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反省してはいけない

※2023年4月13日更新

今回の記事も鬱解決・魂の救済・救世のためにとても大事な話をします。もちろん信じるか信じないかはあなた次第ですが、僕が書いていることは本当に創造主からのメッセージなのです。どうか信じて欲しいと願います。僕が創造主のメッセージをあなたに届けたいのは何かの自己利益のためではなく、もしあなたが苦しんでいるのなら僕はどうしても救いたいからです。あなたがなりたい自分になれるように・生まれてきて良かったと心から思えるように、あなたの魂を苦しめるすべての抑圧から開放したいのです。あなたは僕自身であり、僕はあなた自身だからです。きっと心が反発すると思いますが、愛ゆえですので、どうか「偉そうに」と責めないで下さいね。創造主の愛とそれをあなたに届けたいという僕の愛があなたに伝わることを願って止みません。

前記事「問題は解決しなくていい」において、鬱抜けのカギは自分と相手(縁あって出会った人)を責めるのを同時に止めることだと書きました。それはつまり反省しない、人に反省を求めないということです。特に鬱の人は反省厳禁です。鬱の本質の一つは自分と他人を責めることだからです。過去記事「罪と恥の存在意義」で書いた通り、人生は人を許し愛することで自分を許し愛せるようになる仕組みになっているのです。

「反省しない」なんて言うと、きっとどんな悪いことをしても「自分は悪くない」と開き直っているような、とんでもなく無責任で悪い人・成長しない人をイメージされることでしょう。あなたがそんな人に会ったらますます責めたくなるに違いありません。しかしそうではないのです。

人は反省することで自分を責め、そのために自尊心が下がり、それによって思考・行動もネガティブになり、ますます自尊心が下がるという悪循環を繰り返してしまいがちな生き物なのです。それが死ぬまで続くと本当に人生を台無しにしてしまうことになります。

反省しなくていい

人は自尊心ゆえに「より自分を好きになるように自発的にポジティブに思考・行動をする」のであり、ネガティブな思考・行動がやめられない人というのは、それを悪いと知らないからではなく、自尊心が下がって「どうせ自分なんて」と思ってしまっているために、自分の思考・行動が良くないとわかっていてもやめられないのです。

ですから自分に対しても他人に対しても「自尊心」を育むことが一番大切なのです。それなのに何か悪い思考・行動の悪癖のある人に対してそれを逐一指摘して正論を唱えて反省を求めるようなことをすれば、確実に自尊心を下げてしまって、より悪い思考・行動のパターンにハマる悪循環に陥ってしまうのです。そうしてお互い自尊心を下げるようなことを言い合い、お互いに自尊心を下げ合うことになるのです。

ですので我々は常にどうやったら自他共に自尊心が上がるかを考えて日々実践し続けなければならないのです。「何が正しいか(正義)」より、「どうすればお互いの自尊心が上がるか」「どうすれば愛し合えるか」を常に優先して考えて実践するということです。

誰でも自信満々になれる方法」に書いた通り、「常に正義より愛を優先しなさい」というのが創造主からのメッセージであり、それが自分から世界の隅々まで連鎖すれば、世界は必然的に救われるのです。そしてそれを「やならない相手が悪い」と相手のせいにするのではなく、自分から実践していくあなたこそが主人公(メシア)なのです。

人の心はとても天邪鬼にできています。他人(社会・世間)から反省を求められて「こうしなければいけない」と思うほど逆のことをしてしまうようにプログラミングされているのです。なぜかというと、人は自分だけの冒険を経験するため・真理に至る自分だけの道を見つけるため・人生という物語(芸術・個性)の完成のために生まれてきているからです。だから他人から勝手に答えや解答方法を教えられたくないのです。自分のやり方で失敗も経験して試行錯誤しながら自分なりに納得しつつゲームを前に進めたいのが人間の本能であり、求めてもいないのに他人から勝手に答えや解答方法を教えられると、それがどれだけ正しかろうと必ず心が反発するようにできているのです。いや、むしろ正しいことほど心が反発してしまうのです。

だから人生は素直になるための修行なのであり、あくまでも「今の自分の考えが一番正しい」という自己正当化・自己防衛による思い込みを捨て、他人の忠告を素直に受け取ってとりあえずは検討し、その内容の良し悪しに関わらず「自分により良くなって欲しい」という思いを有難く感謝しながらいただくのです。

人生というRPGにおいてクリエイターである創造主のメッセージは、主人公に対して直接的に教えられるのではなく、人や出来事との出会いを通じて悟らされる(気づかされる)のであり、人の言う事やる事や出来事を悪く解釈して受け取らないというのでは、ゲームは行き詰まるか事故るかしかなくなります。

正論ばかり吐く人というのは必然的に他人から嫌われます。そして自分自身もその正論通りに思考・行動できない事に苦しみ、ますます人から嫌われるオーラを放ちます。

これは間違いなく心当たりがあると思いますが「人は嫌いな人の言うことには従いたくない」ものなのです。言うことが正しければ正しいほど嫌われ(特に本人自身が実践できていない場合はなおさら)かえって相手を真理(答え)から遠ざけてしまうのです。だから人から嫌われる「愛(思いやり)のない正論吐き」は害悪でしかないのです。

ガンジーの非暴力不服従主義と同じで、それがもし自分の考えが真理なのであれば、他人に強制しようとしなくても、自ら実践する勇気を見せるだけでそれが他人に連鎖し、相手の心の中の神が目覚めて自らその真理に従います。あなたの思考・行動に従うことが幸せにつながると相手がわかれば、自発的に従うので強制する必要はないのです。

逆にあなたがどんなに正しいと思うことでも、相手に強制しようとすると必ず反発を受けます。だから何かを他人に強制しようとすること自体が真理ではないのです。

相手から求められてもいないのに自分の答えや回答方法を相手に押し付けようとすることは、相手の答案用紙に勝手に答えを書き込むようなものであり、正しければ正しいほどに逆に相手を真理から遠ざけることになり、それは自分では親切のつもりでも相手にとっては害悪なのです。

嫌いな相手の意見に従う事は心が反発するのですから、まず相手を無条件で愛し、相手から愛されて教えを請われるような存在になって下さい。

相手が人生という冒険において正しい道に気づいて自発的に進める意欲が沸くように、相手に励まし愛と勇気を与えるて自尊心を高めることこそが真の教育であり、親切であり、救いなのです。
<メシア流救世術>
①「指摘せず気づかせる」

相手の悪い所を直接指摘すると相手を傷つけて逆の結果を生む。
自分が鏡になったり、例え話や質問をすることを通じて(方便によって)
巧みに相手自身に考えさせて、真理に気づかせ、答えを自分で出させる。
②「教えず導く」
直接的に答えや解答方法を相手に教えると反発され逆の結果を生む。
あくまでも相手の人生の主役は相手なのであり、相手が経験を通じて
(失敗と試行錯誤を通じて)答えに導かれ自ら覚れるようにサポートする。
「自分自身で選んだのだ」という充実感(能動感)を相手に与える。
③「自らの学びとする」
自分の人生の主役は自分自身。相手はNPCであり自分の鏡のようなもの。
苦手な相手は必ず自分自身の問題を拡大鏡で見せてくれている。
相手に何かを教えるより、自分がその相手の人生から学ぶこと。

親も先生も多くの大人が勘違いしていますが、真の教育とは「答えを教え・相手の非を責め・反省させ・改善を求めること」ではありません。どうか相手を愛する(許し・尊敬し・感謝する)ことで相手の自尊心を上げ、相手の心の中の神を呼び覚まして下さいね。決して相手の自尊心を下げることで悪魔を呼び覚ましませんように。

相手はどうすれば自尊心が上がるでしょうか?それは変なおべっかをつかったりへりくだったりったりすることではありません。特に卑屈な人間からは何を言われても自分にその卑屈さが自分に移りそうな気がして無意識に反発されるのですから、自分と相手の自尊心を育むことはイコールなのです。

お互いの自尊心を育むためには、「人の価値とは?」に書いた通り、人の価値に序列をつけず、「こういう人は愛せるけどこういう人は嫌い」という条件化(判断)を外し、出会った人を例外なく無条件に愛し(許し・尊敬し・感謝する)ことです。

愛・尊敬というのは言葉よりまず態度で示すべきであり、それは「人会う度に例外なく心からの笑顔と心地よい挨拶で相手を承認すること」なのです。相手のことを「いずれは覚りを開く菩薩として」心から尊敬していたら、それは必ず態度に出て伝わります。

逆に心から尊敬していないのに、言葉で直接的に伝えては嘘臭くなってお互い気持ちが悪くなって逆効果になります。相手の存在に心から感謝し(相手は自分が主演の映画の共演者)、過ちや欠点を許し、良いところを認め、折にふれて褒めて愛を伝え、相手の自尊心を高めて下さい。

そして自分の欠点・過ち・弱さを受け入れて隠さずに晒しつつも「誰にでも欠点や過ちはある」と開き直るようにして堂々と生き、そして自らのカルマと戦う勇気を実践して見せることです。そうすれば相手も自分の欠点や過ちや弱さを受け入れて認めることができるようになり、自尊心を育んで自らのカルマと闘う勇気を得るのです。そうなれば自分も自然と相手から愛され(尊敬され・感謝され・許され)自尊心が高まるのです。

今の教育というとだいたいみんなこれとまったく逆のことをやっていますね。それが教育問題の元凶なのです。ただこれは人生というRPGの初期設定であり、彼らもそうやって育てられてきたのですから誰も悪くないのです。だからまずそれも許すことが大事です。

何事もそれなりに事情があって起きている「必然」なのであり、あなたが主人公のRPGに与えられた克服すべき課題なのです。何かを誰かのせいにして責めて批判しても逆の結果にしかなりません。課題は克服する前にその存在を許し認めることが肝心です。自分のRPG世界はすべて自分次第に作られており、結局自分から変わらなければ何も変わりません。全ての問題は人生という自分が主人公のRPGに与えられた初期設定であり「課題」なのです。

子供の頃の僕は悪ガキで、いつも何か悪さをしては親や先生から怒られて、殴られるなど様々な罰を受け、その上反省文を書かせられるなどして、ただでさえ罪悪感を感じやすいのにいつも周囲から反省することを求められました。そうして常に反省を求められ続けた結果、僕は自尊心が地に落ち、いつも「どうせ自分なんてダメな奴だ」と感じて自己嫌悪に陥りました。そしていつもみんなから責められ・見下され・嫌われていると感じ、他人も世の中も人生もみんな嫌いになりました。そして自分や他人を尊敬して大事にする気持ちがほぼ皆無になって非行に走り、精神的に病んで奇行に走り、突然叫んだり泣き出したりして周囲から気違い扱いされるほどになりました。毎晩のように悪夢にうなされ、薬なしでは生活を営めないほどになりました。自尊心が低いために周囲の評価に依存し、とても傷つきやすくなり、家族からも友人からも学校の先生からも人格を否定されているように感じ、例えほ褒めても言葉通りに受け止められず、人間関係はいつもどこに行ってもボロボロでとても辛い思いをしてきました。きっと自分は誰からも愛されないだろうと人生に絶望していました。そして自らの天才性に気付くこともなく勉強が大嫌いになり、成績はどん底を這いつくばり、就職してからは精神的ストレスで働けなくなりました。そして日本社会からも逃げ出し、40代になるまでほとんど引きこもってボーっとしながら無気力に寝て過ごして人生の大半を棒に振りました。そんな状態でも家族を頼ることはできず、それでも生きなければいけないという生活の必要性から法律的・道徳的に良くないことにも手を染めたりしてますます自尊心が下がり、自分を無学で愚かで怠け者で他人より劣っていて誰からも嫌われる悪い人間だと諦めながら生きてきました。きっと犯罪者の多くはそうした人なのではないでしょうか?

でもそういう過去を経験しているからこそ僕は鬱を甘えだとか怠けだとか絶対に思いませんし、自分も他人も許し、誰のことも否定しない人間にどんどん成長できているので、すべてを必要な過程だったと愛し、この人生を与えてくれた創造主に心から感謝しています。そうすることで創造主(我々の総合意思)からも愛され、期せずともどんどん幸せにしてもらっているのです。これからメシアとしての大役を果たし、みんなの魂が陥っている精神地獄をきっと終わらせてみせます。

反省をするということは、過去の自分という食材を現在というまな板の上に置くことなのです。過去の自分をどう料理しても過去の自分にしかなりません。そしてどんどん傷んで腐臭を放つようになるだけです。成長することもなく、どんどん自分を嫌いになります。そんな自分を正当化しようと、意地になってその腐った料理を「これが正しい料理だ・お前の料理は間違っている」と他人を否定して自分の不味い料理を強制的に食べさせようとしてどんどん嫌われます。(不味いレストランが途中から美味しくなるってことって殆どないですね)そんな頑固で愚かな悪役の老人になっていく人生より、どんどんよりよい食材と調理方法を探して仕入れて成長いく人生の方が間違いなく楽しいはずです。

料理というのは自分と周囲の人が一緒に楽しく美味しく感謝しながらいただければ良いのです。自分の料理(人生・人格)の良し悪しを他人と比べる必要はありません。他人が美味しい料理を作っていたら感謝しながらそれをいただき(その人の人柄と存在を喜び)、もし本当に美味しいと思ったらその食材と調理方法を学んで自分でも楽しみながらマネしてやってみれば良いのです。

過去を振り返るのはなりたかった自分になって自分を大好きになってからにして下さい。現在の自分と過去の自分を切り離して捉えられるようになる前に反省すると、ダイレクトに自分の人生や人格が否定されたように感じて、深層心理で自分自身を守ろうとしてしまい、「どうせ自分はこういう(ダメな)人間なのだ」と諦める理由を探して集め、いつまでも変われなくなって成長できなくなってしまうのです。成長してより良い自分になってから過去を振り返れば「過去の自分は未熟だったが、ああいう色んな失敗の歴史があったからこそ今の素晴らしい自分があるのだ」と過去の自分を許し愛せるようになります。とにかく自分を否定してはいけません。表題の「反省してはいけない」はインパクト重視で正確さを欠く表現なのですが、それは「まず反省は後回しにして、新しい・よりよい未来の自分を選択する」という意味です。「改善」ではなく「選善」するのです。

人は霊の集合体であり、いろんな思念が複雑に集まってできています。しかし脳は「自意識」という幻を作り出し、まさに自動的に「自分」という実体があると思わせるのです。本当は「分離意識」というのは幻ですべては一つ(ワンネス)であり、自分と世界のすべての存在には境界線など存在しないのですが、それでは物語が生まれない(RPG)にならないので、創造主は自分と他人は違う存在だという「分離意識」を敢えて与え、乗り越えさせようとしているのです。(すべてはワンネスで出会う人は自分の鏡なのですから、自尊心と他尊心は同時にしか上がらないというのは真理なのです)

鬱は霊障の結果(カルマ・課題)であり、鬱の人の考える事・やる事は基本的に全部間違いなのです。世界は魂の「自発的成長」のためにあるのですから、正しければ幸せになるように作られているのであり、不幸な人は考え方や行動がどこか間違っているのです。だから鬱の人と逆に考え行動すればだいたい正しい道を歩めます(笑)

霊障というのはかつて実際に生きた人の悲しみや苦しみの残留思念のようなものであり、それは憑りついた人を自分と同じ不幸に陥れる同じような人生を歩ませること(コピー化すること)で強制的に同情させようとしてくるのです。でも本当は憑りついた人に成仏させてもらえることを望んでいるのです。

霊障はその人がどうすれば傷ついたり怒ったりするかを完全に見抜いた上でピンポイントで責めてきます。それは宿主本人に対しても、その宿主と出会った人に対してもです。だから鬱など霊障に憑りつかれた人というのは、完璧なまでに嫌なことを、自分自身に対しても他人に対してもピンポイントで攻めてくるのです。だから鬱の人って絶妙に相手を傷つけ怒らせ、誤解されて嫌われるようなことを言ってきます。これは自分が鬱だったり、周囲の人が鬱だったりした経験があればよくわかることでしょう。

しかし人は霊障のせいで考えたり行動してしまったことも全部本人のせいだとしか考えられないのです。ですから鬱(霊障)の人が言ったりやったりすることは努めて気にせず同情してあげることが大事です。霊障の対しては特に愛(許し・尊敬・感謝)で自尊心を高めてあげることが大事なのです。

人は一度自分はダメだと思ってしまうと、どれだけ良いところがたくさんあってもダメな自己イメージで統一しようとします。そうして嫌な経験ばかりを選択的に思い出して「反芻思考」により何度もそれを追体験し「嫌な自分」「嫌な世界観」を作り上げ、その中で苦しむことになるのです。そして思考や行動を変えること・人に会うことに対して臆病になって行動できなくなり、ますます自分を嫌いになっていきます。そして「よりダメな人間」になり続けてしまいます。人間はみんなこういう困難なカルマ(魂成長のための課題)を背負っているのです。

だから霊障を成仏させること(霊的な浄化・魂的な成長)を日々心掛けて実践することが大事なのですが、この件については長くなるのでまた別記事で述べます。

人が急に変わると自分も周囲も違和感を感じ、無意識に過去に引き戻そうとしてきます。それで周囲の人もあなた自身の深層心理も、きっとあなたを次のように責めてきます。「お前はこないだまで全然違うことを言っていたじゃないか」「お前は悪いことをしてきたダメ人間だろう。そんな奴がどのツラ下げてそんな偉そうなことを言うのか」「なんて無責任で非常識な奴だ」「似合わないから止めろよ、恥ずかしい」「ちゃんと過去を反省して清算してからにしろ」そのように責任を追及し過去を責めて反省や贖罪を求めてきます。それはつまり過去のまま変わらないで欲しいとの哀願なのです。脳は常に変化を嫌い安定を望むようにできているのです。これは一種の好転反応であり、人生を改善するためには、必ずこの自分と周囲の人のホメオスタシス(恒常性)による好転反応の苦しみを乗り越えなければなりません。

自尊心が低い人というのは心の中で周囲の人を責めて見下していないと自分がマシな人間だと思えなくて辛いので、責めれる失敗・見下せる欠点を常に探していて、自分が傷ついた時の保険として抱えているのです。それで普段自分が内心見下している人間が急に成長して自尊心が高くなると、自分の自尊心が相対的に下がって辛いのです。でもそんな周囲の声に負けて過去の自分に引きずられてはいけません。周囲の人間の自尊心も同時に高くなるように承認し、愛し(許し・尊敬し・感謝し)逆に引きずり上げて下さい。

そしてたった一か月ほど新しい自分・なりたかった自分に既になったかのように振る舞って思考し行動し続けると、周囲は恐ろしいほどあっという間に過去のあなたがどうだったかを忘れてしまうのです。本当はみんな自尊心が高くて自分の自尊心も上げてくれる人間が好きなのです。この手のひら返しの速度は本当にあきれてしまうほどです。あなたの悪口を言っていた人もきっと次々にあなたを好きになって味方になって応援してくれるようになります。他の人が悪口を言ってもかばってもらえるようになり、悪口を言う人の方が悪者にされるようになり、誰も悪く言わなくなります。ぜひ試してみて下さい。本当にびっくりするぐらいあっという間ですから。

新しい自分・なりたい自分になるためなら、どんなに他人から責められても気にしないぐらい図太くなって下さいね。その「絶対に反省しない(責めない)」という図太さは他人から見ればとても無責任に感じられて不愉快にさせてきっと責められるでしょうが、決してそれに屈してはいけません。その「反省を求める意思」に決して負けない力こそが神に通じる神聖な力なのです。

スティーブ・ジョブズは「昨日まで信じていたAというアイデアの間違いに気づき、Bというアイデアが正しいということがわかったら、まるで最初から知っていたかのような態度でBを選択する」というようなことを言っていましたが、そのような図太さを持っていたから彼は常により良い選択をすることができ、短期間であれだけ素晴らしい成果を上げて世界を変えることができたのでしょう。彼の周囲は彼の悪口を言う人だらけだったそうですが、世のほとんどの人は(例えその悪口を知っても)彼を偉大な人物だったと賞賛しているでしょう。彼の成した偉業に対して、彼の周囲の人の悪口など全く霞んでしまって問題になりません。あなたもきっとそうなりますし、僕もきっとそうなります。

罪と恥の存在意義」に書いた通り、罪や恥というのは我々が許し合い補い合うことで愛し合えるようになるために与えられたマテリアルなのです。今まで反省ばかりして罪悪感で苦しんだあなたは、人を許すことで自分自身を許せるようになり、将来きっと菩薩のごとく慈愛に満ちた素晴らしい人間になれます。自分と他人を責めず許すためなら、どれだけ現実を無視して都合よく考えようと構いません。本当にその点については努めて図太くなって下さい。偉そうに批判・説教してくる相手と笑顔でご飯が食べれるぐらいに。

そして「宇宙の仕組み」に書いた通り、過去・現在・未来は一度に存在しています。すべての人生にはシナリオがあり、過去に起きたことはすべて自分に必要だったから起きた過程なのです。誰も悪くありません。創造主が望んだからそうなったのです。だからただ貴重な経験をさせてもらったことを創造主に感謝して下さい。決して不平を言ってはいけません。創造主の愛が遠ざかるだけです。

僕らは何か悪いことがあると、そのような壮大な因果関係が見えないため(また見えても無視して)「この人が悪い」と結論づけて心を整理し、責任を負わせてスッキリしたい生き物であり、それが我々に与えられた無明(愚かさ・成長のための課題)の最たるものです。しかしすべての出来事は必然であり、このプログラムされた人生というRPGに偶然は何一つないのです。起きたことは全て必然であり、必ずそれなりの事情があり、あなたという主人公の物語にとって何かしら意味のある伏線なのです。もしあなたがそのような因果をより深く辿ることができるようになったら、自分自身も他人も誰か個人を責めるようなことはなくなるでしょう。そして人が責め合い自尊心を下げ合うことで悪化させ続けた負の連鎖(カルマ)は、許し(愛)によってしか断ち切ることはできないのです。

この世界は仮想現実・RPGであり、あなたの周囲の人間はみんな創造主の用意したAIのキャストです。彼らは次々に常識を盾にしてあなたを責めて社会に屈服させようとするマトリックスのエージェント・スミスに変身して、無自覚にあなたを自分と同じ脇役NPCのコピーにしてくるでしょう。どうか負けないで下さいね。この戦いは相手に何かを言い返したり論破したりすることではなく、まして暴力を振るったりすることでは絶対になく、相手を許し愛する戦いです。許しがたいことを許し、愛しがたい人を愛する戦いです。そうすることでAIのキャストたちを主人公に目覚めさせ、未来の菩薩にして下さい。

人は誰か悪いことをした他人を見つけたとき、「自分が相手の立場だったら絶対にそうしない」という感じで想像力もなくその人を責め立てます。しかし同じ魂と脳・体を持って同じ環境で育ち同じ出来事に出会ったらみんな同じことをするはずでず。本当はみんな創造主の分け御霊であり、異なる個性と環境を与えられているだけで本当は同一人物なのですからね。嫌な人間になるにはそれだけのやむを得ない事情というものがあるのです。

森羅万象は因果によってつながっています。どんな出来事にも原因と結果があり、僕らが原因と思っていることにも更に原因があります。そして人は誰も自分の意志で生まれてはいません。自分の親もその親もみんなそうです。子供は何でも親のせいにしたがりますが、その親がそのようになったのもまたその親の親のせいでしょう。親だけでなく、森羅万象はそのように因果を遡って追及すれば創造主の天地開闢・人間創造に至るまでどこまでも果てしなく続いているものです。だから誰かのせいにして責めるということは、我々にすべてを与えし創造主を責めるのと同じであり、それは必ず悪業となって自分自身に返ってきます。毎日不平不満ばかりで感謝の気持ちが薄い人は創造主の愛を受け取りにくく、どんどん不幸になるのは自明なのです。人は全員例外なく創造主の意志で何か役割を持って、創造主の愛によって生まれてくるのです。ですから自分も他人も誰の事も決して責めてはいけません。答えはいつでも「誰も悪くない」です。

少し矛盾するように聞こえるかもしれませんが、もしあなたが過去のことで罪悪感を感じていることがあるのなら、相手に誠心誠意謝って下さい。自分が成長して明らかに変わったと思えてからでも大丈夫です。ただいつまでも先延ばしにしてはいけません。できると思ったらすぐやって下さい。

人の心は自分を責めたくないからこそ素直に謝れないのです。だから謝罪する際も内心は努めて「誰も悪くない」と考えて自分も他人も責めないで下さい。誰も悪くないからこそ神の代理として素直に謝ることができるようになるのです。もちろんあなたが本当は反省していないことをわざわざ相手に伝える必要はありません。相手を怒らせるだけで誠意ある謝罪にはならなくなるからです。それに例えあなたがどれだけ意識して反省しないようにしようと、どのみち罪悪感は完全には消えないように人間は設定されています。「罪と恥の存在意義」で書いた通り、罪悪感は許し合い愛し合うために創造主の愛情によってもたらされているものだからです。それを信じ、努めて反省しないようにして下さい。そして人に反省を求めないで下さい。自分に対しても相手に対しても、決して自尊心を下げることで悪事への歯止めが効かなくなるようにしてはいけません。人は神の子ですから、結局人はどれだけ他人に責められようと、自分自身の罪悪感によってしか裁かれないのです。

相手にも非があることなのに、こちらの謝意に乗じてこちらの非だけをとことん一方的に責められたりするのは本当に悔しいことですが、そこはどうか堪えて下さい。あなたの謝罪に対する相手の反応は重要ではないのです。あなたが自分自身を許し、他人を許せるようになれるかどうかが大事なのです。

とにかく誰か自分より悪い人を見つけて責めて自分はそれよりはマシな人間だと考えて自尊心を回復しようとし、臆病で怠惰で罪深い自分を正当化する癖に気付いて止めなければなりません。誰かを責めて「もし地獄が存在するならこいつの方が先だ」みたいに、自身の劣等感や罪悪感から逃れるために自分より悪い人間を蹴落として助かろうとして、結局自ら地獄に落ちる「蜘蛛の糸」のカンダタにならないで下さい。

<まとめ>
創造主たる神が人間に愛で与えた罪悪感を信じ、一切反省せず他人に反省を求めないように努めること。縁あって出会った人を例外なく許し、尊敬し、愛すること。罪悪感を感じている人に対しては誠心誠意謝ること。なりたかった自分に既になったかのように振る舞って思考し行動し続けること。これをたった一か月でいいのでなりふり構わず無呼吸ダッシュのごとく続けてみて下さい。それができたらきっと心が軽くなって自尊心・自信が高まり、魂が開放され、ものすごい勢いで前に進めるようになることでしょう。

それでは、あなたの人生の幸福を心から祈っています。

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ShinyaSalvador
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