否定と肯定。尊重するってこんなこと
ある日、職場で言われた言葉。
「あなたはだれのことも悪く言わないよね」
確かに私は、"誰のことも否定したくない"。
子供の頃からのくせで、人に対するネガティブなワードは頭の中で自動変換するようになっている。
遅い→ていねい
雑→合理的
変わり者→個性的
計算高い→頭の回転が速い
言葉がきつい→率直で飾らない
…
色々あるけど、なるべく人を否定しないように、気をつけて生きてきた。
悪く言わないね、と言った相手は私を揶揄したつもりはなかったんだけど、自分の中で勝手に焦りが生じた。
『あんたはそんなに崇高かい?』
自分自身を責め立てる。
ほめられて嬉しい?否定しないでいた甲斐はあった?表面上取り繕ってるだけなんじゃないの?
考えても答えは出なくて、それ以来そんな自分の違和感が、拭えない。
この年末年始。
ある集まりがあって参加すると、その場はものすごい愚痴や不平不満で溢れかえってた。
唯一、気の置けない仲間内にだけ、こんな時くらいは愚痴っちゃっても良いじゃないか、と思う。
あたまではそう、分かってる。
でも飛び交う言葉たちに私はいちいち反応し、ライフゲージが削られて、すぐに帰りたくなった。
そしてつい、出ちゃったんだよね。
その場にいない人のことを悪く言った人に対して、
「その人そんなタイプかな?」
と反論した。
擁護したい人だったから。
嫌だったから。
たぶんそのいっとき、場は盛り下がったと思う。
そして1/1を迎え、震災が起こった。
直接の被害はなかったけど、夜なかなか眠れない。
眠れない間、反論した時のことをぐるぐる考えていた。
考えて、気づいてしまった。
誰のことも否定したくないとか言って、誰かを否定する人のことを否定したよね
違和感の原因はこれだった。
無理があったんだ。
なぜ、そんなことをしてた?
否定しないことにはメリットがあった。
それは隠れたメッセージ。
私は誰のことも否定しません。だからみんな私を否定しないで
弱者の懇願だった。
自分で自分のことが認められないから、人を使って、認めさせようとしてた。
人をコントロールして、満たされようとしてた。
本心では否定してるくせに。
不満を堂々と表明している人よりずっとタチが悪い
…。
もう、人を使おうなどと考えてはダメだ。
ひとが何を思ってどうするかは、ひとが決めること。
自分の心は自分で満たすんだ。
じゃあ、私はどうしたらいい?否定しないことをやめるのか??
解決のヒントはあるネット上の呟きにあった。
「自粛したい人は自粛すれば良い。経済活動を止めたくない人はいつも通り過ごせば良い。100人いたら100通りの意見があるのだから」
震災直後、被災していない人々は公でどう振る舞えば良いか迷う人も多い。
そして意見の違いは論争を生む。
でも、こんなふうに考えることもできるんだ、と目から鱗。
私は凝り固まってたんだな。
否定しないことは肯定することだとばかり思ってた。
けど、否定しない、肯定もしない、ただその在り方すべてを受け入れる
自分と意見はちがうけど、共感はできないけれど、あなたの考えは受け入れますよ。
そんな姿勢もあったんだ。
全く共感できない人のことを心から受け入れるのは、正直難しいと思う。
だって自分のことですらまだまだ受け入れられない部分が多いのに。
でも、
それでも
違いを認めた上で、相手も尊重できる、そんな器の大きな人間になりたいと、強く思った。
その理想に近づいた時、きっと私は満たされるだろう。だから、一生かかってでも追い求めようと思う。
ちょうど新年。そんな抱負を抱いた。
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