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手のひらサイズの小さな夢を持っていたい、気づいたら叶っていた夢の小話
3年前までの2年間、毎月A4用紙1枚分のエッセイを書いていました。それはそれは愉しくコツコツと。
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過去の自分のファンになる
そのころのエッセイはすべてデータに残している。先日、ゆとりが生まれた時間にふと思い立ち読み返してみた。最近はnoteのおかげで書く習慣ができあがっているけれど、ふりかえれば当時の私はこのエッセイに支えられていたのかもなと思う。
A4用紙1枚とはいえ中身はそれなりに詰まっていて、なんでもないことを書いているようで結構おもしろいこと書いてるじゃんと驚く。
その中で「将来の夢を語れるのは、いったいいくつまでだろうか。」からはじまるエッセイを発見。以下抜粋して引用。
私が通っていた小学校では、卒業式で将来の夢を発表する習わしがあった。卒業証書をもらう前に、舞台の端に立って大きな声で発表するのだ。テンプレートとしては、「僕・私の将来の夢は、○○な○○になることです」だ。もう十数年前なのでよく覚えていないが、ワニを調理することのできる料理人になると公言した戸嶋くんは大手商社マンとして日々奮闘している。
ここで気付く。私たち社会人にとって「将来の夢」という表現がミスマッチな所以は、「夢」ではなく「将来」にあるのではないかと。将来という言葉には未来よりももっと果てしない、言わば時間というよりも時空を超える感覚が含まれている気がする。あくまで感覚的な話であるのだが。
小学生に比べれば私たちの未来の幅は狭いかもしれない。けれども、かつて「大人になったらしたい」と思っていた数々の夢を叶えることは時を経て可能になっているはずなのだ。オムライスに好きなだけケチャップをかけたり、湯船でアイスクリームを食べたり、髪を金色に染めてみたり。叶えようと思えばすぐにでも叶えることのできる小さな夢に心を躍らせながら生きてゆきたい。
ひとまず私は「高速道路を見下ろせる静かな場所に住む」という絶妙に厄介な重量の夢を叶えようと思います。あとはパピコをひとりで食べてみたい。
今ならこういう言い回しをするな、みたいなところもありますが、そのまま掲載。いやぁ、そうだなと思わされます。確かに、社会人となったわたしたちが「将来の夢」を語るのにはなんだか違和感がある。将来の夢が職業である必要はまったくもってないのにもかかわらず。
大人になった今、オムライスには思いっきりケチャップをかけるし、ひとり暮らしの期間には湯船でアイスも食べていた(結婚してからはリビングにて夫と食べている、たまにソロアイスもする)。職業柄思い切った髪色にはできないけれど、こっそりインナーカラーを入れたりはしている)。
最後に書いている「高速道路を見下ろせる静かな場所に住む」については、なんと無事に叶えている。窓を開けるとかなり騒がしいけれど、見下ろせる場所ならそりゃうるさいよねと甘々く妥協。なんだ、夢、叶ってるじゃん。と、叶えた張本人ながらうれしくなった。
過去のわたしへ
パピコは大事な人と分けるのがおいしいんだよ。
あと、ちゃんと蓋まで食べること。
406より。