問題は解決しなくていい
漫画スラムダンクの影響でバスケがとても流行っていた頃、僕はレンタルビデオ屋でハードプレイ(White Men Can't Jump)という映画を見つけ、そのあらすじを見て思いっきりバスケがメインの作品だと期待して見てみました。ところが全然違いました。
主人公にはとても聡明な彼女がいました。ある朝、ベッドで彼女が彼に「喉が渇いた」と言いました。彼は当然のようにコップに水を汲んできて彼女に渡そうとしました。ところが彼女はそのコップを力いっぱい払いのけました。コップは砕け散って床は水浸しになりました。彼女は言いました。「私は喉が渇いたと言っただけで、水を持ってきてとは頼んでいないわ!」彼氏はしばらく唖然とした後、「じゃあどうすれば良かったんだよ?」と聞きました。すると彼女は「『Oh Baby わかるよ。喉が渇くのってすごくつらいよね』って同情して抱きしめて欲しかったわ」と言いました。(古い記憶なので正確さは欠けると思います)
当時田舎の男子校の学生で全く女性経験がないバリバリのチェリーボーイだった僕は「何てデタラメな彼女なんだろう?彼氏がかわいそうだ。こんな女性が聡明だなんて、この映画はリアリティがない」などと思いました。ところが大学に入って彼女ができると、女性っていうのは思いっきりそういう生き物なのだと知ってリアルに衝撃を受けました。そして「話を聞かない男、地図が読めない女」という本に出会い、男性は問題解決型の脳で、女性は共感型の脳なのだと言うことを知りました。
当時の彼女のオチのない面白くもない話に、ついつい解決策を提示したくなるのをぐっとこらえて相槌を打ち続ける僕。僕が話をしても、自分が話したい話題のキーワードが出てくるや否や会話をジャックするような感じで、僕の話の内容なんて全然聞いてない彼女。そういう何気ない当時の日常が年齢を重ねるとひどく懐かしく愛おしく思い出されたりします。
しかし今の社会は思いっきり男性脳型・問題解決型です。問題解決能力の高い人がお金を稼ぎ、権力を得て、豊かになり、社会的地位と名声と老後の安心を得ます。女性も否応なくその社会に進出して生きていかなければならず、せっかくの共感脳が「排除されないように自分を偽ってまで社会に迎合し、他人にもそれを強制して異なる考えを排除する」という自分も他人も息苦しくする方向に働いてしまって、みんなが悪しき世間体そのものになっている感じがします。
現代人は悲しみも解決しなければいけない「問題」として捉えます。鬱の本質の一つもここにあります。悲しみを感じれなければ喜びも感じることはできません。だから悲しみはただ感じて、似た経験を持つ人たちと共感・同情し合い、愛し合えばいいんです。悲しみはそのためのマテリアル(材料)なんですから。なのにみんな自分は鬱病だなどと思って医者に行って薬をもらって悲しみを排除しようとします。そうして薬で脳を壊しながら死ぬまでお金と時間を奪われ続け、余計に問題を悪化させてばかりいます。
そして幸せをステータスか何かと勘違いしてSNSなどで必死に幸せをアピールし(幸せは自分が感じるものであって他人から幸せそうだと思われることに価値はありません)、深い悲しみで鬱になって自分が不幸だと感じると他人から見下されたり社会から排除されたりすることを恐れてこっそり医者に通って自分だけ良くなろうとするのです。そして自分から鬱だと言って仕事を休んだりする人を見ると「私はこんなに苦しいのを我慢しているのに」と不満に思って「甘えだ」と糾弾します。そんな考え方で鬱が良くなるわけがないのです。鬱が寛解したからこそ断言できますが、鬱は甘えではありません。他人の鬱を甘えだと糾弾することの方が甘えです。鬱は社会病理であり、社会が病んでいるから個人も病んでいるのです。だから社会を治療することから逃げてはならないのです。
人生から悲しみがなくなることなどありません。死・別れ・老化・病気・事故・不和・・・深い悲しみで鬱になって心の針が下げ止まりになると、人は上げ止まりという不可能なことを目指して悲しみの感情さえも問題として排除してしまおうとします。すると問題の原因を探って自分や他人を責めなければいけなくなります。そして問題が解決するまでいつまでも悲しみが去らなくなります。例え一つの問題が解決しようとも、すぐ次の問題がやってくるだけです。結果、いつまでも鬱に苦しむことになります。
鬱を解決するには自分と他人を責めるのを同時に止めることです。そのためなら常識・現実など一切無視してでも徹底して都合良く考えればいいのです。何度も同じことを書いているかも知れませんが、それだけ大事なことだからです。そして人生は芸術ですからリアルの人生の悲劇も映画のように愛すればいいのです。悲しみは悲しみとして解決しようとせず誰も責めずただ悲しみを感じて共感して愛し合えば良いのです。それが人生の価値です。そうすることで心の針を指揮者のタクトのように軽やかに触れるようになります。人生をオーケストラのような芸術として楽しめるようになります。「幸せ」や「覚り」を悲しみを感じなくなることのように勘違いしないで下さいね。
僕らはいつも問題を解決しようとして、直接知りもしない他人を頼り、そのためにお金を奪われ、支配されます。それが当たり前になっていて意識もしません。国家も医療も企業もヤクザもやり方は一緒です。問題を焚き付け、不安を煽って脅し、自分たちが解決できるかのように見せかけて、その権力に頼らない人間を排除し、財を吸い上げて支配力を高めるのです。
問題は愛すべきもの、愛し合うためのものです。必ずしも解決すべきものではありません。解決・正解に価値があるわけではないのです。完璧な存在は愛を必要としません。問題(欠点や失敗=不完全性)があるから愛が存在できるのです。問題を愛で補うことで存在を完璧たらしめるのです。それが陰陽の意味の一つでもあります。だから問題には価値があるのです。冒険をするため(課題を楽しむため)に生まれてきたのに、どこでもドア(直接知らない他人による解決策)を求めるのはバカげています。
この問題を解決することでお金を稼ぎ続けなければ生きられないという問題解決型の社会において、問題を解決できない・お金を稼げない人間はまるで価値がないかのように扱われます。そうやって心までがお金によって社会に支配されるようになります。社会に隷従して自分から変えようなんて考えようともしません。自分の人生は自分が主役なのに、あっさりとそれを手放し、主体性・感受性という自分の最大価値までが奪われるのです。
ここ20年のIT革新(他人による問題解決の積み重ね)で仕事の効率が仮に10倍に上がったとしましょう。社会はとても便利になりましたが、仕事の量や時間が10分の1に減ったでしょうか?収入が10倍に増えましたか?10倍幸福になりましたか?かえって悪化しているでしょう。便利さで貧しさが誤魔化され、奴隷化・支配体制がどんどん強化されていることに気づいて下さい。この辺りは長くなるのでまた別な機会に述べます。
僕らメシアのお仕事は、この社会を価値観から変えてしまうことです。問題解決型・適者生存(不適合者排除)の社会から共感型・共存共栄型の社会に変えることです。男性脳型社会から女性脳型社会に変えることです。
ただいきなりシステムから変えようと思ってもダメです。逆に価値観が変わればすべてが自ずから変わります。社会を作っているのは僕らの価値観なのですから当然です。生まれた時からあるものを常識として受け入れて変えられないと思っているから変えられないだけです。上の比較表をよく見て下さい。僕らがどちらの未来を選択すべきかは明白でしょう。
我々はできそうなことをやるために生まれてきたのではありません。やりたいことをやるために生まれてきたのです。世界が変わるところを見たくありませんか?
ってなわけで、世界を救いましょうぜ!
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