カミナはなぜ無能なのか グレンラガンの幻想

 今更ながらグレンラガンを見た。昔、ニア登場の辺りで見るのを辞めてしまった。もったいないことをしたと思う。ただ当時は理解出来なかったとも思う。この名作を見終わった熱量を消尽させたくてグレンラガンについて書く。
 ドリルとはファロスのメタファーである。要する生殖の、男らしさのメタファーであり、失われたものとしてのメタファーである。こんなにも露骨な性の話であったか!ドリルは生殖器であると同時に、発見するものであり、また敵との闘いを通じて獲得していくものであるのだ。
 今考えると、精神分析的物語がロボットアニメに接続するというのは流行の形態であった。エヴァは言うまでもなく、コードギアスも両親との対決やスザクの自責など精神分析的なストーリー解釈がうまくいく。もちろんフロイトによる物語の構造分析が家族的であるのは、オイディプス王などギリシア悲劇を例にとるからであり、作劇の基本線をなぞっているところを無理矢理、精神分析的に解釈しているともいえる。だが、指摘したいのは、これらのロボットアニメに見られる父ー子の系統、家族的系統性は障害として、乗り越えるべきものとして提示されていることだ。
 グレンラガンにおいては、主人公シモンの父は描かれない。代わりに、シモンの憧れとしているのはカミナである。ここで家族的系統性はずらされている。兄貴こそが、シモンに対して自信、やれるという保証を与えてくれる人物であり、父性を担っている。この父性を、血縁的な系統と区別して、憧憬的な感染とさせていただく。カミナへの憧れを通じることによって、穴掘りシモンは出来るという自信を得るのだ。
 「お前を信じる俺を信じろ」、「俺が信じるお前を信じろ」は、カミナへの憧れを通すことによってカミナが信じるシモン自身を信じるという構図であり、これは物語の終盤「お前を信じるお前を信じろ」といういわゆる弁証法の止揚、ジン・テーゼとしてカミナからシモンに伝えられることになる。 
 それでは、カミナへの憧れによって動かされる力は、シモン自身のものでしかないのだろうか?『饗宴』におけるアルキビアデスの恋心のようなものだろうか?
 劇中で示される答えは、そうである。シモンはシモンのドリルで道を切り開くのである。
 カミナは無駄である。無意味である。
 カミナは最初、大言壮語を吐く、コミュニティに利益を持たないものとして描かれる。要するに頼れる兄貴、カミナという幻想はカミナとシモンの間にしか感染していない。他のコミュニティのメンバーは冷ややかにカミナを見つめるだけである。カミナもそのことは自覚している。カミナは力を持たない青年であり、頼れる兄貴を演じているのはシモンの保障があってこそなのである。
 シモンの信じるカミナは幻想である。カミナ幻想として力を持つのだ。カミナが立ち向かう力もカミナ幻想を信じるシモンや仲間がいてこそ、頼れる兄貴カミナであることが出来るのだ。カミナを信じるシモンこそ、カミナ幻想の核である。
 螺旋の力は幻想によって支えられてる。螺旋の力は、生命の力は生殖器としての生命、遺伝子の乗り物としての力ではなく、人の生命が続いていくことを意味づけるための幻想である。カミナはこの幻想を起動させるための浮動するシニフィアン、ゼロ記号でしかない。現実のカミナは弟分にしか威張れなく、本当は力のないことを自覚しつつも夢見る等身大の青年像である。一方で、頼れる兄貴カミナはシモンを引っ張り、セカイの不条理にあらがい、『無理を通して道理を蹴っ飛ばす』カミナ幻想を感染させるのだ。


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