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学生寮物語 15

15 絶体絶命 
 帰りは東京方面に向かう大村やおいどんたちと一緒だった。翔は彼らを見ていて、ふと思った。
 自分は小学校では人見知りではきはきしない児童と言われ、中学では真面目で目立たない生徒と言われた。それでも中学の野球部ではキャプテンを務め、高校では生徒会副会長にもなった。すべてまじめさが所以のことであった。だが自分は、金城や大村やおいどんのように、かつてこれほど他人に親身になどなったことはあっただろうかと自問した。
 翔は競争原理の下で部活も勉強も頑張ってきた。兄弟は4人いた。
 12歳年上の長男は、病気の父の代わりに定時制高校に通い家計を支えた。昼間は炭鉱の選炭場で、真っ黒になりながら石炭を砕いていた。誰よりも無口で、全日制の同級生に高校へ通う駅ですれ違いざまにからかわれても何も言わなかった。
 10歳上の長女は、全日制の高校に通い、兄が馬鹿にされているのを知っていた。兄とは違い誰よりも気が強く、活動的な姉は、学年でも姉御肌で人気があり、男女問わず友達が多かった。だから共同浴場(銭湯)や映画館や店などで兄がからかわれているのを見ると、代わりに10倍も言い返した。相手が男でも、先輩でも、決してひるむことはなかった。
 6歳上の次女は大人しかったが聡明で美人だった。小、中と成績は学年でトップだった。高校生になっても他の中学校から来た秀才男子と学年の1、2番を争っていた。だが貧しさゆえに北大への進学は諦めた。炭鉱が閉山後も一人北海道に残った。その後ドラマティックな人生を送り27歳で夭折した。家族の悲しみは深かった。
 そんな兄弟を見ていた翔は、人より努力すれば成績が上がることを知っていた。先輩のいびりにも耐えて野球部でもレギュラーを獲得し、キャプテンにまでなった。でもすべて自分のためだけであった。
 高校生になり、自我に目覚めたのか、近代文学のとりこになった。夏目漱石にはじまり、島崎藤村、志賀直哉、太宰治や三島由紀夫など日本の作家を読み漁った。外国文学は登場人物の名前が覚えられなかったので苦手だった。
 彼らから人間の自我について学び、人間の業の深さを知った。だから自分だけに固執する生き方は止めようと思った。そして他人との競争も止め、もっと視野を広げようと思った。まるで出家した人みたいに。
 まず初めに生徒のための生徒会を作ろうと転校先の高校の役員選挙に立候補した。当選後、役員たちと自分たちのための生徒会に変革しようと連日話し合った。そして生徒にも呼びかけた。
 でも誰もそんなことを望んではいなかった。今までの活動を踏襲するだけだった。知らず知らずの内に、挫折感と脱力感を肩と背中に背負って、翔は新しい歩みを止めた。簡単に絶望しすぎだと分かっていたが受験勉強にも熱が入らず、今日までなんとなく生きてきた。
 そんな翔にとって学生寮の仲間は、自分に多くのものを与えてくれた。自分は寮での経験を、自分の人生に生かさなくてはならないという使命感みたいなものを抱いた。
 名古屋から帰ってきた翌日の空は、やや薄墨がかっていた。だが計画通り部活動の練習を実施した。
 スコアーブックを開いて、副顧問から昨日の練習試合の報告を聞いた。他地区の強豪チームは四死球やエラーなどで簡単には得点を与えてくれない。だから僅差の試合が多かった。自分のチームにはまだエラーや四球が多かった。まだまだ完成度が低いと感じた。
 ピークは地区大会の決勝、つまり7月初旬だ。これからは細かいことは省いて、克服すべき課題をいくつかに絞った。
 練習試合で失点したシチュエーションで、ノックをして守備練習をした。得点できなかったシチュエーションでバッティングやバント、エンドランの練習を行った。そうやって、どの場面で自分たちは何をしたらいいか理屈と体で覚えさせた。
 生徒たちは真摯に取り組んだ。学校生活では優等生として注目されることはなかったが、部活動の時間は別人だった。だからこそ彼女らには成功体験とプライドを持たせたいと翔は願っていた。
 練習試合を行う。そして反省をし、課題を見つける。対策を練って練習し、克服する努力をする。そしてまた練習試合迎える。何度もこのサイクルを繰り返していたら、いつのまにか中体連地区大会当日を迎えていた。
 一日目はリーグ戦だった。
 リーグはAからDまでの4つあった。各リーグ3チームなので、試合は二試合あったが3年生エースと2年生エースがそれぞれ完投し、打線もつながり完勝した。
 翌日は各リーグの2位までが決勝トーナメントに進んだ。試合は準々決勝からスタートした。
 N中ソフト部はAリーグ1位だったので、準決勝からの登場になった。試合には2年生エースが先発した。球は早いが四死球が多いので心配だった。
 この試合には県大会の出場権がかかっていた。そのせいでみんな緊張していた。だが相手打線を封じるには3年生エースMの制球力よりも、球が速い2年生エースNの球威が必要だった。
 試合が始まるとやはりプレッシャーのせいでピッチャーの表情も動きも硬かった。やはり力んでストライクが入らなかった。四球の後はストライクを取りにいって打たれた。悪循環である。それでいきなり失点した。
 何点かは取られるだろうと想定はしていた。だが初回で四失点はさすがにまずい。交代時期を考えていたら、それもつかの間、二回にも三点を失った。計七点、このままでは5回コールド負けである。
 N中ソフトボール部は絶体絶命のピンチを迎えていた。
 

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