<ひきがえるありとあらゆらない君だ 福田若之>を読む ーこの、「ありとあらゆる」時代においてー


0.導入


 現代俳句協会のYouTubeチャンネルにこのような動画が上がっていた。黒岩徳将氏が若手俳人の「気になる句」を募集し、それを後藤章氏と語り合うという企画だ。
 自分も若手俳人の一隅として黒岩さんに7句選を送らせていただいた。本文の本筋ではないが一応載せておこう。
雪まみれにもなる笑つてくれるなら 櫂未知子
ひきがえるありとあらゆらない君だ 福田若之
お浄土がそこにあかさたなすび咲く 橋閒石
たんぽぽやまばたきのなき死後の景 小川軽舟
かの鷹に風と名付けて飼ひ殺す 正木ゆう子
きつねいてきつねこわれていたりけり 阿部完市
不思議やな汝が踊れば我が泣く 高浜虚子
 いわゆる「昭和三十年世代」が多く、かつ「死」か「愛」ないしそのどちらにも関わる句ですべてが占められている。我ながらどうも偏った選だと思うが、まあそのことは本題ではない。

 さて、この中から上の動画には<ひきがえる>と<かの鷹に>の二句が取り上げられていた。無論他の人の選とも重なる部分あっての選出だろうが、とにかく取り上げられていたのは事実だ。
 正木氏の「かの鷹に」はかねてよりの愛唱句だが、何と言っても作者の代表句の一つだし、構造からしても今更私を含めた誰かによって語られるのを俟つ句とは思えない。付け足されるものがある、とは思えないのだ。きっと、自分の上の選句がなくても他のどこかの若手が取り上げ得た句だろう(もしかしたら今回も他の人も選に入れていたかもしれない)。
 しかし、一方の「ひきがえる」である。福田氏の第一句集『自生地』に収録された本句について読者から語られるのを私はほぼ見たことがないし、決して福田氏を、『自生地』という句集を代表するような句ではないだろう(余談だが、福田氏ご本人から「垂水君の『自生地』選は独特だよね」と言われたことがある。余談である)。それでも、私にとっては『自生地』を読んだ時から目を奪われた何物にも代えがたい句であり、好きな俳句をあげろと言われたら必ず最初に上がる句だ。だからこそ、上の動画を見ているうちにそろそろこの句を語らねばならないのではないかと感じた。この句が私によって語られるのを待っているなどという言葉は使わない。私が、この句を語りたいのだ。

 注意しておきたいのは、決してここで書かれるのはわたしがこの句に出会った時の感動そのものではないし、いま抱く感動そのものでもないということだ。言語化は常に何かを取り落とす。それでも、言語化しなければ共有できないことが塵のように限りなくあるからには、その歩みを止めてはなるまい。いや、それなくしては生きていけないというのが本当だけど。
 
 今のわたしを今の言葉で語りつくそう。

1.「ありとあらゆらない」について ー何のために「壊れて」いるかー

 おそらく多くの人にとって最も目を引くであろう部分から議論を始めたい。「ありとあらゆらない」。検索しても出てこないし、辞書を引いても当然載ってはいない。きっとこれは、作者によっておそらくこの句のために生み出された言葉だろう。それでは、「ありとあらゆらない」とは一体何なのか?そして、何のための言葉なのか?

 まず、この言葉は現代文法において明確に誤りとしてよいだろう。形式から、「ありとあらゆる」という連語に否定の助動詞「ない」がくっついた言葉と想定されるが、そもそも連体詞「あらゆる」は活用を持たない。たとえ「ありとあらゆる」という形になっていてもだ。中学受験でも覚えさせられるこの知識は、しかし本句を前にしてはあまり意味を持たない。なぜなら、既に「ありとあらゆらない」という言葉は書かれてしまっているからだ。
 文法という戸籍を持たずに存在し我々の脳内を浮遊するこの言葉は、幽霊に例えうるだろう。だが、幽霊を前にしてその存在を喝破してそれが「幽霊」などではないことを暴こうとこそすれ、既に存在してしまっているその「ことば」に対して不正を叫び続けることなど誰がするだろうか(これまで正体を喝破されてきた「幽霊」もどきと異なり、これは紛れもなく「ことば」なのだ)。
 重要なのは、これを否定することではない。これをどう「読む」かだ。

 とりあえず、これが「存在しない」言葉ならまず意味を確定させる必要がある。前述の通り「ありとあらゆらない」は「ありとあらゆる」+「ない」で構成された語と想定される。「ありとあらゆる」について手近にあった清水書院の『新国語辞典』を引いてみよう。平成六年刊と決して最新とは言えない辞書だが、この三十年で意味の変遷している語とも思われない。問題はないだろう。
 「ありとあらゆる」の項には「すべての。ありったけの。」とある。概ね我々が日常使う意味で、それ以上のものはないようだ。となると、この否定であるから「単一の」といったところか。あるいは全称命題的に「ありとあらゆる」を解して「ある」なども有り得るかもしれない。合わせて「単一の、ある」と定めよう。

 さて、「ありとあらゆらない」という言葉の意味を差し当たって確定できたところで一つの文章を示したい。福田氏本人によって書かれた以下のテクストだ。

 本句における「ありとあらゆらない」というありえない●●●●●言葉の話から始まり、後半は「苔むした」言語に対しての文法というものに対する話まで広げていく興味深い内容で、近頃よく交わされる「詩における文法」議論にも示唆を与えてくれる文章であろう、今回は前半の、特にこのパラグラフに注目したい。

したがって、語源に即して考えるならば、「ありとあらゆる」にあえて「ない」をつけるなら、「ありとあらえない」になるはずだということになる。

しかし、僕の身についた言葉で書くなら、ここはどうしたって「ありとあらゆらない」となるところだ。「ありとあらえない」なんて、まったく笑えない。

 「語源に即し」た「ありとあらえない」は「笑えない」。ナンセンスで、馬鹿げている。なぜ?作者はそれをはっきりとは語らない。ここで、「身についた言葉」というワードに注目したい。
 「身についた」とはいうものの「ありとあらゆらない」は先述の通り作者によってこの句で生み出された言葉であり、それが「身についた」ものだとは考えづらい(作者が日常的に使用しているとも考えづらいだろう)。では、なぜそれを「身についた」などと言えるのか?「ありとらゆらない」という語は、その形式において文法的に誤りで目にしたことのないはずでありながら、先述の通り「ありとあらゆる」の否定であることを強烈に意識させる。
 つまり、ここで「ありとあらゆらない」が「身についた」言葉であるのは「ありとあらゆる」の否定であるからではないか。
 逆に言うならば、「ありとあらえない」が「笑えない」のは、この「語源に即し」た語を使った瞬間、それは「ありとあらゆる」から離脱した語となってしまう(少なくともそう見えてしまう)からだろう。このことは、「ありとあらゆらない」と「ありとあらえない」という二語を見比べ、言葉に出すだけで十分承知してもらえると思う。そして、その「身についた」「ありとあらゆらない」がこの句において選択された。
 つまり、この句において重要なのは「ありとあらゆらない」が(「ありとあらえない」にもなり得る)「単一の、ある」といった意味を持つこと以上に、「ありとあらゆる」の否定であるという形式を持つことなのである。でなければ、そもそも「ありとあらゆる」を否定する必要がない。先ほどからの私のように「単一の」とでも「ある」とでも書けばよくなってしまう。そんな中で作者は「ありとあらゆらない」を選んだ。「壊して」まで。やはり、必ずそこには理由がある。

 そう、「ありとあらゆらない」と書くのは「ありとあらゆる」と書くためなのである。

2.「ありとあらゆる君」について ーつまり、我々はもはや「ありとあらゆり」得てしまうー

 では、「ありとあらゆる」となぜ書こうとするのか、あるいはなぜ書かなければいけないのか。一度句に立ち戻ろう。この「ありとあらゆらない」が何に対応するかに目を向けると、「君」にはっきりとつながっている。つまり、「ありとあらゆる君」を考えなければいけない。
 
 「ありとあらゆる君」とは?先程の辞書の言葉に立ち戻ると、「すべての/ありったけの」君となる。これはかなり不自然なコロケーションに見える。なぜなら、「君」と名指される者は通例一人ないし一つの括りとして表せる集団でしかないはずだから。しかし、繰り返すようにこれはもう「書かれてしまった」言葉であるからには、もはや重要なのはこれを否定することではない。これをどう「読む」かだ。
 以下、時代による社会の変化を背景に説明を試みるが、これについて専門的な知識はかなり欠けているだろうし、またかなり乱暴な言い方で正確さを損なっているかとは思うが、本句を語る上では決して避けては通れない部分であるので、承知いただきたい。

 近代以降、人々は単なる「○○村の✕✕」ではなく、特定の姓名と紐づけられて職場・学校・家庭その他諸々のそれぞれの場でそれぞれのアクターとしての役割を担うようになった。無論、近代以前も人々は何も一つの役割しか担っていなかったわけではない。時には家庭にあり、時には職場にあり、また時にはさらに異なる場にあった。しかし、ここで重要なのは「複数」だけではなく「君」、つまり独立した自我の意識である。逆説的な言い回しだが、その他者と隔絶された統一された「自己」という存在ゆえに「分裂」が生まれたのだ。
 しかし、この時点ではやはり「ありとあらゆる君」という語には無理があると感じるだろう。というのも、「ありとあらゆる」と称されるからには量的に一定以上のサイズがなければいけない。「ありとあらゆる俳句」「ありとあらゆる生物」、etc…。上で挙げた近代人の置かれた状況は、職場・学校・家庭と例をあげていってもせいぜいたかが知れている。これでは、「君」に対して「ありとあらゆる」とはやはり大仰で、不自然だ。しかし、現代においてある要素がさらにこの状況を前に進めた。それは、インターネットである。
 インターネットの誕生と発展は我々を文字通りリアルタイムで全世界と結びつけ、それまででは考えられないほどの場を与えると同時に、その中の顔を持たない一存在者でいさせることを可能にした。例えば、SNSユーザーとしての発信者であったり、ネット掲示板における参加者としての立ち位置。あるいは、ネットでの顔を合わせないショッピングにおける購入者なども同様かもしれない。それらの数は非常に多く、かつそれぞれの場において多様な属性を身に帯びる。まるで我々は仮面を付け替えるかのように生活を続ける。
 しかし、決してこの「顔」の喪失は近代以前への回帰としての自我の消失ではない。確かにその仮面の名前は戸籍の姓名とは異なるかもしれないが、多くの場合自らによって名付けられた(下手すると姓名よりも強烈に「私」と結びついた)自我そのものである。常に何らかの属性を引き受ける「その人」でありつづけなければならず、あくまでsomebodyに漸近するその人自身でしかないのだ。インターネットというこの発明は、限りなく無限に近く、決して無限ではない数の「君」を誕生させる。「ありとあらゆる」のだ。そうやってこの上なく希薄化された「君」は、本当に他者と見分けがつくのだろうか?「ありとあらゆる君」、からっぽの「君」、もはや何者でさえなくなろうとしている「君」、それでありながら「君」という名の「何者か」であることを免れ得ない「君」…。

 「ありとあらゆる君」という「常識」から考えて不自然なコロケーションは、実はむしろかつて組み上げられた「常識」が常識ではなくなるように時代が変質していっていることを示している。不自然なのは言葉ではない。時代なのだ。現代のわれわれとは「ありとあらゆる」のである。
 
 余談のようだが、音韻的な類似として「ありてあるもの」がキリスト教の新約聖書文語訳においてイエスが自らを指し示す語であることに少しふれたい。「ありてある」「ありとあら(ゆる)」段の差異しかない二つの言葉。イエスもまた聖書を通してイメージが拡散され、世界中と接続する。しかし、その存在が広がるにつれて存在感は希薄化していく我々と違い、イエスは強まり続ける。同じ向きの、逆の言葉ともいえるかもしれない。

3.「ありとあらゆらない君だ」についてーそんなことは関係なく、私にとって君は「君」なのだー

  さて、「ありとあらゆる君」について述べられたならば、やっと「ありとあらゆらない君」について語らなければいけない。いくら裏側に「ありとあらゆる君」があろうと、ここで作者が選び取って書いた言葉は「ありとあらゆらない君」なのだから。

 それでは、「ありとあらゆらない君」とはいったい何なのか?それは、限りなく拡散されていく空間で希薄化され続ける「君」とは正反対、何より狭く何より濃い「君」だ。(作品の中では明示されていない)「わたし」によって、(心理的に)目の前にいる「君」へ、その二者のみの空間において呼びかけられ、たった一つに画定される「君」だ。「わたし」と「君」という最小でゆるがせない関係性によって定められる、唯一にして無二の二人称としての「君」なのだ。他のどの他者でもなく、そしてかつ他のどの「君」でもない、「ありとあらゆらない君」である。
 これは、言ってしまえば本来の二人称そのものだろう。二人称とは、その原始において、目の前にいる誰なのかわかっているたった一人への呼びかけとして用いられたのだから。しかし、種々の発明によって「顔のない他者」や「何者か知れぬ群衆」に対して「君」ということが出来るようになってしまった現代において、その本来の意味性は決してただ「君」と書いたら叶わない。再三繰り返す通り「ありとあらゆる君」という言葉を通して多種多様な「君」とあらゆる「君でない者」の森が想定されることによってこそ、その中からただ一人の「わたし」の「君」という名のただ一本の代えがたい木を見つけ出すという尊い営為が描き出しうるのである。
 いわば「原始的二人称」をこの句の「壊れた」文法が生み出してゆくのだ。

 また、「ありとあらゆらない君だ」という言い方の寄与するところも大きい。「だ」という主観的でしかありえない言い方は、語による明示がなくとも判断の主体である「わたし」の存在を意識させる。そして、「だ」という力強い言いきりがこの句に文法的な誤りや創作された語彙を乗り越えるだけの力を与えてくれる。

4.「ひきがえる」について ー君はひきがえるであり、無論ひきがえるではないー

 そして、(語順的には遡ることとなるが)「ひきがえる」について考えたい。最初にあげた動画でも議論に上がっているが、この句における「ありとあらゆらない君だ」と「ひきがえる」の関係性は問題だ。考えうるのは二つであろう。一つにはひきがえるへの呼びかけであり、一方できっとこの詩を読んでいる「君」への呼びかけである。つまり、いわゆる「一物」的な読みとしての「君」=「ひきがえる」であり、「取り合せ」的な読みとしての「君」=「何らかの人としての君」だ。

 ここで、先述のように「ありとあらゆらない君」とはインターネットによって産み出された人間の一様態である「ありとあらゆる君」の否定として現れた語なのだから、「ひきがえる」に対する言葉であるとして「ありとあらゆらない君」を扱うのは筋が通らないのではないか、「ひきがえる」への言葉であるという読みは即時否定できるのではないか、という向きがあるかもしれない。これには、差し当たって問題はないと考えたい。先述の「ありとあらゆらない君」(つまり「ありとあらゆる君」)がいかに生み出されたかについての文章は、あくまで「ありとあらゆらない君」的な意識の誕生についてである。確かに「ありとあらゆらない君」というそれそのものはその言葉の発明以前には存在し得なかったが、しかしこの言葉はそれに類似する現状の意識を表すために生み出されたのである。であるからには、そのような意識の誕生の次段階として、その意識が人間以外への他者へも向けられるようになるのはある程度自然なことあり、他のないだろうか。「君」という語が二人称に転化した後、動物など「ひきがえる」のような存在にも使われ得る(『がまくんとかえるくん』でも思い出してみてほしい)ようになったことは好例ではないだろうか。そのため、少なくともこの「ありとあらゆらない君」が「ひきがえる」に向けて用いられることは理論的に何ら違和感はないし、使っても問題はない、と差し当たってしておこう。なぜ「差し当たって」かは後述したい。

 で、この「ひきがえる」と「ありとあらゆらない君だ」の関係をどう読むかだ。私の考えでは、この関係性は上にあげた二つの「どちらでもある」のだ。「どちらでもあり得る」ではない。「どちらでもある●●●●●●●」のだ。
 どういうことか?改めてこの句に接した時の読みの進行を考えてみたい。

 「ひきがえる」とあるからには、よっぽど人間存在を読みの前提として導入していない限り、まず読者は「ひきがえる」と「ありとあらゆらない君だ」を結び付けて考えるだろう(そうでなければ、「ひきがえる」は余りに邪魔となってしまう)。しかし、そこで足を止められはしないはずだ。読者はほぼ間違いなく、この原始二人称が「ひきがえる」のみに向けられたものではないと考える。なぜか。

 一つには、「ひきがえる」という言葉自身によってである。「ありとあらゆらない君だ」は「君」への言葉である。なら、「君」と言っただけで十分だ。「ひきがえる」とは何のために書かれている?呼びかけだろうか。しかしだとしたらあまりに後ろとテンションが違いすぎる。「だ」とまで強く言い切る態度に比べて、あまりにぬるっとしたこれが呼びかけとは思いづらい。本句集には感嘆符も使用された句もあり、明確な呼びかけとして句全体に統一的な感をもたらしたいなら「ひきがえる!」とした方が自然だ。あるいは、読点の使用なども効果的だろう。少なくともそうすることでこの句における連続性は担保され、下の言葉が誰へ向けたものかなどという話は持ち上がらなくなる。それを(意識的にせよ無意識的にせよ)作者が選んでいない、という事実は明確である。この「裸の」ひきがえるは、あまりにも我々が保持している一般的な「ひきがえる」というイメージから先へ踏み込むための階段が欠如しており、掴みどころがなく、文字通り「ありとあらゆらない」ひきがえるを想像するのが困難な状況に読者は陥ってしまう。そのために、本句で「ひきがえる」と「ありとあらゆらない君」を一体のものとして読むという行為は必然的に問題を孕んでいる。

 例えばこれは<蟇歩くさみしきときはさみしと言へ 大野林火>とは違う。林火句では「蟇」は「歩く」のだ。これによってこの「蟇」は作中主体の眼前に示され、福田句のどこの誰とも具体的にはわからない「ひきがえる」とは異なる唯一性を獲得する。「この」蟇になるのだ。
 
そしてもう一つには、先述した「ありとあらゆらない君」という語が「ひきがえる」に向けられてよいのか、という問題によってである。向けられ得る言葉である、とは先述の通りだが、また向けられて即座に飲み込めるか、というのはまた別の話だ。そもそも「君」という語がある程度同一の視線を保持している者に向かって用いられるという性質を強く有している語ではない。多くの場合人間のみに向けられ、そうでない場合(つまり人間存在以外に用いられる場合)は比喩的な用法としての印象を抜け出すのがほとんどの場合困難であろう。そして、その「君」の一様態であるらしい「ありとあらゆらない君」という造語が、誕生とともに「ひきがえる」という人間と離れた生物への語として用いられるのは、なおもって違和感を免れ得ないだろう。ゆえに、この点からも「ありとあらゆらない君」は即ち「ひきがえる」、とはなり得ない。

 そんなわけで、読者は「ひきがえる」だけでなく「君」で示される別の人の存在を考えざるを得なくなる。となると、「君」とはいったい誰なのか?この句を読んでいる読者である私自身だろうか、それとも作者にとって大事な誰かだろうか。実は、ここで誰を思い浮かべるかは重要ではない。なぜなら、誰を思ってもそこには同時に「ひきがえる」がいるからだ。
 勘違いしてはいけないのだが、「ありとあらゆらない君だ」が「ひきがえる」のみに向けられたものではないからといって、「ひきがえる」に向けられなくなったわけではないということである。「ありとあらゆらない君だ」を完全に「ひきがえる」から切り離してしまうのならば、やはりその「ひきがえる」は何のためにここに置かれているのだろうか。たとえこの句をどれだけ努力して「君」のためだけのものとして読もうとしたとしても、決してその試みは成功することがないだろう。それは、「ひきがえる」にいくら集中しようとしても、「君」が視界に入ることを免れ得なかったように。そう、「ありとあらゆらない君」とはひきがえるでもある●●●●のだ。
 「ひきがえる」と「君」という、様々な点で乖離した二者を包括して肯定するこの力強い句は、ただ特定二者への肯定ではない。かけ離れた両者を「ありとあらゆらない」という言葉で結びつけると同時に、その間にある無数の存在を「君」に受け入れていき、そしてそのすべてを肯定していく。今この俳句を読んでいる「わたし」でさえも。
 この時、あなたは「わたし」で、「ひきがえる」で、そして「ありとあらゆらない君」になるのだ。

 さて、ここまで読んで先の文章と一種の矛盾があるように感じられるかもしれない。この17音は、唯一無二の「ありとあらゆらない君」のための詩ではなかったのか?どこの馬の骨ともわからない「ひきがえる」だったり、果てはあらゆる読者なんて途方もないものなどに同時に向けられるのはおかしい、と。しかし、むしろその矛盾こそが「詩」なのではないか。
 本当にただ一人のある読み手のための詩ならばそれは、もはや「詩」である必要がない。手紙でよいし、もはや書かれる必要すらないかもしれない。それは耳打ちでよいのだ。誤解を招かないよう言うと、これはそのような「ことば」が価値の低いものだと貶めるのではない。何かを伝えるための言葉が発したものから受け取るものへと一直線につながる、むしろこれほど尊いことがあるだろうか。
 しかし、この作品はそういった「ことば」ではない。詩として産み落とされ、そしてそれが発表されて句集という形式で世に投げられたのだ。つまり、その意味では「最も尊く」はなりえなかった。なにゆえに?それは、この「ことば」の受け手(つまり「君」)が、書かれた今存在せず、もしかするとこの先も未来永劫存在しないかもしれないために。決してこれは確定された「君」のための「ことば」ではない。だからこそ、「ひきがえる」と書かなければならないのだ。そして、限りない「君」に向かなければならないのだ。それでこそ、ある一人によって書かれ、世界によって放たれた詩なのである。
 
 「ありとあらゆらない君だ」という、これだけでは作者と「君」の間の閉じた言葉は「ひきがえる」という言葉の導入によってコミュニケーションとしては壊れ、同時に詩として萌芽する。第三者であり同時に当事者である「ひきがえる」の登場が、二人称の肯定をすべての人への肯定へと発展させるのである。それは単なる「君たち」ではない。一人一人の「君」と結び直される関係なのだ。それこそが、詩なのだ。

5.そして

 今この句について書けることは書ききった、と思う。長ったらしくわかりづらく回り道ばかりの拙文であろうが、その内容について何ら恥じるところはない。短く鮮やかな賢い言葉では切り捨てられてしまうものを、少しでも掬い上げられていたならば嬉しく思う。
 一年後の自分にこの句について書けることはきっともっとあるかもしれない。だが、それがここに書かれていないことは問題ではない。冒頭に述べたとおり、「今のわたし」を「今の言葉」で書くのだ。

 さて、長々書いてきて梯子を外すようで恐縮だが、私はこの文章を読んだ人に別にこの句のことをよい句だと思ってほしくなどはないし、そもそもこの句のことを称揚されるべき名句だとは思っていない。私にとって切り離せない一句であるというだけだ。ただ、同時に私はこの句を後に俳句史のマイルストーンとして記され得る句だとも思う。その「名句ではなさ」によって。そして、そうたらしめ得るとしたらやはりそれはこの句をかけがえなく思う者によってであろう。

 せっかくこれだけ長ったらしい文章なので、それっぽいことを最後に書いて終わりたい。変化とは、いつか始まるのではない。いつだって、既に始まっているのだ。そして、重要なのはそれに気づくかではない。それを受け止められるか、そしてそれとともに走り出せるかだ。

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