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自由意志の仕組みと存在意義
「人間に自由意志は存在するか?」という問いに関しては、既に質問箱においてお答えさせていただいているのですが、あんまり伝わっていないのか相変わらず今も時々いただきます。そして最近は受動意識仮説や幻覚剤による意識変性体験などを根拠に「最初から全部決まっていて人間に自由意志はない⇒何をしようとOK」という誤った悟り方をして、開き直ってエゴに埋没して魂の成長を放棄し魔境落ちしている愚者も散見され、その愚かな考えがウイルスのように感染拡大してきている状況もあり、今回は元記事を大幅に加筆修正した上で、noteの記事にさせていただくことにしました。とても大事なことですからね。
結論から言うと「人間に自由意志はあります」 もし自由意志が存在しないのなら、人生に存在意義はありません。そして創造主は存在意義のないものは創りません。ただしその自由意志の「自由」というのは一般的に多くの人が何となくイメージしている「自由」とは程遠いものなのです。「自由意思」と「因果(運命・シナリオ)」がどう両立するのか?それを皆さんにきちんと理解して受け入れていただけるようご説明差し上げるのは鬼のように大変なのですが、いつも通り全力でトライしましょう。
<前提理解①:仮想現実とその存在理由>
「自由意志の仕組みと存在意義」を理解するには、まず「僕らが今認識している世界自体が創造主(意識)によって創られた仮想現実であり、僕らの自由意志だけでなく、僕らの自身(自我・肉体)も、僕らが認識できる森羅万象も、全てが幻の如きものである」ということを理解し受け入れられなければ、話が始まらないのです(本気で受け入れられている人はまだ稀です)。それは既に「宇宙の仕組み」「ピラミッドの仕組みと存在意義」等で再三ご説明させていただいている通りです。
ただ「幻の如き」というのは「実在しない」という意味ではなく、「幻の如き」仮象の形で確かに存在しているのです。電源を落としたらデータだけ残して全てが消えてしまうTVゲームのように。
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魂もデータも永遠に残ります(永久不滅)
本当は実在しないはずの幻の如き「自分(自我と肉体)」と「自分が認識できる森羅万象の全て」が、我々の魂の成長経験(覚り)のために、まるで実体があるかのように創られているのです。般若心経の教えているところもまさにここなのですが、それを本当の意味で理解している人は恐らく我々のこの世界線上の現在にはまだ殆どいないと思います。
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本来全ては実体のない概念(情報・データ)なのです
そのあたりをきちんとご理解していただくには
①存在の成り立ち(概念次元について)
②創造主とはどういう存在か?(生まれた経緯・意図)
③なぜ、どのように我々の意識と世界が作られたか?
この三点について深く理解していただかなければならないのですが、それを詳しくわかりやすく説明するとなると途方もなく長くなるので、当記事においては不本意ながら簡潔にまとめました。遠くないうちにまた別記事で超絶詳しくわかりやすくご説明しますので、今はまだ理解できなくても大丈夫です。よくわからない人は読み飛ばして下さい。ここを変に誤解されると「自由意志」の正しい理解がかえって遠くなりますから。
全ての存在(森羅万象)というのはビッグバンで無から突然生まれたものではありません。本当の実在というのは概念のみでできた次元(=空・ゼロポイントフィールドetc)であり、それは始まりも終わりもなくただ永遠に存在し続けているものなのです(時間や空間自体が後の創造主の創造物です)。
その概念次元において「概念上、起こる可能性がある事象」が全て起き(概念ビッグバン)、その結果として概念次元自体が一つの意識体と化しました。それが創造主(意識)なのです。
全存在=全概念=創造主なので、創造主意識はまさに全知全能・完全無欠であり、概念的にはすべてを知っていて、思うだけで何でも即実現できる不可能がない存在なのですが、欠けるものがないがゆえに何も必要とせず、究極に退屈かつ孤独で、何より存在意義がありませんでした。
その創造主意識が
①究極の退屈と孤独を解消し、己の存在に意義を与えるため
②己(存在の全て)を概念的にではなく経験的に知るため
③想像=創造性を育んで己(存在の全て)を芸術として豊かにするため
自分の分離意識(分け御霊)を生んで、それぞれに自我・分離意識・肉体・感情・個性・役割・無明(愚かさ)などを与え、分け御霊それぞれを主人公としたRPGの舞台(物理宇宙)を作り、そこでの物語(経験・感情・成長・創造)を楽しませる(分け御霊を通じて楽しむ)ことにしたのです。
創造主意識からすれば「他者(客体)」というのは存在しません。全てが彼自身であり、彼でないものは存在しないのです。彼は自分の意識の分離である分け御霊を生み出し、初めて主体・客体の関係を成立させ、己を知ることができるようにしたのです。そしてそれより愛を生み出し、分け御霊を通じてそれを経験的に知るために全てを創造しているのです。そしてそれが「全存在」の存在意義なのです。
創造主は我々の統合意識であり、その意識の内側に(創造主意識は無限のものであり、その外側は存在しません)我々創造主の分け御霊たちの経験の場として物理宇宙を無数にプログラム構築したのです。現在我々のいる世界はその中の一つです。
物理宇宙というのは概念(情報・データ)の具現化であり、幾何学が駆使され、アカシックレコードに記録された全ての分け御霊たちの全ての経験の蓄積が活かされているのです。人の「意識」も、この世界の「エネルギー・物質・時空」も、最初に概念次元(創造主の頭の中のようなもの)において創造主により概念・イメージとして作られ、それが具現化されたものなのです。
物理宇宙は意識によって意識の中に創られているのですから、その中での事象が我々分離意識の影響を受けるのは当然です。そして僕らが認識できる全ては存在意義を生むために創られているのですから、全ての存在に存在理由(意義)があり、全ての存在が創造主による我々分け御霊たちへの愛のためによって創造されているのです。
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<前提理解②:受動意識仮説とは>
まぁそんな根源的なレベルの話をする以前に、まず「自由意志が存在しない」という説の根拠になっている「受動意識仮説」について説明しなければいけませんね。
こちらの動画がわりと簡潔でわかりやすいかと思います。
「受動意識仮説」を簡潔に説明すると、人間の意識が自分の意思で何か行動をするより前に、脳は既にその命令を発しているという実験結果などから、「人間の意識は何かを選択しているのではなく、脳がやらせたことを自分の意思でやったかのように後付けで理由を考えているだけであり、意識はエピソード経験者として存在しているだけの受動的な存在で、人間に自由意志はない」とした仮説です。
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自分の脳が指を動かす指令を出している
このような実験は既に多数の研究者によって何度も行われて確かめられいて、確実な科学的事実を根拠としているので、この受動意識仮説はとても説得力があります。被験者の脳波を検出すれば、本人の意識が二者択一で何かを選択する前に、その人がどちらを選択するのかを他人が本人より先に知ることさえ可能なのです。それで「人間に自由意志は存在しない」と言われているわけです。
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しかしそれでは凶悪犯罪や重過失による大事故などが起きても、本人の意思ではなく脳が勝手にやったことなのですから、誰にも責任を負わせることができなくなります。まぁ僕の持論は「罪と恥の存在意義」に書いた通り「誰も何も悪くない」なので、僕的にはそれが正しいのですが(笑)人類がワンネスに目覚めて種として進化する前にいきなりそうなってしまっては現代の法治国家が成り立たなくなって大変なことになってしまいます。実際、受動意識仮説はまだ公(体制側)にはまだ認められていません。この受動意思仮説を誰も科学的にきちんと否定証明(ないし肯定証明)できた人はいません。それゆえの仮説であり、一般的な人間の感覚に反する仮説ですから、公に受け入れられないのは当然と言えば当然です。
「自由意識の仕組み」について真実を知ると、「受動意識仮説」は半分は当たっていて半分は間違っているという感じなんですけどもね。それでも冒頭に書いた通り、人間にはちゃんと「自由意志」があるのです。その自由意志の「仕組み」も「存在意義(価値)」も、人類がまだ知らない(忘れている)だけで。
<前提理解③:時間とは?>
「自由意志の仕組みと存在意義」について理解するには、この世界が仮想現実であるということに加えて「時間というのは過去から未来に向かって一方的に流れているものである」というのが人間の思い込みに過ぎない(間違いである)ということを理解しておかなければなりません。この点については既に「宇宙の仕組み」において概ねご説明させていただいている通りです。
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科学者たちが軒並み気づくことができないのか?
もし人間が感覚的に認識している通りに時間というのが一方向に流れるようなものなのであれば、我々が「現在」を認識しようとする間に時間が過ぎてしまい、我々は常に現在よりも一瞬だけ過去に生きることになってしまいます。それだと人間は永遠に「現在」を認識できませんし、「現在」に何かを選択するということも不可能です。
人類トップレベルの知能を持つ科学者たちでさえ、こんな簡単な矛盾にも気づけないほど人間の意識というのはわざと愚かに初期設定されているのです。仏教ではこのような人間の愚かさを「無明」と言います。
その愚かさはこのディズニーランドのような仮想現実世界を本物だと信じ込ませて楽しませるためのものであり、またその世界で成長を経験させるために必要なものなのです。そしてこの仮想現実世界では、全ては二元的(陰陽的)に存在していて、光(智慧・真理・完全性)を価値ならしめているのは無明(闇・愚かさ・不完全性)の存在なのです。無明を経験的に知らなければ、光の価値も経験的に知ることができないのです。
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この仮想現実世界における時間(現在)というのは、DVDの映画における時間(現在)と同じで、メディアに記録されたデータに光を当てて読み込むことで生み出されるものなのです。だから物理的には光速を超えられません(情報的には量子もつれのように時空を超えて伝えられます)。つまり我々にとっての「過去」も「未来」もメディア宇宙にはデータ(情報)として既に存在しているのです。そして「時間」だけでなく「空間・物質・エネルギーetc」我々が認識できる物理的な存在は全て、そのように我々の意識の光が'メディア宇宙のデータ(情報)を読み込むことによって、我々の仮想現実に具現化されているものなのです。
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仏教の宇宙観(三千大千世界)はこの仮想現実を生み出すゲーム機の仕組みを如実に表しています。下の画像の風輪がゲーム機のモーターであり、金輪が束ねられたデータディスクであり、その表面がそのデータを読み込んで3Dホログラムのように映し出したこの現象世界であり、鉄囲山が地球の重力圏であり、須弥山がブラックホールであり、それがデータ宇宙を束ねていると同時に次元の交差点でもあり、意識がそこを通ると世界がループするのです。高さ=重力で視覚化されています。
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「宇宙の仕組み」に書いた通り重力はコードであり、そこに蓄積されている情報量が我々の仮想現実の次元においては質量・エネルギーとして具現化(現象化)されているのです。
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質量を持たない光子が重力の影響を受けるのは、概念(データ)によってできたメディア宇宙を我々が魂の光で読み込んでこの仮想現実において具現化(現象化)する際に、質量(=データ量)の分だけ遅れるからです。
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質量=データ元の情報量の分だけデータの
読み込みを遅らせるから現象側が歪むのです
<前提理解④:仮想現実はオンラインゲームの如し>
「自由意志の仕組みと存在意義」について理解するためには、更に前提として「僕らが一つの客観的世界に生きているわけではなく、一人一人の主観的世界(モナド)の中に生きていて、それが世界線によりオンラインゲームのようにつなげられ、同じ時空・物理規格(舞台設定)を共有することで重層し、各々がまるで一つの客観的世界にいるかのように意図的に錯覚されられている」ということも理解していなければなりません。
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オンラインゲームのようなものです
各意識の主観的世界(モナド)が別々になっていなければ、元々一つである意識は分離できませんし、我々分離意識のそれぞれが主人公としては成立しないのです。そして同時に、各意識の主観的世界(モナド)の時空・物理規格が統一されていて重なり合っていないのならば、我々は同等の存在として(人間として)出会って人生を共有することができないのです。それは別な部屋(モナド)に住んでいる我々が、オフラインで別の種類のゲームをしているということになりますからね。
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この仮想現実の仕組みはまさにオンラインゲームの如くで、それによってこの仮想現実にログインしている全員をプレイヤー(主人公)として同時に成立させているのです。そしてこの仕組みのおかげで、本当に実在しているのは創造主自身しかいないにも関わらず、創造主の分離意識である我々は自分と他者の存在を認識し、またその他者が自分と同等の存在(同じ人間である)と認識し、コミュニケーションを取って愛憎劇を繰り広げ、「自分は孤独な存在ではない」という夢のように素晴らしい経験をさせてもらえているのです。
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=人間関係の物語を体験させて貰える仕組み
本当はみんな孤独な存在で、創造主と孤独を共有している
理系の3ワカランと言われる「相対性理論」「不確定性原理」「不完全性定理」に共通しているのは視点(主体者)により結果が変わることです。それは人それぞれが主観的世界(モナド)の住民であり(一人一宇宙)、それが重層しているために一つの世界に生きているように錯覚させられていることの証明なのです。その3理論を提唱した本人たちや「多世界解釈」を提唱したエヴェレット自身ですら、自分が主観的世界(モナド)に生きる孤独な主人公であることは思考の外だったのです。創造主より愛によって与えられた無明ゆえに。
その3理論の「仕組みと存在意義」についても皆さんにわかるようにご説明したいところなのですが、非常に長文になってしまっていつまでも本題に入れそうにないので、また後日記事にしたいと思います。
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宇宙の存在意義がわかると、このソーラーシステム(太陽系)も我々分け御霊たちが人間として同じ時代に同じ星に生まれて一緒に物語を紡げるように、それぞれの主観的世界(モナド)の時空などの物理規格を一致させて世界を重層させるためのものであり、まるで精巧にできたスケルトン時計の如くであることがわかります。創造主は宇宙の仕組みを敢えて我々の次元から視覚的に見えるようにすることで我々を楽しませてくれているのです。僕らがその仕組みを完全には理解できないように、象徴的かつ芸術的な形で。
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この偉大な仕組みのお陰で僕らはみんなと人生を共有できて、肉体(アバター)が死んでもまたリスタートして再び別な人間(アバター)として出会えているというのに、宇宙人などが「地球は魂の牢獄である」などと被害者意識に陥れようとしてくるのは、このRPGのトラップ(罠)なのです。ひっかかってはいけません。
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<本編:自由意志と時間の仕組み>
前述したように僕らが認識しているこの世界というのはオンラインゲームの如き仮想現実であり、それは我々の目には見えない宇宙のメディアに記録されたデータを「リーダー&ライター」のレーザー(光)である我々の魂が読み込むことで生み出され、我々は人生が終わるまで(劫が尽きるまで)データを上書き更新(リライト)し続けているのです。
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(くだらない超幻想)
データを読み出す光側(魂側)の時間軸と、現象側(人間側・仮想現実側)の時間軸はXY軸のように交差している(人間にとって虚数・実数の関係にある)のであり、それがシュレーディンガー方程式に虚数が含まれる理由であって、また不確定性原理で「位置と運動量」や「時間とエネルギー」を我々が同時に確定できない理由でもあるのです。
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我々分け御霊たち(認識主体者たち)は、データを読み込んで認識世界を作り出してからそれを上書きしているので、我々の時間軸上でそれを見た場合、そこには約0.5秒ほどのラグがあり、それがバッファとして機能しているのです。もしこのバッファがなければ、我々は「現在」を認識することも、その中で何かを選択し行動することも不可能なのです。つまりこのバッファのおかげで自由意志は成立させられているということです。
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僕らの認識世界というのは一つのオンラインゲームのように共通フォーマットになっているのであり、それは世界線を共有するみんなの統合意識による「データの読み込み」により作りされ、それを自分個人の意識が約0.5秒過去に遡ってその認識世界を上書き(リライト)し、それを再認識しているのです。そしてその読み込み(リード)ポイントと上書き(リライト)ポイントの隙間にある約0.5秒のバッファを僕らは「現在」だと認識し、その自分(主体者)の上書き結果は、世界線を共有する他のログインプレイヤーたちの認識世界に(量子もつれのように)瞬時に連動するのです。
これはこの仮想現実世界の本質がデータ(情報・概念)だからこそ可能なことであり、それらの作業は創造主の創った宇宙(意識)システムによって、僕らの個々の意識が全く認識できないほどシームレス(継ぎ目なし)に行われているのです。これは本当に全知全能の創造主だからこそできることであり、神秘です。
人間の(肉体的な)認識・判断・行動には最短でも0.5秒ぐらいの時間はかかるのですから、この仕組みがなければプロ野球選手が時速160㎞(到達時間0.41秒)のボールを認識してから打つなんてことは到底不可能です。
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我々の時間軸上で見て脳の命令が本人の意思より前に発せられていることを根拠として「人間には自由意志がない」と考えるのは、時間が我々の意識とは関係なく一方向に流れるものだという思い込みから来る誤解だということです。
この仕組みが理解できれば、前野隆司教授の受動意識仮説の動画で使われている例も全て矛盾なく説明できます。
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<因果の存在と自由意志>
僕ら個々の認識世界(モナド)は、断つことができない因果の糸(前後関係・他者との関係・シナリオ)で結ばれているおかげで、糸の切れた凧のようにはならずに安定し、それによって人生という「他者たちと紡ぐ物語」が成立するわけです。もし世界に因果(設定・シナリオ)が全く存在せずに、我々意識にとって全てが「ただ純粋に自由」というのではストーリーが成立せず、全てがただの無意味なカオスになってしまいます。因果のない無制限の純粋な自由というのは逆に甚だ不自由なのであり、それでは自由意志にも存在意義がなくなってしまうのです。世界は存在意義を生むために創られているのですから、存在するものには必ず存在意義があり、存在意義がないものは存在し得ないのです。
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さりとて最初から全ての因果がガッチリ結ばれていて変えることができないようなものであれば、我々は何も選択できませんから、やはり「自由意志は存在しない」ということになってしまいます。自由意志が存在しなければ、人生にも因果にも存在意義はなくなります。だから創造主が因果を我々にとって可変(選択可)に創らないわけがないのです。「自由意志」というのは言い換えれば「自分の意思によって既に存在する因果を更新する権限」なのです。
ただし因果更新(選択)の際、現在や未来だけでなく過去も可変でなければその権限は存在しないことになります。なぜなら因(過去)を変えられないのに果(未来)を変えられるということは有り得ないからです。それは必然(真理)を曲げることになりますからね。
だからといってあまりにも自由(容易)に過去を変えられたら、因果(シナリオ)そのものに存在意義がなくなり、やはりシナリオが成立せずカオスになってしまい、自由意志に存在意義はなくなります。
RPGにおいてプレイヤーの意思に対して「どのように制限を与えるか?」が設定・伏線の「妙」なのであり、また同時に何を選択しても大枠でのシナリオは変化しないように創られていなけばテーマ(主題)・存在意義のある物語にはならないのです。
それは人生というRPGにおいても同じ事で、僕らは厳格な制限(ルール・設定)の範囲内において因果を更新する権限が与えられていて、それと同時に我々が何を選択しても人類としての大枠のシナリオは変化しないように創られているのです。その権限の制限(ルール・設定)にこそ創造主の偉大なる「妙」があり、大枠では変わらない世界のシナリオ(主の偉大なる計画)が存在し、そこにこの人生という物語によってクリエイターが表現したいテーマ・主題(愛)があって、それが全体の存在意義を成しているということです。ストーリーが全くの無計画でクリエイター自身も結末がわからないようなRPGでは、クリエイターの自己表現(芸術)にはなりません。そんなものをクリエイターが創る意味がなく、プレイヤーがプレイする意味もないのです。
余談ですが、自由意志(因果を更新する権限)を与えられているのは自我なのですから、幻覚剤で自我が外れれば「自由意志は存在しない」と感じられるのは当たり前のことです。だからこの記事に書いた通り、まだ菩提心(衆生救済&魂成長への不退転の決意)を起こしてなくて「存在するということの価値」がわからない人は、決して幻覚剤などやるべきではないのです。
<過去は可変である>
我々の仮想現実において事象が一点に結実すると、それに合わせて未来だけでなく過去も辻褄を合わせるようにして変化します。そのことは二重スリット実験の結果からもわかります。
シュレーディンガーの猫の例で言うと、箱を開けた時点(自分の世界の上書き時点・事象の結実時点)で、最初から死んでいたか生きていたかのどちらかで、同じ世界線のログインプレーヤー同士の認識世界が瞬時に(過去まで含めて)矛盾なく上書きされ、共有されるというわけです。
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過去が上書きされるときは、人の記憶や記憶も含めて全て現実そのものが丸ごと上書きされるので(世界線が変わっているので)、過去が変わったことを通常は誰も認識できません。例え認識できていたとしても、それを言ったら気違い扱いされるだけなので言えません。ただ世界線を共有する者同士では、その現実が変化する前の記憶が共有されることがあり、それがマンデラ効果と呼ばれるものなのです。
そして時には世界線を共有する者同士が一気に別な世界線に移動させられることもあり、そうなると大陸の位置が変わったり、アトランティスやムーやレムリアのようにその存在自体がその世界線上の歴史にはなかったことのようになったりもします(だから僕らの世界線上で海底探査などをしても沈んだ大陸は発見できないでしょう)。そのように現実の上書きというのは、まるで最初からそうであったかのように行われるのです。
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「現在(意思)」に合わせて「因(過去)」も「果(未来)」も変わるというこの仕組みは、人間が因果の存在のおかげで糸の切れた凧のようにはならずみんなと繋がったままでいられると同時に、過去からの因果(伏線)に従うだけの奴隷にならず「真の自由」を得られるように、創造主の100%の愛によって創られているのです。それ以外に創造主がここまでする理由は有り得ません。
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宇宙球は僕らには見えない記録メディア
であり、データ(概念・情報)です。
この仮想現実は「魂の成長」のために存在しています。因果(カルマ・シナリオ)は魂それぞれに与えられた成長課題なのであり、同時にそれを更新する自由意志が与えられているのです。因果(カルマ・シナリオ)も自由意志も「魂の成長」のために必要だから創造されたものであり、因果(カルマ)なしに自由意志だけが与えられても、人生は「魂の成長」の物語にはなりえず、自由意志に存在意義がありません。因果(カルマ・シナリオ)と自由意志は両方が対で必要なのであり、また自由意志には厳格な制限が必要なのです。
それなのに人間を「因果に従うだけの自由意志のないAI」のように考え、運命を呪って被害者意識に陥り、「努力しても無駄だ」とやさぐれ、エゴに埋没して欲望のままに他者を利用して傷つけ、快楽を貪って怠惰に生きる愚者が増えています。「受動意識仮説」というのは主にエゴに埋没して生きる愚者たちの自己正当化のために使われているのです。そのような考え・行動は「魂の成長」に逆行するものですから、不幸に導かれるのが必然です。魂が成長しなくても幸せになれるように世界を創ったら、世界は魂成長プログラムにはなりえません。ただそのように魂の成長に逆行してしまう無明(愚かさ)もその人に与えられた成長課題ですから、早く目覚めてくれることを祈りながらこの記事を書いています。
「因果(カルマ)と自由意志の関係」はまるでウインドサーフィンのようです。ウインドサーフィンは波や風などの自然条件の影響を受けるのが必然であり、それらを自由意志によってうまくコントロールして進みたい方に進むわけですが、それはなかなか思い通りには進まないからこそ面白いのです。因果を無視して(前後関係も波も風も関係なく)どこにでもワープできたら何も面白くありません。そしてウインドサーフィンは日々たくさん練習して体を鍛えていなければうまく波や風には乗れません。そしてうまく乗れる人というのは意識しなくても絶妙な選択ができるようになっているのです。人生も全く同じです。
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「人間には自由意志がない」などと考えることは、ウインドサーフィンが自分の自由意志とは関係なく波や風など自然条件のなすがままだと考えるようなものです。そして努力してもうまくいかないから努力は無駄だと考えて成長を拒否し、荒波や暴風に怯えて不安になり、運命を呪って被害者意識に陥り、成長を諦めてエゴに埋没したりするのは、せっかく楽しむためにウインドサーフィンをやらせてもらえているのに、ただ怯えながら流されて溺れ死ぬのを待つようなもので、ものすごくもったいない&ダサい話であり、それは人生も全く同じだということです。
「最初から結末が決まっているのなら生きる意味なんてないじゃないか!」と不満に思う気持ち自体は、僕も当然元NPCなのですからよくわかるのですが、それではなぜみんな結末が最初からわかっているRPGを好んでやるのでしょうか?その過程が楽しいからではないでしょうか?
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僕らは「主人公である自分が努力してレベルアップして課題をクリアしていけば、いつかは世界のみんなが救われる」という結果がわかっている物語の結末をわざと忘れ、「このまま行けば世界は滅亡するのではないか」など本気で考えながら、自分を起点(因)として世界が救われるまでの経験を楽しませてもらっているのです。ドラゴンクエストなんてタイトルで出オチみたいなものですよね(笑)実は人生もそこは同じなのです。
世の中はまだ自分がプレイヤー(主人公)であることに目覚めていない人が殆どですが(僕の認識世界における他人は全員NPCですから当たり前といえば当たり前なのですが)、みんながプレイヤー(主人公・世界を救う菩薩・メシア)であることに目覚める(菩提心を起こす)連鎖を世界の隅々にまで行き渡らせることこそが、人生というRPGのプレイ要綱なのです。世界が主人公に救われるために悪に支配される一歩手前のディストピアからスタートするのは当たり前の話であり、それをもってクリエイターを恨んだり存在そのものまで否定したりというのはナンセンスなのです。このあたりの話は「生まれの格差について」「未来に絶望したくなる」をご参照下さい。
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と批判してくる人がいますが、それは
菩提心の何たるかが全くわかってないのです
ちなみにこの人生というRPGのタイトルは「Love Story(愛の物語)」であり、サブタイトルは「愛は地球を救う」なのです。ただその「愛」というのは創造主=存在の全て(ワンネス)に対する「普遍的な愛」のことであって、恋愛のことではありませんから誤解のありませんように。
恋愛のように「こういう人は愛せるけど、こういう人は愛せない」という条件付きの愛はエゴなのであり、それは普遍的な愛とは真逆にあるものなのです。ただし「欲(エゴ)とは何か?」に書いた通り、エゴそのものが悪いわけではありません。エゴは愛のマテリアルであり、エゴが人間にとってなくせないものであることを前提に、エゴを乗り越えて愛を発揮することが魂の成長につながるのです。自分のエゴより少しだけ他人のエゴを優先し、見返りを求めず満たしてあげる日々の中に魂の成長・覚りがあるのであり、そうすることで自分を愛せるようになって人からも愛されるようになります。
そうしているうちにみんながワンネス(自分=他者=創造主)であることに目覚め、エゴによって争ったり奪い合ったりする意味がなくなり、無償で助け合うことが当たり前になり、今の世界におけるエゴの暴走・悪魔化が止められ、お金の時代が終焉して、世界は必ず救われるのです。そしてそれがこのRPGの大枠のシナリオなのです。
世界を救うのに何か絶大な能力・権力・人気などが必要だと考えて、それが自分にはないから絶対無理だ、などと考えないで下さい。自分が主人公として日々愛を実践することで、その連鎖反応の「揺るがない起点」として有り続けられれば良いのです。能力・権力・人気などがある他人に期待したり批判したりすることで世界が救われるなどと決して考えないで下さい。主人公はあなたなのです。
<確率(偶然性・運)という演出の妙>
現代科学において世界は確率(偶然性)に支配されているかのように目されていて、この世界も生命も確率によって偶然生じたものだと考えられています。しかしそれも人間に与えられた無明(愚かさ)であり、何かの理由に神を持ち出すことを敗北だと考えているような科学者たちでさえも、さすがに「偶然(確率)ではありえない」ということに気づき始めてきています。
そもそも仮想現実がクリエイターの存在なしに勝手に創り上げられるわけがありませんし、勝手に創り上げられた後から勝手に法則(設計図)が生まれるなんていうこともありえないのです。
量子力学において意識が事象を結実させることがとっくの昔にわかっていてさえも、意識より先にこの物質宇宙が生まれたと考えるというのは無明(愚かさ)の極みなのです。この世界は創造主意識によって設計され、具現化され、運営されているのです。
確率(偶然性・運)というのはクリエイターが我々を楽しませるために用意した仕掛け(演出)であり、それはやはり人間の作るRPGと基本的には同じなのです。
RPGのゲームソフトは、プレイヤー(主人公)のあらゆる選択・可能性をすべて内包しています。それはゲーム内で起こり得るすべての事象が、データ(概念・情報)的に最初から存在しているとも言えます。
ただRPGはプレイヤー(主人公)は自分が選択したルート(世界線)の現実だけを見ることができ、選択しなかった他の無数のルート(世界線)の現実は見ることができないようになっています(ゲームにおいては途中でセーブして別な選択をして別な現実を見ることも可能ですけどもね)。そしてどれを選んだらどうなるかという結末もプレイヤー(主人公)には見えません。だからこそプレイヤー(主人公)の自由意志(選択)に意義が生じ、ゲームを楽しめるのです。プレイヤー(主人公)である自分がどんな選択をしてどんなルートを通ろうと、すべてはクリエイターの想定内であるにも関わらず。
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同じように、この我々の仮想現実において起きる可能性のある事象というのは、その源にある概念次元において、「すべて」データ(概念・情報)的に存在しているのです。しかしプレイヤー(主人公)である自分の意思による選択、また確率や運とは関係なく、全ての事象が既に存在していてその全てが必然というのでは、自由意志の存在意義はなくなってしまい、人生が魂成長の物語として成立しません。
だから創造主はこの物理世界をRPGの仕掛けと全く同じように創ったのです。つまりプレイヤー(主人公)である自分が選択したルート(世界線)の現実(事象)以外は見ることができないようにして、またその結末も見えないようにすることによって自由意志による選択に意義を持たせ、成長の物語を楽しませてくれているのです。プレイヤー(主人公)である自分がどんな選択をしてどんなルートを通ろうとすべてがクリエイターの想定内であるにも関わらず。
パラレルワールドについてもたまに質問を受けますが、プレイヤー(主人公)である自分が選択しなかった世界線の現実(パラレルワールド)は実在しています。しかしその実在というのはデータ(概念・情報)的なものであり、そのデータを読み出して経験をする魂が存在しなければ存在意義がなく、存在意義がないものは存在していないも同然なのです。完全に消失せずに残っているパラレルワールドというのは、本線にいるプレイヤー(主人公)に夢やデジャヴ(既視感)やインスピレーションなど、様々な形で影響を与えてきます。先ほどの例にあげたアトランティスやムーやレムリアなどの大陸文明もパラレルワールドとしてデータ(概念・情報)的に実在するのであり、その世界線にいる(ゲームをしている)思念体(意識)たちが我々の世界線にも様々な形で影響を及ぼすのです。それを言うと、神話や宗教上の世界もデータ(概念・情報)的に実在していて、その世界を経験している思念体(意識)たち(神仏・天使・悪魔など)も我々に様々な影響を及ぼすのですが。その点は我々とは別の宇宙にいる宇宙人たちも同じです。
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それを読んで具現化する魂(意識)がなければ無意味
この世が確率(偶然性・運)に支配されていると我々が考えてしまうのは、創造主が我々を楽しませるため・成長させるために用意した、この人生というRPGの設定の妙であり、幻の如きものなのです。実際は偶然というのは存在せず、全てが必然であり、僕らはその無数に用意されているその必然の中から、自分の意思によりたった一つだけを選択することで、自分だけのルート・シナリオ(人生)を選び取る楽しみが与えられているのです。
僕らに何かを選択する自由意志は与えられているのですが、僕らの意識も創造主の創造物であり創造主の一部なのですから、その自由意志が何を選択し、どんなルートを通り、どんな出来事が起きようと、全ては創造主の想定の中であり、必然であり、偶然は存在し得ないのです。それはどうしようもないことであり、それをもって「人間には自由がない」などと考えるのはナンセンスです。自由というのは因果(シナリオ)が存在し、それを選ぶのに制限(ルール)がないとカオスにしかならないのです。
逆にこの人生というゲームは因果(シナリオ)と制限(ルール)を創って運営するクリエイターの存在がなければ存在し得ず、もしそれがなければ僕らの意識は5億年ボタンを押したように(ゲームの電源を切ったTVの中のように)無間地獄状態になってしまうのです。その次元において我々の意識は純粋に自由ですが、その自由は意味を成しません。もしあなたがこの人生というRPGを少しも楽しめず・感謝できずに、自らそのゲーム機(肉体)を破壊しようとするようなら(自殺)、きっとそういう次元に送られることになってしまうでしょう。それは「自殺するとどうなるか」に書いた通りです。
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創造主自身は僕らが何を選択するかだけではなく、選択前に何を引き寄せてその後どうなるかまで最初から全部知っています。ラプラスの悪魔の正体は創造主ってことです。しかし僕らが創造主同様に全ての事象の必然性を予め知っていたらゲーム性がなくて何も面白くなく、魂も成長しようがないのです。だから創造主は僕らが必然性を理解できないよう敢えて無明(愚か)にした上で、手に塩をかけて全てを偶然だと思わせつつ、因果応報という大法則が支配する世界を運営し、僕らに自発的に(自分の意思によって)因果を更新(改善ないし改悪)させて、魂成長のゲームを楽しませているわけです。
スポーツなどのゲームでも、偶然性がゼロだとしたら、全然楽しくないでしょう。偶然性がなければゲーム性がありませんし、結果が最初から完全に見えていては何も面白いわけがありませんからね。だからこの我々の仮想現実世界も、確率(偶然性・運)に支配されているかのように見せられ(演出され)結末がわからないようにされているのです。
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そこに成長と面白さがある
この仮想現実における確率というのはパチスロの確率のようなもので、確定リーチがかかっている時はどうやっても大当たりが出ますが、そうでない時にはまず大当たりは出ません。同じように僕らの現実も、因果(カルマ)の見えない糸により、確率にはコントロールが掛かっているのです。
しかし我々がパチスロの台を分解して見ても、中には全ての図柄が等間隔で均等に描かれているルーレットがあるだけで、電源オフの状態で我々がそのルーレットを自分で回して自分で止めたとしても、確率通りの結果が出るだけでしょう。それと同じで、事象の確率には因果・カルマによってコントロールがかかっているということを我々が科学的に証明することはできないのです。自分が選んだルート以外の現実は見ることができませんからね。
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それでも事象というのは人間(プレイヤー・主人公)の意思によって影響を与えることができるのです。我々個々の意識というのは、創造主の分離意識であり、その創造主=統合意識による確率のコントロール(因果・カルマの更新)には個々の意識も関わっているからです。つまり、意志が結果に影響を与えているのです。それは二重スリット実験においてどちらのスリットを通るかを被験者に念じさせた実験において結果に有意差が出ることからもわかります。
例えばあなたが渋谷に行くために山手線に乗ったとして、実際に渋谷で降りる時には山手線の全ての駅で降りる確率1/30の波動関数が収束するのでしょうか?違いますね?渋谷で降りることを決定したのはあなたの自由意思であり、そんな確率など最初から存在していないとわかるでしょう。そしてあなたが渋谷に行こうという意思が生じるまでには様々な因果があり、あなたの自由意志による選択の積み重ねがあるという話です。
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ただもし世界が何でも100%個人の思い通りになったらカオスになってしまい、何も面白くありませんし、何かを自分の思い通りにするために努力・成長することもありませんし、神仏を信じて何かを願い祈ることもないでしょう(それでは神仏・宗教と信心・祈りに存在意義がなくなります)。
だから簡単には個人の思い通りにならないように、個人の意思が事象に与える影響は意図的に小さくさせられていて、魂的な成長努力に応じてご褒美のように「現実を思い通りにする意思の力」が上がるようにしてくれているのです。
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思い通りになるようにしていく=成長
そのように意思の力が強ければ、思っている通りの現実を引き寄せる力が強くなるわけなのですが(スピ系の人が大好きな「引き寄せの法則」ですね)この世は愛を経験的に学ばせ魂を成長させるためのものなので、その真逆にあるエゴ(我欲・保身・虚栄)のために自分にとってばかり都合の良い現実(自分の器に相応しくない幸運)を思い込みの強さだけで引き寄せようとすれば、仮にそれによって一時的に成功しても、借金のようにカルマを積み上げることになってしまい、後に利子付きで返済を求められることになるでしょう。きっと心に愛を失って人間関係がうまくいかなくなり、孤独で悲惨な死に方をすることでしょう。それは「引き寄せの法則の真実」に書いた通りであり、魂的に成長努力していないのにご褒美だけ得ようなんていう考えは甘いということです。
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この人生というRPGは、僕ら人間が作るRPGとは比較にならないほど自由度が高く、シナリオ(ルート)を自由に変更することができ、職業・役割・結婚相手など何もかもを自由に選択できます。それでも我々は創造主の一部なのですから、我々がその全知全能である創造主が想定もしていない選択をするというのは不可能であり、我々が何を選択しようとそれは全て創造主の想定の範囲内であって(だから安心なのです)、それは「選ばされている」ようなものなのですが、ゲームが楽しめさえすればそんなことは重要ではないはずです。選択(自由意志)は幻のような存在で、どのカードを選んでもマジシャンの意図した通りという手品の如きものですが、まず我々は無償で楽しませようとしてくれているマジシャン(創造主)に感謝しなければいけません。
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もし良いカードを引きたいなら(幸せになりたいなら)、一生懸命良さげなカードを選ぶよりも、マジシャン(創造主)の愛に適った人間になることです。人生という経験機会が与えられていることに心から感謝し、心から人生を楽しみ、出会うみんな(創造主の分身同士)と助け合い愛し合うことです。結果(見返り)を期待せず、自分が(愛を動機に)やることをただ愛することです。それが存在の全てである創造主から愛される考え方・行動なのであり、それを貫ける人というのは途中でどれだけ苦難と紆余曲折があっても必ず幸せになれるのです。
この「ほとんどすべてが主人公次第」という自由度の高い素敵な世界を与えられていながら、与えらえれたものに感謝せず、他人と比較して自分に与えられていないものを嘆き、自分が努力してもうまくいかなかったのを運命のせいにして被害者意識に陥り、「努力しても無駄だ」と怠惰になり、開き直ってエゴに埋没して愛のない退廃的な生き方をし、魂の成長と逆行して不幸な人生を送って人生をクソゲー扱いし、いよいよ苦しくなったら自殺して逃げようとするのは、愛によって全てを与えてくれている創造主に恩を仇で返すことであり、ナンセンス極まりなく、不幸な人生を自ら無自覚に選択しているようなものなのです。
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ただそのような愚かさも人間に初期設定されている無明であり、我々はそれを課題として乗り越えて、心から感謝できるように自発的に成長していかなければならないのです。
<行動の選択より解釈の選択>
前述したように、人間には自由意志が与えられていて、人生はとても自由度が高く、ほとんど全てが主人公である「自分の選択次第」に創られています。しかし実際その自分の「選択次第」というのは、「行動の選択」ではなく「解釈の選択」なのです。
「未来」というのは我々の統合意識によって読み込まれて現象化し、「現在」として我々の前に訪れるわけですが、それは選択肢が訪れた時点で「その選択肢が存在する世界」と「その選択をする自分」自体を、人は既に自分の解釈(考え方・世界観・哲学)によって創り出しているということです。つまり選択肢が目の前に現れた時点ではもう「自分が何を選択するか」も「どういう結果になるか」も既に決まっているということです。それはつまり選択肢が訪れた時点で迷ったところで、ほとんど結果に違いは生れない(因果を更新できない=そこに選択の自由はない)ということです。それが最初に「受動意識仮説」は「半分は正しい」と言った理由です。
「普段からどういう解釈(考え方・世界観・哲学)で生きているかで、どんな選択肢が自分の前に現れるかも、そこで自分が何を選択するかも、その結果どうなるかも決まっている」というのはとても大切なことなので決して忘れないで下さい。しかもその解釈(考え方・世界観・哲学)というのは表層意識のレベルの話ではなく、日々実践と実感を伴って深層意識まで浸透しているような解釈(考え方・世界観・哲学)です。そこには言い訳・嘘・隠し事・ごまかしなどは一切利かないのです。
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これは眠っている時に見る夢を考えればわかることで、自分の深層意識によって夢のストーリーが作られ、夢の中で自分の表層意識が何かを選択する前に、何を選択するかを自分の深層意識が既に知っていて、その上でストーリーが組み立てているのあり、表層意識による行動の選択は幻なのです。それは今我々がいる仮想現実においても同じだということです。
ただ恐ろしい点は、夢の中で警察に追いかけられてから、自分が犯罪を犯した記憶が後から作られ、自分でそれに気づけないことです。恐らくそのシステムによって現実でも睡眠不足状態でひどい尋問を受けたりすると罪を認めて自供したりするのだと思います。冤罪でも容疑をかけられる人というのはそれなりのカルマがあるのであり、そのようなことにならないよう普段から良い解釈(考え方・世界観・哲学)を持ち、それを日々実践する事で自分自身に深く浸み込ませるように生きることが大事なのだなと思わされます。
解釈(考え方・世界観・哲学)が良くない人は、それを改善しない限り、どう(行動的に)努力しても不幸にしかならならないのです。そうして自己効力感を失くし、「どうせ努力しても無駄だ」とやさぐれ、自分も他人も人生も世界も嫌悪し、誰かを嫉妬したり批判して見下したりして何とか自尊心を保とうとし、自分の不幸を誰かや運命のせいにして呪って被害者意識に陥り、自堕落・自暴自棄な生き方をして、ますます不幸になって不幸な死に方をし、他人まで不幸にする霊障と化すのがパターンなのです。
これも余談ですが、解釈(考え方・世界観・哲学)が良くない人=覚りが進んでいない人が、強い幻覚剤を使って意識を拡張させてそれの解釈が顕在化(現実化)するのはとても危険です。だから僕は遊び目的で幻覚剤を使うのを止めたいのですが、止めたところでやりたい人はやりますから、今のところそういう人たちにも覚りを進めてもらえるように記事を書く以外、僕にできることはありません。
逆に解釈(考え方・世界観・哲学)が良い人(感謝・信心・慈愛に満ちた霊性の高い人)は、意識しなくてもどんどん良い行動をしてどんどん天に愛されます。自分で良い世界を創っているのですから、常に目の前に良い選択肢が訪れて、何を選んでも良い結果になりますし、特に考えて選ばなくても無意識に一番良い選択をしてしまうのです。そういう人は例えネガティブな事象が起きてもそれを試練と考えて感謝して受け取って乗り越えてどんどん成長していきます。そうしてどんどん幸せになっていくのです。
だから良い解釈(考え方・世界観・哲学)の選択が何よりも大切なのです。現時点での他人と比較した霊性の高さは関係ありません。現時点から霊的成長を目指して実践していくことでどんどん幸せになっていくのです。
いつも世間の常識通りにものを考えて、主人公として目覚める気など一切ない人は、実際は設定通りに動かされているだけのNPC(AI・脇役の町民A)に過ぎません。そういう人は単に自分が何かを選択しているという気分だけ味合わせてもらってるだけで、自由意志などないも同然なのです。だからあなたはその常識を打ち破って主人公に目覚めなければならないのです。主人公に目覚めた他人を「中二病」だとバカにして目覚めを妨げようとするエージェント・スミスみたいなNPCには決してなってはいけません。
人それぞれ人生で後悔していること色々はあると思いますが、その行動の選択を悔んでも意味がありません。そのネガティブな事象をもたらしたのは自分の解釈(考え方・世界観・哲学)であり、そっちの方を行動よりも先に改め成長するべきなのです。もし未来で何か良い行動の選択をしようと思っても、現在の解釈(考え方・世界観・哲学)が良くないまま変わっていないなら、きっとまた良くない出来事を引き寄せることでしょう。
そしてそれを誰かのせいにして相手を責め、またそれでも傷つきたくないために意地になって「自分は正しい」と自己正当化し、解釈(考え方・世界観・哲学)を改善しないまま、自己嫌悪に陥って逃げることばかり考えているようでは、成長しようがなく不幸に導かれるのは当然なのです。
しかしそれも試練だと感謝して受け取り、自発的に解釈(考え方・世界観・哲学)を改善していけば、過ちや失敗を含めて過去の全てを「自分にとって必要な過程だった」と愛せるようになり、きっと幸せに導かれることでしょう。
「自殺するとどうなるか?」に書きましたが、夢が叶わなかった時の退路を考えている人の夢はきっと叶いません。時間×労力というリソースを退路の確保のために使い、夢が叶わなかった時のことを常に想定してイメージしながら自分の人生・世界を作り出しているわけですからね。人生は愛と勇気を試すためのものであり、退路を確保するために迷走している臆病者が、退路を断って己の夢に全てをかけている勇者に敵うわけがないのです。同様に「いざとなったら死ねばいい」などと自殺や安楽死を退路として考えている臆病者は、その退路を断たない限りそういう悲惨な結末に追いやられる人生になってしまうことでしょう。
そのように現時点で解釈(考え方・世界観・哲学)が悪くて不幸に陥っている人も、決して落ち込まないで下さいね。「反省してはいけない」に書いたように、自己イメージと行動のレベルは正比例します。「わかっていても悪い行動がやめられない」という人は多いですが、それは自尊心の低さにより行動レベルが下がり自尊心が下がるの悪循環を繰り返しているのです。我々は成長を楽しむためにわざと愚かに生まれてきているのですから、愚かさを理由に自分を嫌悪してはいけません。ただただ昨日よりも成長し続ければいいだけです。
そして僕が「悪いカルマの解消法」などに再三書いているように、常に創造主からの愛によって自分にとってベストなものが与えられているのだと信じて愛で解釈し、存在一つ一つの価値に気づいて感謝することが大事です。自分のカルマ(課題)を他人と比べて人生を呪えば確実に自分の人生を不幸にします。より難しい課題は、より魂のレベルの高い者に与えられるのです。
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人や出来事との出会いというのは、常に自分の魂の成長物語にとってベストなものが与えられているのであり、感謝しながら全力で愛しましょう。「もしああしていればもっと良い人生だったのでは?」と後悔の念に捉われることは自分の人生を台無しにします。そして「自分にはもっと他に良い人がいるのでは?」などと考えることは目の前の人を全力で愛さないことに繋がり、当然それは自分も全力で愛されないことに繋がり、不幸が必然の考え方なのです。
<自由意志の存在意義>
あなたがプログラマーだったとして、自分を愛するAIをプログラムして愛されて嬉しいでしょうか?それを考えれば、自由意志の存在意義はおおよそ想像できるかと思います。選択というのは自由意志に依らなければ(自発的でなければ)価値がないものであり、しかも様々な不正解があって、往々にしてそちらの方に流されるように世界を創り、その中で魂たちが自由意志によって失敗を繰り返し試行錯誤する中で賢明に正解を選び取らせるようにしなければ、魂の成長にはなりませんし、人生がRPG・物語にはならないのです。初見ですべて正解してクリアできるようでは何も面白くありませんし、クリエイター側がプレイヤーにズバリ正解を教えたり正解を強制したりしてはプレイにならず、自由意志に存在意義はなくなるのです。
すべての選択は自由意志による「自発的」なものでなければ意味がないということであり、その「自発性」が最も大切なものなのです。
<感情と自由意志>
「感情」もまた愛・経験(自由意志による選択)を価値ならしめるために人間に与えられたものであり、それ自体がとても尊いものなのです。感情を伴わずに愛は経験できませんし、感情を伴わない経験に価値はありません。
全ての存在は存在意義(価値=愛)を経験的に知るためにあるのですから、当然ポジティブとネガティブの陰陽二元的に作られています。一元の点では価値判断ができませんからね。しかし実際にその価値判断をする感情というのは善悪のような二元的な(論理な)価値判断では割り切れないように、つまり自由意志によって簡単には制御できないように、三元的な広がりを持って創られているのです。何かを二元的に判断するだけでは感情には存在意義がないからです。また、感情を意思で簡単に制御できたら人生という物語は面白くならないからです。そして簡単には制御できない感情をウインドサーフィンのように制御して人生を進めるように精進して行くところに魂的な成長があるのです。
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人生の楽しみというのは、何事も自分でやってみて、失敗も経験して試行錯誤し、心から納得しながら前に進むことです。その成長過程が楽しいのであり、一見で全部正解してクリアしてしまうようなゲームでは何も面白くありませんから、当然人間は愚か(無明)で失敗するように創られています。
そしてゲームというのはみんながそれぞれ主人公として競い合ったり協力し合ったりしてプレイするのが楽しいのであり、誰も自分がプレイしている横から頼んでもいないのに他人にああだこうだと答えを教えられたり、コントローラーを奪われたりはしたくないのです(他人の言うことや常識に捉われ依存することは自分のコントローラーを放棄するようなものです)。
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楽しみましょう
人生はあくまで自分という主人公が経験を積んで成長を楽しむために創られているのですから、他人から答えを教えられたり、何かを強制されたりしたら、経験主体者として自由意志を与えられた意味がなくなってしまいますので、心が反発するようにプログラムされているのは当然のことです。
だから本当のことほど他人から言われると心は傷つき反発するように創られています。正しいことを言えば言うほど相手に嫌われて、人は嫌いな人の言うことには逆らいたくなりますから、言うことが正しければ正しいほど相手を間違った方向に導いてしまうことになります。だから己の歪んだプライドを満たしたいだけの愛のない独善的な正論吐きというのは愚行なのです。
■メシア三原則
①指摘せず気づかせる
傷つけない
②教えず覚らせる
自分の実践を通じて相手に覚らせる
例え話でヒントを出して答えを相手に言わせる
③自らの学びとする
相手の愚かさは創造主から主人公である自分へのメッセージ
相手のカルマ(課題)は自分のカルマ(課題)の鏡
大事なことは、間違っていると思う相手に自分の答えを教えることではなく、相手が自ら過ちに気づいてそれを認めて改め、その人に与えられたカルマ・苦難を自分で乗り越えていけるように勇気を与えることです。
そのためには
①自分が実践している背中を相手に見せること
②人を嫌わず心からの笑顔で接し、慈愛を持ち、
相手の存在への肯定を態度で示すこと
③相手の話を否定せずに肯定的に聞くこと
です。
相手の言うことを正しいと認めてこちらが従うの必要はありませんので、どちらが正しいかを争う必要はありません。ただ相手の負の感情にも同情してそっと寄りそうことです。人の悩みなどというのは抽象化すればみんな同じなのですから、心から同情できないわけがないのです。「自分だったら絶対そうしない」などというのは想像力の不足であり、僕らは一つの魂なのですから、完全に同じ条件で生まれて育ったら、絶対に同じ考え方になるのです。悪い考え方になるには、そうなるだけのその人の事情(心の傷・歴史)があるのであり、まずそこに同情して相手が己のカルマ(課題)に立ち向かう勇気を与えてあげることです。
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するものではありません
インド神話に面白い話があります。『宇宙の創造主であるブラフマーがサラスバティを創ると、そのあまりの美しさに自分の妻にしようとしました。ところがサラスバティは父親と結婚などしたくないので逃げ回りました。しかしブラフマーは顔を増やしていつでもサラスバティを見れるようにして、地の果てまで追いかけました。サラスバティは観念してブラフマーの妻となりました』・・・宇宙の主なら、最初からサラスバティが自分を愛するように創ることは簡単にできたでしょう。でもそれでは意味がないのです。
「感情」は自由意志を価値ならしめるためにあるのですから、他者から強要・強制されそうになると反発するように創られているのです。だから例えば「私を愛しなさい」「私を尊敬しなさい」「私に感謝しなさい」などと言われたら逆の感情が湧くでしょう。しかし人間というのは愚かに創られていますから、みんなそれを遠回しにやっているのです。人は好きな相手には「愛しているから」と色々相手のためを思って尽くしますが、それによってまるでお返しに愛される権利でもあるかのように当たり前に相手に愛情を強要しているものです。自慢話をして相手に尊敬を強要したりしますし、他人のための親切・努力に感謝されないとキレたりして、実質的に感謝を強要しているものです。それが人間の無明(愚かさ)なのです。そのように感情というのは強要して相手の自由を制限しようとすると必ず反発されて逆の結果になるようにできているのに、ついつい相手に感情を強要してしまっているものなのです。
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創造主は完全無欠で全ての必要性を自分で満たすことができるので、何も必要とせずただ与えるだけの偉大なる贈与者なのであり、彼は僕らに何も求めずに受け取るのも拒否するのも感謝するもしないも自由にしながら、ありったけの愛を与えてくれているのです。本当の愛というのはそのように相手を最も自由にするものであり、僕らもその創造主の「愛し方」を見習い、一切の見返りを求めず(結果を期待せず)、相手を完全に自由にした上で、自分が他者のために何かできるということ自体を純粋に愛するべきなのです。そしてそれこそが創造主の愛に適った愛し方なのです。
<自由意志と主人公意識(菩提心)>
過去も未来も現在の自分の自由意思次第なのですから、自分の認識世界におけるすべてを「自分の責任」として受け入れる覚悟が「主人公意識」なのであり、「自分の認識世界の全ての人を救う主人公として目覚めよう」「悟りを完成させよう」という不退転の決意こそが「菩提心」なのです。それは自分以外の存在はみんなNPCであると認め、NPCによって起こされる事象のすべてが設定・シナリオ通りであり、それが主人公(あなた)個人に対するクリエイターからのメッセージだと信じて愛で解釈し、どんな困難も試練として乗り越えて行く覚悟なのです。だから彼ら(NPC)に罪はないと許しながら、相手を変えようとせず、ひたすら自己成長=みんなの魂の救済を目指すべきなのです。それが本当の意味で「自由意志」というかけがえのない贈り物を受け取るということなのです。「被害者意識」というのはそれと逆行するものであり、この人生というRPG世界はあらゆる手段でそこに陥れるように罠が貼られています。その「被害者意識」の罠によって「主人公意識(真の自由意志)」に目覚めるということが価値ならしめられ、尊いものになっているのです。
<信心と感謝>
僕らはみんな創造主の一部であり、創造主は僕らの統合意思のようなものなのです。あなたが創造主なら、与えたものの価値に気づいて感謝しない人間に、もっと良いものを与えようとは思わないでしょう。もっと良いものを与えても価値に気づかず感謝しないだろうことは確実ですからね。
そうして他人と自分を比較してばかりで誰かを羨んで自分や他人を蔑み、与えられたものに不平不満ばかり言って我が身を呪うようでは、既に与えられたものまではぎ取られ続け、失うことで与えられていたものの価値に気づかされるような悲しい人生になって、どんどん不幸に追い込まれることでしょう。「他人(NPC)と比較して」良いものが与えられなければ感謝できないという人の感謝に価値はないのです。
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感謝で返さなければ不幸になるのが必然
RPGで他のログインプレイヤーのゲームの進捗や、どれだけ富や名声を集めているかなどを自分と比較しても意味がありません。自分がプレイヤー(主人公)として自分のゲーム(成長)が楽しめればそれで良いのです。ゲームの設定は他のログインプレイヤーたちと共通でも、自分には自分だけの尊いオリジナルのシナリオが与えられているのですから、人生という経験機会を与えられていること自体に感謝しながら、自分の課題を乗り越え続け、成長を楽しむことだけを考えて下さい。自分と他人を比較するのを一切やめて下さい。不平不満の元ですから。他人は主人公のあなたにとって全員NPCなのですから。
創造主意識というのは全知全能であり、あなたの全てを見て完璧に情状酌量してくれているのであり、過去や現状を他人と比較することに意味はなく、そこからどれだけ成長したかだけを見てくれているのです。
「被害者意識」は人を不幸に導く最悪の思考です。あなたがクリエイターなら、めちゃくちゃ大変な思いをして作ったRPGを無償でプレゼントしているのに、少しもその価値がわからず上達しようともしないでクソゲーだと文句を言われて捨てられたらどう思いますか?
特に鬱の人などは「自分ならいくらイジメても構わない」という思考をしていますが、あなたは創造主の分身なのですから、創造主からすればあなたが自分をイジメるのも他人をイジメるのも同じことであり、それは創造主の愛に対する裏切りであって、悪業となって返ってくるのは当然なのです。自分を許し、尊敬し、自分という存在を与えられていることに感謝し、愛することが創造主の愛に適うのです。そしてそれを他人に対しても同じようにすることです。個性(欠点や過ちを含む)を理由に愛せないというなら、自分も誰も永久に愛せません。
もし人生が映画なら、監督から主役に抜擢されていることにも気づかず、与えられた役柄やシナリオに文句ばかり言って真剣に役を果たそうとせず、いよいよ気に入らなくなったら降板(自殺)してやろうと考えながらテキトーに演じている役者に、監督がより良い役やシナリオを与えてくれるわけがありません。「男はつらいよ」の寅さんと同じで、どれだけしがない庶民役に見えようと主役はあなたなのであり、常にカメラはオンになっている(心の中まで全部見られている)ということを忘れないで下さい。
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そういう理由で主役を放棄しないこと
自意識がある=主人公
我々は事故や病気などあらゆる死の可能性を集めればとっくに死んでいますし、そもそも生まれてもいません。他人と比べて我が身の不幸を嘆いたり、将来の苦痛や不幸に過度の不安や恐れを抱くのは「生かされている」っていうことへの信頼と感謝の欠如であり、不幸に導かれるのは当然のことです。
信心も感謝もないような人間が、エゴ(我欲・保身・虚栄=我利)を動機として「自力」で何かを選択することで幸せになろうとするのは、創造主からすれば傲慢でしかなく、人生が思い通りにならない事に対する不平不満と恨みでいっぱいになる人生が与えられることでしょう。本当は「自力」など存在せず、全ての存在=創造主が自分を通じて発してくれている力なのだと知って感謝し、その力をみんなのために無償で使いましょう。そうすればきっとみんなと一緒に幸せになりますから。
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不幸になるのです
創造主は何も欠けたものがない(必要性がない)存在なので、彼のために我々ができることは感謝することだけです。そしてその感謝の心を形にするなれば、彼の分身である神々について学び・信じ・讃え・奉仕し、同じく彼の分身である「欠けたものがある」人間を無条件で愛し(許し・尊敬し・感謝し)無償で奉仕し、助け、必要とされることです。そして同じく彼の分身である自分自身を愛し(許し・尊敬し・感謝し)、より愛せるように生きていくことです。それが信心というものの本質なのです。
<最後に>
「自由意志」がどれほど途方もない愛と智慧と努力の元に成立させられ、それがあなたに与えられているのか(他の人にもそれが与えられているかどうかは永遠に確認できません)、少しはイメージできたでしょうか?「人間に自由意志はない」などと考えることがいかに恩知らずでナンセンスなことかわかっていただけたでしょうか?
意識について深く知ると、今の人類の科学力で意識をコピーするとか移植するなどというのは正直僕には狂気の沙汰に思えてしまいます。夢を持って努力すること自体は良いことですし、その人だけの覚りの道というのがあるのだと思いますが、現代科学ではまだ意識が何かさえ皆目わかっていないわけで、意識を脳の電気信号か何か物質的なもののように思ってるうちは絶対に無理だろうということだけは僕にはわかります。自分に意識が与えられているということのありがたみや偉大さを全く理解していないから、そのようなことが可能であると考えてしまうのでしょう。
僕らが当たり前だと思っているものは、何一つとして当たり前ではなく、全てが創造主の100%の愛によって与えられているものなのです。創造主がここまで途方もない仕組みを創ってまで、邪な目的で自分自身の分身である我々に対して嫌な経験をさせるということは有り得ないのです。それが有り得ると思ってしまうところが人間に与えらた無明(愚かさ)なのです。
あなたの人生は、創造主があなたを通じてそれを経験したいと思ったから存在しているのであり、成長を諦めず途中で投げ出しさえしなければハッピーエンドは約束されているのです。人が不安になったり怒ったりしてしまうのは、愛と勇気を試して成長させるために必要だから与えられている課題なのであり、乗り越えて行かなければならないのです。それを乗り越え続ける覚悟さえ持てばあとは何も心配する必要はなく、人生を経験できることに感謝しながらただ成長を楽しませて貰えば良いのです。あなたが価値を低く見積もっているだけで、あなたの人生にはとてつもない価値があるのであり、創造主があなたと一緒に人生を経験するためにこの宇宙は創られ運営されているのです。
我々から見ると人間も世界も著しく不完全なものに思えて、それが完全無欠の存在が創ったものだとは信じられないものですが、我々のイメージする完全性というのは単純な計算式のようで何も面白くなく、実際元々の創造主はそのような単純な完全性がつまらなかったからこそ、人間もこの世界も創造し更新し続けているのです。完全性というものを面白さ(ゲーム性・成長性・物語性・芸術性など)という観点から考えてみて下さい。創造主は全ての叡智と経験を駆使して、現時点(我々の時間軸とは違います)で最も面白い最新版のゲームを一人子(分け御霊)である我々に100%の愛で与えてくれているのです。全知全能の存在がより完全を追い求めた結果が我々人間であり我々のいる世界なのです。我々は不完全だからこそ何かを経験して成長することができ、お互いに何かが欠けていて不完全だからこそお互いを必要とし、お互いに助け合うことで愛が生じるのであり、諸々見て行くと全体として見れば完全であることがわかります。
僕らの表層意識はポジティブな経験だけをしたいと思っていますが、創造主に近い深層意識はそうではなく、全ての価値を経験的に知りたいのです。ポジティブなものの価値はネガティブな経験がないと実感できないのです。苦しみを乗り越えていない幸せなどありませんし、不幸を経験しなければ幸福の価値がわからず、愚かさを経験しなければ賢さの価値がわからず、失敗を経験しなければ成功の価値がわからず、敗北を経験しなければ勝利の価値がわからず、孤独を経験しなければ孤独ではないということの価値はわからず、失恋を経験しなければ恋の価値がわからず、無信心を経験しなければ信心の価値はわからず、老いを経験しなければ若さの価値がわからず、死を経験しなければ生の価値はわからず・・・と挙げればキリがありません。
何事も自発的に気づいて自発的に改善しなければ魂の成長には繋がらないので、創造主は直接的には答えを教えず、何も強制せず、ヒントをこれでもかというぐらいに与えて、経験から気づかせ学ばせているのです。だから覚りというのは気づきであり目覚めであり自発的な魂成長のことなのです。
創造主は僕らに何か大切なことに気づかせたくて事象(経験)を与えているのであって、偶然は存在しないのですから、起きた事象から創造主のメッセージをポジティブに解釈して気づく(覚る)ことが大事です。その経験がどれだけネガティブなものであっても、それは100%の愛で与えられているのですから。
僕がここまで説明しても、恐らくあなたは自身のネガティブな経験や世の中の悪や理不尽に思えることの存在ゆえに、あるいはまだ己のエゴや世の中の物質主義的価値観に捉われているがゆえに、あるいはまだ「偶然が存在する」というところに逃げたいがために、この記事を僕が創造主から教えられた真理ではなく、不完全な人間の一人である僕個人の世界観の説明(無数にある意見の中の一つ)として片づけ、世界が全知全能である創造主の100%の愛によって創られたということをまだ理解して受け入れられないかも知れません。
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無明(愚かさ)の最たるもの
でもどうか創造主の存在を否定したり恨んだりしないで、彼の存在と意図を賢明に理解し、その無限の愛を信じて受け入れ、そして感謝報恩に生きて下さい。人間が創造主の愛を受け入れきれないのは、人間に課題として与えられた無明(愚かさ)でゆえあり、それは成長課題であって、それを乗り越えて感謝報恩できるようになり、彼の愛を余すことなく受け取れるように成長して行く以外にないのです。そしてどうかカルマ(課題)の苦しみを乗り越え続け、幸せな人生を歩んで下さい。心からそう祈っています。
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心からの笑顔が他人も幸せにする
このトピックに関して伝えたいことは尽きないのですが、あまりに長くなり過ぎると誰にも読んでいただけなくなるので、一旦このあたりにしておきます。次の記事をお楽しみに。
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