はたちと、6ヶ月。
最近年齢を聞かれた時、「はたちです。」と答えている。
そして、その言葉に対する反応の多くは2択で、
「もうそんなに大きくなったの!?」か、
「まだ、はたちじゃん!若い!!」である。
正直絶賛はたちなう✌️な私にはどちらの反応が正解なのかは分からないが、はたちになって実感したことがある。
私は、はたちになるまで、なぜこうも、はたちという年齢が特別扱いされているのかが理解できなかった。
お酒を飲めたり、タバコが吸えるようになったりするのもはたちだし、成人式もはたちである。(今は違うのか!?)
なぜ、こうもはたちという年齢は、特別扱いなのだろうか。
そして、はたちという他の年齢にない別称を与えられているのか。
でも、なんとなくはたちになってわかったこともある。
ここから先は、持論であるが、
はたちというのは「若さの最高到達点」である気がする。
こう思うようになったのは、つい最近のことだ。
つい最近、下は、小学生、上は、24、5歳の人達と関わる機会があった。
そんな時、彼ら(私より若い子たち)は、すごくキラキラして見えたのだ。そして、そこにいた誰かの「私は、もう若くないな。」の言葉が強烈に自分に刺さり、共感した。
お世辞でも謙遜でもなんでもなく、自分は若くないのだ、と感じた。
傍から見れば、はたちはまだまだ若いのかもしれない。
おじいちゃん、おばあちゃんの世代からすると、30代も40代も若いのかもしれない。
けれど、もう「若い」から自分が卒業している気がしたのだ。
では、なぜはたちは「若さの最高到達点」なのか、
はたちという年齢の多くは、大学3年生である。(もちろん違う場合もたくさんある。)
大学3年生の口癖は、就活や、インターンなどである。
そう、夢が現実に変わる瞬間を生きているのである。
何となく、この仕事したいなであったり、こういう関係の職場がいいなであったり。
そんな夢や希望が、現実に変わる世代なのだ。
それと同時に昔抱いていた夢に、絶望し、安定や現実と向き合い、折り合いをつけていく年齢である。
別に誰から学んだわけでもなく、自分で取捨選択していくのだ。
残酷だ。だがしかし、それでこそ人生である。
私もそういう年になったのだ。
そこで納得した。
あのキラキラした感じが私にないと感じたのは、夢や希望を一度捨てたからである。
別に後悔や後ろめたさがあるわけではない。
ただ、私の目の前にあるのは、現実だったのだ。
だからこそ私は、はたちが特別なのであると最近思った。
夢と、現実。希望と、絶望。相反するこれらの感情のどちらも持ち合わせているからである。
だからこそ、特別な年齢である。
はたちを半年間経験して、わかったのだ。
はたちは、子供から大人に変わる瞬間なのではなく、子供を卒業する最後のリミットなのである。
だから、私は精一杯楽しもうと思う。
その一瞬、一瞬を。
はたちというすごく賞味期限が短い年齢を。
はたちを過ぎるとおそらくあっという間になってしまうであろう人生を。
(こういうのは、恐らくはたちになってすぐ書くべきことであるが、なにぶん夏休みの宿題は最終日にするタイプなので、はたちと、6ヶ月で書いてしまった。)
毎度最後の締めに困っている私だか、今回も困ってしまった。
まあなんというか、短いのか長いのか分からない人生であるが、自分らしく生きてみようと思う。