたことを口にすると、そそくさと玄関から出ていった。
警察沙汰になったのはこれが初めてだったが、これまでにも小さなイザコザはいくつか起きている。サエコから報告を受けた両親は心配し、結婚は乗り気でなくともせめて婚約者くらいはと、今度ばかりは大奥さまとまったく関わり合いのない相手を見つけてきた。珠世がおかしくなったのはその見合いの席である。
顔合わせは駅前にできたばかりのホテルのラウンジだった。仲人は珠世を丸山家に連れてきたあの男、つまりは珠世の実の父親である。先方を待つあいだ、実父は笑みを絶やさず喋り続けた。
「向こうは名の知れた家柄ではないが、あの石田鉄工で将来有望と言われる青年だ。珠世君と結婚すれば丸山物産との繋がりをもてるのだから、本人も両親も大抵のことは聞き入れてくれるよ。仕事も家事もする必要はない。好きに過ごせば良いという話だ。それに、彼は珠世君と同じように多くの異性に言い寄られて辟易していてね、君の気持ちも理解してもらえるに違いない」
しかし、約束の時間に現れた美青年の、整った顔つきが珠世を目にした途端だらしなく緩んだ。サエコの言葉を借りるなら、『茹でダコのようにのぼせあがっ』たようだった。一方、珠世はいつも通りである。
「このようなご縁に恵まれ、ぼくは幸せ者です」
「わたしも幸せ者です。望みをなんでも聞いてくださるんでしょう?」
珠世の言葉に一同わずかに顔を強ばらせたものの、嗜める者はまだいなかった。たとえ嗜めたとしても何も変わらなかっただろう。
「わたし、結婚しても丸山家の旧宅で暮らさせてもらいます。暇なときに会いに来てくだされば結構ですから」
さすがにこれにはみなギョッとしたようだった。
「婿入りの話とは聞いておりませんが」
苦虫を噛み潰したような顔で青年の母親が口にする。
「お嬢さまが少々風変わりな方という話は耳にしておりました。数多の男性がお嬢さんに熱をあげ、刃傷沙汰にまでなったとか。丸山物産のお嬢さまとはいえ、こちらも諸々目をつむったうえでこの場に来たのですよ」
中年女が口を閉じると沈黙が落ち、通りすがりのホテル客の視線が彼らのテーブルに注がれた。珠世は運ばれてきたオレンジジュースに手を伸ばし、ズッと音をさせて美味しそうに啜る。そして「やめましょう」と言った。
「やめる、ですって? いったい丸山さんはお嬢さんを」
「もう人の皮をかぶるのはやめにしますわ」
「はっ?」
「わたしが猫だったころ、人さまは気まぐれに餌や寝床を与えました。なでたり、触ったり。しばらくはそうしてかわいがるものの、飽きたらポイです。捨てられた猫は悪たれ坊主に蹴飛ばされ、石を投げられ。なんとまあ、人さまとは理不尽な生き物だと、あの小さな頭でそんなふうに思っておりました。ですからわたし、車に轢かれて死にかけていたとき、死んでも人にはなりたくないと願ったんですのよ」
にっこり微笑んで珠世が見たのは実父だった。テーブルを囲む人さま達はみな言葉を失い、鳩が豆鉄砲食らったようにあんぐりと口を開けている。誰も手を付けようとしない豆菓子を、順番にその口に放り込みたいくらいだった。
「しかし、なんの因果か人に生まれて二十六年。わたしなりに人らしく生きようと努力しました。けれど、もううんざりです。わたしはただ、猫であったわたしの死骸が埋められた、あのツツジのそばで暮らしたいだけなのです。わたしが丸山の旧宅を離れてしまえば、大奥さまは池のほとりにあるわたしの墓ごと土地を売り払ってしまうでしょう。そうしてまた大金を手にするのです」
珠世の両親は冷や汗を流し、実父は二十六年前に轢いた猫のことを思い出したのか蒼白になっていた。相手の両親は憤慨を通り越したらしく丸山夫妻に憐れみの眼差しを向け、「この話はなかったことに」と席を立った。青年は多少未練があるようだったが、背を押されると抵抗することなくホテルから出ていった。
そうして、珠世が猫憑きになったという噂は数日で駅前通りに広まったのだった。
ある日珠世が駅前を歩いていると、自転車に乗ったいつかの巡査が、なんとも言えない顔で彼女を追い抜いていった。近くに本社のある丸山物産社員は、社長令嬢とすれ違っても気づかないフリをした。当然、旧宅への贈り物などまったく届かなくなった。
あの見合い以来、珠世の口癖は「わたしが猫だったころは」である。大奥さまは見合い相手の代わりに祈祷師やら霊媒師、精神病院を紹介してくるようになった。しかし珠世はあいかわらずで、不名誉な噂もなんのその、隣町で仕事を見つけては退職し、新しい習い事に通ってはやめた。鯉にパン屑をやり、ツツジの根元に煮干しを投げた。
「奥さま、心配しなくても珠世さんのあれは憑かれたフリですよ」
「そうだよ、母さん。本気で姉さんを結婚させたいのなら、この家で暮らしてくれる相手を見つけた方がいい」
サエコと道雄は気落ちした奥さまをそんなふうに励ましたが、丸山家旧宅の化け猫が娘に取り憑いたという怪談話は面白おかしく広まっていき、珠世との結婚だけならともかく、旧宅に住んでも良いという相手はそう簡単に見つかりそうになかった。それに、珠世が「猫のころは」をやめないものだから、人の噂も七十五日というわけにいかない。
「珠世さんはこれで満足なんですか?」
コーヒーを淹れるサエコのそばで、珠世はソファーに寝っ転がって煎餅をかじっていた。
「いいのよ。男の人なんて最初はいい顔してもわたしの飽き性を知ると尤もらしい顔で説教してくるの。わたしは猫なんだから、生まれつきの性分はどうにもならないのよ」
「飽き性の珠世さんが続けていることと言えば、パン屑と煮干し、それに猫憑きの芝居くらいですからね」
「どうしてサエコさんは芝居だって疑うの」
「珠世さんに死んだ猫の話をしたのはわたしですよ。どうやって騙されろというんですか」
「でも、化けて出てくることだってあるでしょう? わたしが貰われてくる前に死んだっていうその猫、あの人が丸山に嫁いできたころからこの辺りにいたっていうじゃない。二十年以上生きてるなんて、やっぱり化け猫よ」
「あら、そんな話までしましたっけ」
「したわ。それに、このまえあの人が寄越した拝み屋さん。この家に猫が憑いてるって言ってたわ」
「ええ、家に。サエコさんに猫は憑いていません。猫は気まぐれですから、たまにはサエコさんについて一緒に出かけたりするかもしれませんが、とり憑いているのはこの旧宅ですよ」
サエコが妙に自信たっぷりに言い切るものだから、珠世もついに観念したようだった。
「じゃあ、もうやめようかな。猫憑きのフリもそろそろ飽きちゃった」
「そうしてくださいな。あまりやり過ぎたせいで道雄さんも寄りつかなくなってしまったではありませんか」
「道雄は忙しいから来れないの。丸山物産は好景気だから」
珠世はしばらくぼんやりと天井を眺めていたが「ねえ、サエコさん」と妙に湿っぽい声を出す。
「わたし、自分が産んだ子すら飽きてしまいそうで怖いのよ。飽きて、ポイと捨ててしまいそうで。でも、サエコさんはわたしに飽きてはダメよ」
「珠世さんほど見ていて飽きない人はいません」
「でも、父さんも母さんもすっかり来なくなったわ」
「仕事が忙しいからでしょう? 丸山物産もですが、世間はこのところ好景気ですから」
最近はずっと珠世とサエコのふたり暮らしだった。「猫のころは」と言う以外に珠世はさほど問題を起こすこともなく、サエコが二、三日いなくてもある程度のことはできる。両親も道雄もこのまま珠世に旧宅を与え、好きにさせればよいと考えはじめているようだった。
この家が珠世のものになるのは悪くない。
〈四〉
サエコが孫の子守のために三週間ほど休暇をとったのは翌年の春のことだった。
両親と道雄がいない暮らしにはすっかり慣れていた珠世だが、ほぼ毎日顔を合わせていたサエコがいないのはずいぶん心細かったようだ。
「サエコさんもわたしに愛想が尽きたのかしら。だから、孫の子守だなんて言って、このまま戻って来ないつもりなのかしら」
布団の中で丸くなって啜り泣く珠世は、二十七年前に見た赤子そのものだった。あの頃はひと泣きすれば奥さまかサエコが駆けつけたが、今この家に珠世をあやす者はいない。
サエコは戻って来るだろうか、とわたしは考えた。サエコはいい人だが所詮は人さまだ。いつ気まぐれに手をあげ、蹴りつけ、ふいと背を向けるかわからない。いくら鳴いても煩わしそうに舌打ちし、首根っこを掴んで雨の中に放り投げる。わたしはそれでも生き延びた。しかし珠世は怖がりで、捨てられる前に自分でポイポイ放りだし、飽きられる前に飽きたと言う。パン屑と煮干しだけは今もなんとか続いているが、備蓄がなくなったらやめてしまうかもしれない。
サエコが旧宅に帰ってきたとき、池の傍のツツジは咲き乱れていた。旅行鞄を玄関先に置いたサエコは池をぐるりと回り、ツツジの下をのぞき込む。どうやらわたしを探しているようだったが、居間のソファーに寝っ転がったまましばらくその様子をながめていた。そのうち、サエコがあまりに必死に探すので少々気の毒になってきた。
「サエコ」
窓を開けて声をかけた。
「ああ、珠世さん。ただいま戻りました」
サエコは後ろ髪を引かれるように何度も池の方を振り返り、わたしのいる窓辺までやって来た。
「珠世さん、元気だった?」
「全然元気じゃなかったさ。珠世はサエコがいなくなってワンワン泣いて、ついに放りだしてしまった。そうそう、サエコはわたしを探していたんだろう? いつもみたいに出迎えなくて悪いね。だが、わたしも珠世と同じようにサエコに捨てられたと思ってね、ちょっとした意趣返しのつもりだったんだ。大目に見てくれ」
わたしは口の中の煮干しを飲み込むと、テーブルにあるパン屑の袋を口に咥えた。サエコが目を丸くしたが、珠世がいなくなったからには鯉の餌やりは今はわたしの役目である。前脚をかけて窓を飛び越え、庭に着地して駆けた。日が暖かいから、このあとは丸石の上でひと眠りするとしよう。
〈了〉
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