Noda Map『正三角関係』。機械としての神と戦争、そして正当化しえない悪。

野田秀樹作 『正三角関係』を見る。8/10マチネ。
ずっと見たかった芝居。当日券の抽選に運よく当たり見ることが出来た。
素晴らしい舞台だったので、感想を書かずにはいられなくなった。

役者の名前のもじりからわかるようにこの芝居は、『カラマーゾフの兄弟』をオリジナルとしている。
松本潤さん演じる花火師、唐松富太郎は長男ドミトリー、永山瑛太さん演じるは物理学者である次男イワン、長澤まさみさん演じる三男有吉は敬虔な信徒、アリョーシャで、竹中直人演じる兵頭は、道化たろくでなし、ピョートルである。

1.神と戦争、二つの悪の正当化とその決定不能性の役、富太郎


『贋作・罪と罰』もドストエフスキーモチーフであった。ドストエフスキーは、神への信仰を、不信心と対置することで書こうとした作家である。その不信神の役目は、原作では知的エリートである次男イワンが担っている。犬に子供を自分の楽しみに噛み殺させた将軍と母親が神の前に抱き合えるとでもいうのか、というのがイワンが神を否定するのに持ち出す一例である。

野田さんはこのイワンを物理学者へと変奏する。物理学者は、無神論者である。いかに自然の斉一性が美しかろうとも、理論において神を必要とはしない。
 その物理学者が一番の威力を発揮した場所に接ぎ木される。原子力爆弾の開発である。兵器に殺意はない。開発した人にも殺意はない。ただ理論が、科学がそうした殺傷兵器の存在を許している。
「神がいないのならば、すべては許される」

 神においてすべての悪が、意味づけることが可能なのと同様に、戦争という目的において悪行は正当化される。神の国においてこの苦しみは報われる、この悪は最善世界のための必要悪である。または敵国に勝利するという目的において、大量殺戮兵器は正当化される。極悪非道の行為は戦争の勝利によって贖われる。

野田さん聖書の句の引用「一粒の麦地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、もし死なば多くの実を結ぶべし」は、神における悪の救済と戦争における勝利による救済の二通りの読み方を提示する。すなわち、死という悪、苦しみは神において救済され、多くの実(幸福)となる、もしくは戦争に勝利さえすれば、独りの兵士の死、敵の死という悪、苦しみは自国に万倍の富をもたらすだろう。

 有吉(アリョーシャ)が神の側につくならば、イワンは戦争の側につく。ドミトリーの役である富太郎が、花火師であるのは、爆弾を打ち上げる人の比喩であることがわかる。つまり爆発するものでも、開発するものでも、指示するものでもなく、現場で殺意を実行する人。現場で行われる悪について葛藤する人の役である。富太郎(ドミトリー)はこの両者のどちらにもつけないものとして、神にも戦争にも悪の正当化を求めることが出来ないものとしてこの二点を結ぶ三角形の頂点である。

2.無罪/有罪 火薬/女、芝居のプロット


 『カラマーゾフの兄弟』における父殺し、兵頭(ピョートル)殺しの裁判から劇は始まる。そこで賭けられているのは、無罪と有罪の間を行き来する富太郎の姿である。無罪ならば、また花火を挙げられる。有罪ならば、尊属殺人で極刑である。重苦しい裁判の場面だがミステリー的な面白さがある箇所で、エンタメ的というか楽しめるものだ。

 兵頭を殺した理由はグルーシェニカの取り合いである。グルーシェニカは女の名前だが、実は火薬の隠語であったのではないかと弁護人は主張する。グルーシェニカが火薬か女かという二者択一により、裁判は混乱する。火薬ならば、火薬を失って苦境に立たされている生方里奈の助けとなるための義侠心故という言い訳が付くのである。グルーシェニカが女ならば、やはり痴情のもつれだろう。無罪と有罪が、火薬か女かという二者択一によって決まるのである。ここでイワンが富太郎に爆弾の製造を手伝わせたい。それゆえ富太郎は無罪になってほしいのである。日本の戦争は富太郎を無罪に割り振る。
 しかしここにロシアの戦争情勢、1945年の8月が入ってくることによって日本の利益における富太郎の無罪/有罪の割り振りが変わる。兵頭は火薬をロシアに横流ししており、ロシアは日本に宣戦布告間近である。もし火薬ならば、日本が必要な火薬をロシアに流していた悪を退治したものであり、女ならば、これまでと同じく家庭内の痴情のもつれである。
こうして富太郎の無罪/有罪は、無罪ならばロシアと日本との関係破綻がばれてしまう。有罪ならば痴情のもつれ、日本内の一事件で解決する。という配分の中で決められることになる。

陪審員の選ぶ答えは有罪である。

そして8月9日、原爆が長崎に落ちる。

3.正当化不可能な悪

私がラストシーンに過剰な解釈を施しているのかもしれない。
ただ、このラストシーンを野田さんは書きたかったように思える。

郵便配達員の少女が、焼け焦げた大地に崩れふす富太郎の脇に立っている。
兄の戦死の届けを母親に届けた後だろうか、届ける前だろうか。
ここに一つのエコノミーが発生している。郵便の達成可能性と不可能性。
郵便された過去と郵便されなかった過去。
芝居は郵便された過去を描かなかった。長崎の原爆によって失われたのは郵便の新たな達成可能性であり、したがって郵便の不可能性だけが残る。
宛先の消失。『Q』において、白紙の手紙が愛を綴れた場合と違って、行き場を失った手紙はただひたすら自己言及的に手紙であることを反復する。

 許されたもののなかに、どう頑張っても自己言及的にそれだけで意味をもたらしないような、ただの悲惨が存在する。アウシュビッツ、原爆、そして宛先の存在しない(しなくなった)手紙。
 
アウシュビッツは、なぜ神がいるのならば神はこの悪事を見過ごしたのだろうか、原爆は本当に戦争の終結のために必要だったのだろうか。前者の問いは神の悪に対する関係を宙づりにし、正当化不可能にする。戦争における多大なる悪は、戦争における利益を突き越えて、悪を正当化不可能にする。
未だすべての悪に説明づけること、意味づけることは可能である。つまりアウシュビッツは行き過ぎた理性への警告だとか、やはり原爆は戦争終結に欠かせなかったなど。しかしその理屈から漏れる、本当にただ悪かった、苦しかっただけなのではないかという嘆き、理性によって押しとどめることが不可能な悪がある。ただ苦しみ、悪であるとだけ自己言及される。それは他者や理性による意味づけが機能しなくなる悪である。そして他者であっても安穏と意味付けしえない悪として、アウシュビッツや原爆の記憶は繰り返す。

野田秀樹が書きたかったのは、悪の正当化不可能性でありこのラストシーンではないか。

郵便配達員の娘は、立ち尽くす。正当化不可能になった悪の前に、郵便不可能になった手紙に。

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