「国葬」は人間の自由と平等を葬るのか?
つい先日、「日本キリスト教協議会(NCC)」なる組織が、安倍元首相の国葬に対する抗議声明を出した。
最初に感想から言わせてもらうと、この声明の内容は、同じクリスチャンである自分が読んでみても、まったくもって理解不能な論理だった。
上記の記事に紹介されている声明によれば、まず出だしから強烈なのだが
ぇぇ……?
ちょっとのっけから言ってる意味がわからない。
続けて引用すると…
もう既に、各自治体や公的機関では半旗を掲揚したり、各所に記帳台を設置し(恥ずかしいことに、当事国である日本において、これらの動きに関しては世界に一足遅れることとなった)、多くの方がその死を悼み足を運んでいる。
ただそれらの「弔う」という行為について、国として強制したり、圧力をかけたりといった意向は一切見受けられない。
国葬を執り行うことに対して気に入らない、自分には弔う気持ちがないので弔いたくない、この件には関わりたくない、など、当然のことながら国民の間には色んな思いが交錯していると思う。
別に好きにすれば良いんじゃない、と自分は思う。
誰も安倍元首相を弔うことを強制なんかしていないし、弔いたくないなら弔わなければいい。
黙祷しなかったからといって、記帳台に足を運ばなかったからといって、献花しなかったからといって、公に追悼の意を表明しなかったからといって、誰も「非国民だ!」などと言う人はいないし、公安に連れ去られて尋問を受けるなんてこともあるわけがない。
関わりたくないのなら関わらなければいいのだ。
それこそが自由民主主義国家のあるべき姿であり、みんな大好き「多様性」を体現していると言えるのではないだろうか。
安倍元首相の早すぎる死に際して、全世界の首脳をはじめ各界から悼む声が寄せられるとともに、彼が世界中に遺した数多くの功績に関して感謝の意が寄せられている。
国によっては国家レベルで喪に服したりもしたのだ。
生前の首相としての実績を含め、ここまで世界的なインパクトを与えてきたからこそ、対外的に日本としての姿勢を明らかにするためにも、国としてその死を悼むとともに生前の労をねぎらう意味でも、国葬が相応しいのではないかと個人的には思う。
さて、今回NCCから出された抗議声明、頭から後ろまでツッコミどころ満載だったのだが、極めつけはこれ。
実際、これを読んだクリスチャンの人たちでも脳内に「?」が大量に浮かんできたそうで、一部のクリスチャンコミュニティの間でも困惑の声があがっている。
「国葬=人間の神格化」とは、一体何のことを言ってるのだろう…。
旧約聖書のサムエル記から列王記、歴代誌に至るまで、イスラエルを治めた王が亡くなった際には、国をあげて喪に服し、荘厳な葬儀をあげた例がいくつもあるし、創世記でもヨセフ(※訂正&追記:正しくは、ヨセフの父イスラエル)の死に際し、古代エジプトの風習に倣った大規模な葬儀が執り行われたことが記録されている。
ユダヤ人の間で(というか中東において?)は、死者を丁重に葬ることで、人としての尊厳を最後まで尊重するという価値観があるそうで、遭難や虐殺などで野垂れ死んだりしてその遺体がまともに葬られないのは、人として耐え難い屈辱なのだ。
そもそも死者を葬る行為そのものが人の神格化、偶像化につながることを警告したり、それを示唆したりするような聖書箇所は、自分の知る限り見たことが無いのだが、いったい聖書のどの箇所を指しているのだろうか?
今回の件然り、先日記事を書かせていただいたお米屋さんの件然り、なぜかリベラルを自称する人たちは「オレたちの価値観にそぐわないものは悪だ!」と言わんばかりに重箱の隅をつついてはそれを排除するよう要求し、抗議行動に出る。
所謂キャンセルカルチャーの典型ではあるが、そういった排他的な正義を掲げれば掲げるほど、みるみるうちに全体主義的なイデオロギーに成長し、やがて「人間の自由と平等」を葬ることになるのではないだろうか。
人が掲げる「正義」というのは、使用済みのオムツのようなもんだと旧約聖書のイザヤ書に書いてある。
人間の一方的な基準で善と悪を定義づけて、反対側にいる人たちにケンカをふっかけて、自分の好きなように思い描いたものと異なる要素を排除したところで、そこに「多様性」も「平和」も生まれるはずがないのだ。