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幽刃の軌跡 #53

第53話「名を持つモノたち」


朱留の目の前で、天狗が悶え苦しみ、震える体が静まりかけたとき、傍らにひとりの男が姿を現した。


その男は、白い肌に切れ長の目を持つ美しい顔立ちの青年。涼やかな視線で朱留を見つめ、かすかな微笑を浮かべていた。


「あなたは一体……」朱留はその男を見つめ、疑問を飲み込むように言葉を漏らした。


男は朱留の様子を優しい表情で見つめ、穏やかに口を開く。「君が彼をここまで追い込むとは……よくぞ、恐怖や困惑を乗り越え、耐え抜いたね」


言葉をかみしめながら、男は苦しむ天狗を見つめ続ける。「彼が精神的に追い詰められたときに私が出現するよう、彼を創り出した者がこの仕掛けを組み込んだのだろう」


朱留はさらに困惑を深めた。「天狗を創り出した者……そしてあなたは、いったい何者なのですか……」


男はふわりと微笑み、「申し遅れた。私は霊域晴明、霊域の始祖であり、霊域家の初代だよ」と静かに名乗った。


朱留は息を飲み込み、その名を聞くと共に、自分が向かい合っている存在の重さに圧倒される。


晴明は朱留にこの世界の成り立ちについて語り始めた。


「人間にはどれほど完璧であろうと、怒りや憎しみ、恨みや辛みといった負の感情が必ず存在する。その負のエネルギーを超越した者もいるが、実際には抑制しているに過ぎない。私もその一人だ。そして、その抑え込んだ負のエネルギーを使って創り出された存在こそが……」そう言うと、晴明は朱留に目配せをしながら、天狗の方に視線を向けた。


「この天狗の正体を知る者は、私とそなたしかいないだろう。恐らく、みなは彼を私が創造したと思っている。しかし私は彼に名だけを与えたのみ。」


朱留はその言葉に息を詰まらせ、晴明の語りに没頭する。


「私が生きた時代に、神戸(かんべ)の地に神戸道満(かんべ どうまん)という陰陽師がいた。彼は科学者のような存在で、霊域について深く研究していた。そして、私の負のエネルギーを使い、この天狗を創造した。そなたが知りたがっている天狗の名は……魔王坊(まおうぼう)」


その名が口にされた瞬間、苦しんでいた天狗が倒れ込む。やがてゆっくりと立ち上がり、晴明を見つめた。


「晴明……様……ご無沙汰だな……いったい、どれほどぶりだろうか……」


晴明は微笑み、「やあ、魔王坊。そうだな、私が存在していた時代ぶりか」と静かに返す。


その瞬間、魔王坊は晴明の前にひれ伏し、深い忠誠を示した。


朱留は目を見開き、思わずつぶやいた。「あの天狗が……」


晴明は朱留に向き直り、物語を続けた。「魔王坊もそうだが、私が可愛がっていた白狐と黒馬も、道満の手によって妖怪化させられた。白狐の名は陽子、黒馬は黒太夫……。これらの名を知る者は、私と、ほんの数人だけだ」


朱留は晴明の言葉を反芻し、ふとつぶやいた。「そうだったのか……」


晴明は彼の視線を受け止め、「彼らも元はただの動物だった。それを道満の研究によって、妖怪としての力が与えられたのだ」と語ると、さらに続けた。「だが、時代を越え、この魔王坊の存在を理解できる者が現れるとは……」


朱留に視線を戻すと、晴明はどこか楽しそうに微笑んだ。


「そろそろ時間のようだ。私は今や一つのエネルギーに過ぎない。だが、再びそなたと会える日が来ることを、楽しみにしているよ」


その言葉を最後に、晴明の姿は静かに消え去った。


朱留はふたたび魔王坊に向き合い、意を決して告げる。「魔王坊……俺に力を貸してくれ!」


魔王坊は笑みを浮かべ、「今の器ではまだまだ小さいのう……」と朱留を挑発する。


「そんなことはわかっている!」朱留は力強く返す。


魔王坊は豪快に笑い、「まあいい。お前がわしに喰われたくなければ、もっと強くなれ。退屈しのぎにはちょうど良いわ」と不敵に笑った。その笑いは以前とは違い、失われたものを取り戻したかのようだった。


朱留の本体を見つめる牛若と弁景は、彼が静かに目を開けるのを見届ける。


牛若は微笑み、「どうやら……制したようだな」とつぶやく。


弁景は驚きの声を漏らし、「なんと……」


朱留は静かに頷き、「……はい。これからもっと強くなります」と答える。


牛若は満足そうに頷き、弁景に命じた。「弁景、結界を解いてやれ」


朱留がゆっくりと立ち上がり、牛若と弁景のもとに向かおうとした瞬間、ふいに目の前が暗くなり、崩れ落ちそうになる。だがすぐに、弁景が駆け寄り、その肩を支える。


牛若は穏やかに言った。「よほどの精神力を使ったようだな。よくやり遂げた。弁景、彼を部屋に連れて行き、休ませてやれ」


「御意!」と力強く応じる弁景に支えられ、朱留は静かに目を閉じた。

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